第7話 紀州の八咫烏と、三本の足で踏み潰す呪い
不帰のトンネルの中は、外の光が一切届かない、粘度の高い闇に満ちていた。
一歩足を踏み入れるごとに、ひたひたと足元から冷気が這い上がり、鼻を突く死んだ蛇の悪臭が濃くなっていく。
「……あー、靴に何かネバネバしたのが付いた。これ、洗濯で落ちるかなあ」
「悠真殿、そのような場合ではございません! 鐘の音が、先ほどよりも強うございます……っ!」
沙羅が険しい表情で、護符を構えながら周囲を警戒する。彼女の視る力には、トンネルの奥から波打つように押し寄せる、歪んだ呪いの波動が捉えられていた。
「ヒィ……ヒィ……ッ!」
二人の後ろで、健斗がガタガタと歯を鳴らして震えていた。
彼の顔色はじっとりと土色に変色し、制服の隙間から覗く首筋や手首には、すでに黒い鱗がびっしりと生え揃い、皮膚を侵食し始めている。
――ゴォォォォォォォォン……!
突如、トンネルの奥から、鼓膜を破らんばかりの巨大な鐘の音が響き渡った。
音が空間を振動させた瞬間、周囲の闇が物理的な重さを持って襲いかかってくる。
「……ッ!? 空間が、折り畳まれて……っ!」
沙羅の悲鳴。
悠真たちの視界が、まるで鏡が割れるように、複雑な多面体に歪んだ。
闇の中から、その歪みに沿って、何百、何千という黒い蛇の群れが這い出してくる。その蛇の一匹一匹に、人間の苦悶の顔が浮かび上がっていた。
『……恨メシイ……鐘ノ音ニ……焼カレロ……』
蛇たちが一斉に健斗へ襲いかかる。彼を闇の奥へと引きずり込み、空間ごと「折り畳んで」消失させるつもりだ。
「悠真、助け……っ!」
健斗の体が一瞬にして蛇の群れに飲み込まれ、空間の歪みの中に吸い込まれようとする。
「……あーあ。母さんにも言われたけどさ」
悠真が、カフェオレの空きパックを無造作に放り投げた。
「一般人の友達を巻き込むのは、ルール違反だろ」
悠真がポケットから御朱印帳を取り出し、ページを開くこともなく、ただ強く握りしめた。
――刹那。
悠真の身体から、常人には不可知の、圧倒的な『霊圧』が放出された。
バキバキと音を立てて、悠真の黒髪が根元から眩い白銀へと変色していく。瞳は冷徹な琥珀色に輝き、その背後には、次元さえもねじ曲げる光の輪が浮かび上がった。
「な……ッ!?」
沙羅は、その圧倒的な神威に息を呑んだ。
以前、新潟で見せた『七〇点』の姿。
いや、健斗を守るため、今回はそれ以上に、少し本気に近い力が放出されている。
『……何ダ……この光ハ……!?』
悠真から放たれる霊圧に触れた瞬間、襲いかかっていた蛇の群れが悲鳴を上げて霧散した。健斗を吸い込もうとしていた空間の歪みも、悠真の存在そのものによって強制的に平坦に押し潰される。
「……不遜なり。神代の領域にて、我が友を拉し去ろうとする無礼、その魂の消滅を以て償え」
口調が、超越者のものへと変わる。
悠真は白銀の髪を揺らしながら、御朱印帳の『和歌山(紀伊)』のページを開き、そこに記された、三本足の鴉と荒ぶる波の印を指で強く弾いた。
「熊野の鴉よ。……我が命に応じ、この地に鎮座する穢れを、その神足にて踏み潰せ」
御朱印が黄金に発光した瞬間、トンネルの闇が切り裂かれた。
――ギャァァァァァァァッ!!
耳を打つ、神聖な鴉の咆哮。
顕現したのは、身の丈二十メートルはあろうかという、漆黒の巨大な八咫烏だ。
その体は、全ての闇を焼き尽くす『太陽の神火』を纏い、トンネル全体を昼間のような光で照らし出した。
『……神ノ……鴉……ッ!?』
闇の奥に潜んでいた、蛇の呪いの本体――道成寺の清姫伝説を歪めて作られた怨霊が、その姿を現した。巨大な鐘の中に身を潜め、巨大な蛇の体を鐘に巻き付けた姿。
『……ノロ……イ……焼ケロ……ッ!』
怨霊が鐘を打ち鳴らそうとする。
だが、八咫烏はそれを許さなかった。
巨大な鴉は、怨霊に向けて飛翔すると、その悍ましい姿を、そして呪いの源である巨大な鐘を――
その『三本の神足』で、容赦なく上空から踏み潰した。
――グシャァァァァァァァァッ!!
金属がひしゃげる凄まじい轟音と共に、怨霊も、鐘も、空間を歪めていた呪いも、八咫烏の三本の足の下で、完全に粉砕された。
神火が、粉砕された呪いの残滓を一瞬にして浄化し、灰一つ残さず焼き尽くす。
トンネル内を支配していた悪臭も、冷気も、空間の歪みも、霧散した。
後には、静まり返った廃道と、黄金の光を放ちながら悠真の前に降り立った八咫烏だけが残されていた。
『……お見事です、我が主よ。紀伊の穢れ、これにて晴れました』
八咫烏は、悠真に恭しく頭を下げると、光の粒子となって消えていった。
「…………」
「…………」
沙羅も、健斗も、もはや言葉を失っていた。
特に健斗は、へたり込んだまま、自分の腕を見つめていた。先ほどまで生えていた黒い鱗が、八咫烏の光を浴びた瞬間に剥がれ落ち、元の白い皮膚に戻っていたのだ。
トンネルの奥、ひしゃげた鐘の残骸があった場所には、神隠しに遭っていた健斗の従兄弟が、気を失った状態で横たわっていた(折り畳まれていた体が戻っている)。
「……あ。白銀、戻るの時間かかるんだよな。……お腹すいた」
髪の色がゆっくりと黒に戻り始め、悠真はまたいつもの「やる気のない中学生」の口調に戻っていた。
「よし、健斗。従兄弟のアイツも無事みたいだし。……帰りに、和歌山ラーメン食べて帰るぞ。お前のおごりでな」
「……う、あ、ああ……! 悠真、ありがとう……! 本当に、ありがとう……ッ!!」
健斗が、悠真にしがみついて泣きじゃくる。
悠真は「だるいなあ」とため息をつきながら、沙羅に向かってひょいと手を振った。
「ほら、沙羅。和歌山ラーメン、スープが美味いんだぞ。……あ、帽子も買わなきゃ」
「……はい、悠真殿。どこまでも、お供いたします……」
白銀の姿を見た沙羅の瞳には、以前とは違う、深い畏敬と、そして確固たる忠誠が宿っていた。
二人の、そして健斗を加えた三人の、紀州遠征は、和歌山ラーメンの濃厚な醤油の香りと共に、幕を閉じた。




