第5話 新潟の潮騒と、白銀に染まる七〇点
「海だー! 悠真殿、あれが海というものですか! 広い、広うございます!」
新潟市内、万代シテイの喧騒の中。
沙羅は、美弥子に買ってもらった現代の私服(淡いワンピース)の裾を揺らし、目を輝かせていた。
今日は休日。長野から特急と新幹線を乗り継ぎ、二人は「現代の買い物」を楽しんでいた。
「……はしゃぎすぎ。日本海なんて、長野からすれば裏庭みたいなもんでしょ」
悠真は、地元産ル・レクチエ(洋梨)のソフトクリームを舐めながら、面倒くさそうに歩く。
だが、その瞬間だった。
――ピキッ、と。
鏡が割れるような音が、青空の下に響く。
次の瞬間、新潟の美しい港湾風景は、どす黒い『呪いの海』へと変貌した。
ショッピングモールの人々が次々と倒れ、影の中に引きずり込まれていく。
空は紫黒色に染まり、信濃川の河口から、巨大な平安の軍船が、霧を割りながら現れた。
「……見つけたぞ、巫女。そして、我が同胞を塵にした忌々しきガキめ」
船の舳先に立つのは、漆黒の甲冑を纏った男。平安の刺客、そのリーダー格である『怨将・景光』。
彼が掲げた刀から、数千もの影の兵が溢れ出し、街を埋め尽くしていく。
「悠真殿、いけません! この結界……街一つを完全に異界に沈めています! ここでは土地神の加護も――」
「……あー、うるさいな。買い物中だって言ってんだろ」
悠真が溜息をつき、御朱印帳を開く。
だが、今回はいつもの「適当な呼び出し」ではなかった。
「弥彦の旦那。悪いけど、周りの雑魚、掃除しといてくれる?」
御朱印から放たれた光が、黄金の稲穂となって街を駆け抜ける。
新潟の守護神、天香山命が、その神気を帯びた矢を放ち、数千の影兵を一瞬で消し飛ばした。
「なっ……結界内でこれほどの神を!? だが、本体である私を倒さぬ限り、この呪いは解けぬ!」
景光が、音を置き去りにする速度で悠真へ肉薄する。
呪いを凝縮した刃が、悠真の首筋に迫る――。
「……七〇点、くらいかな」
ボソリ、と。
悠真が呟いた瞬間、空気の『密度』が変わった。
バキバキと音を立てて、悠真の黒髪が根元から眩いばかりの『白銀』へと変色していく。
瞳は冷徹なまでの琥珀色に輝き、その背後には、この世の理を超越した『巨大な光の輪』が浮かび上がった。
景光の刀が、悠真の首に触れる直前で止まる。
いや、触れられないのだ。
悠真から溢れ出す圧倒的な『霊圧』が、物理法則さえもねじ曲げている。
「……不遜なり。我が憩いの時間を汚した罪、その魂の消滅を以て償え」
口調が変わった。
現代の少年・悠真ではない。数多の神々を屈服させ、その名を御朱印帳に刻ませた『神代の王』の言葉。
「な……貴様、何者だ……!? その姿、まさか……!」
「問うに及ばず。……【神代式・九字断絶】」
悠真が、印を結ぶこともなく、ただ一言、言霊を放つ。
空中に浮かび上がった九つの黄金の文字が、景光の身体を貫き、縫い止めた。
「ぐ、あ、あああぁぁぁぁっ! 体が、存在が……消えていく……!?」
「七割の出力だ。跡形も残らぬのは、貴様の魂が脆すぎる故よ」
悠真が指をパチンと鳴らす。
刹那、リーダー格の怨将は、叫び声を上げる暇もなく、極光の柱となって空へと霧散した。
張られていた本格的な結界も、まるで紙細工が燃え落ちるように、一瞬で崩壊していく。
――数秒後。
新潟の街には、何事もなかったかのように平和な潮騒と、人々の雑踏が戻っていた。
「……あ。白銀、戻るの時間かかるんだよな。帽子買わなきゃ」
髪の色がゆっくりと黒に戻り始め、悠真はまたいつもの「やる気のない中学生」の口調に戻っていた。
隣で腰を抜かしている沙羅に、悠真はひょいと手を貸す。
「ほら、沙羅。ル・レクチエ、溶ける前に食べろよ。……あ、帽子代、母さんに請求しといて」
沙羅は、震える手で悠真の服の裾を掴んだ。
先ほど見た、あの冷徹で神々しい白銀の姿。
救世主などという言葉では足りない。
彼女の隣にいるのは、この世界の深淵そのものなのだと、彼女は確信した。
「……はい、悠真殿。どこまでも、お供いたします……」
海風に吹かれながら、二人の買い物は再開された。
悠真の「本気」の片鱗を見た沙羅の瞳には、以前とは違う、深い熱が宿っていた。




