淀んだ影、血の煙。
研究施設の中には何とも言い表しづらい違和感のようなものが渦巻いていた。それに対して嫌な予感を覚える者も居たが、それを現実的な懸念として行動する者は誰も居なかった。
「おい、クリス。居るんだろ?」
研究者らしい白衣に身を包んだ男が一人、扉を叩いていた。日本人らしくない強面をした中年の男は、何度か扉を叩いた後に溜息を吐き、扉を開いた。
「まさか、寝てる訳じゃ……何だこりゃ」
扉を開いた先には、実験を途中で放り出したように器具が置かれたままの実験室があった。そこに、クリスと呼ばれた男の姿は無い。
「これ、途中じゃねぇかよ……あぁ、ダメだな。もう殆ど飽和し切ってやがる」
男は溜息を吐き、懐から携帯を取り出した。
「ったく、死ぬ程トイレにでも行きたかったのか?」
言いながら、クリスの連絡先を見つけ出し、直ぐに電話を掛ける男。しかし、何度コールしても電話に応答は無い。
「……変だな」
男は眉を顰め、そこで漸く異変に気付いた。一先ずはこの部屋から出ようと踵を返す男だが、そこにある筈の白い扉は真っ黒に染まっていた。
「ッ、何だよ……!?」
男は注視して、その扉が黒く染まっている訳では無いことに気付いた。それは、覆われているのだ。液体のように蠢く闇によって。
更に観察しようと目を細め、一歩近付く男。その研究者としての好奇心と観察力によって、男はその闇の正体に辿り着いた。
「これ、は――――」
影だ。扉から跳ね飛んだ影が、男の体に纏わりついた。男は目を見開き、後ろに倒れ込む。慌てつつも、魔力を体から放出することで影を追い払おうとする男。
「カァ、残念ながらお前は保護対象じゃないらしい」
「ッ!?」
影がより強く男の体を抑え付けた。どこからか響いた声に周囲を探す男。しかし、その間にも影は男の体を覆い尽くし、ずぶずぶと、押し込んでいく。
(……押し込む?)
どこに。その疑問に、男は自分が倒れ込んでいた実験室の地面を見た。
「ま、沈んどけよ」
そこには、闇が広がっていた。いや、影だ。暗く淀んだ影が、男を呑み込もうとしていた。
「ッ! んぐ、ッ、ッッ!!!」
体全体を影に覆われた男は、当然声を出すことすら出来ない。焦燥と不安、恐怖と怒り、全てが綯い交ぜになったような表情で沈んでいく男。最後には、その表情も絶望だけに染められていた。
「まだ、ぶっ殺すフェーズじゃねえんだけどな。まぁでも、気付いちまった方が悪いってことでな」
誰にも見えないカラスがその場から消えると、影に呑まれていた実験室は何事もなかったかのようにいつも通りの姿を取り戻していた。
♢
次々に、次々に、人が減っていく。消えていく。施設の中から、何処へともなく。違和感の正体が、それであるとも気付けずに。
「――――ふふっ」
血の煙が、現れる。誰にも見えず、気付かれることなく、少女はそこに立っていた。満月のように美しい黄金色の髪を揺らし、真紅の目が十数人が働く研究室を眺めていた。
「貴方は、良い子。貴方は、悪い子。貴方も、悪い子……あーあ、悪い子ばっかりね」
その細い指先が持ち上げられると、研究室を歩く男の首筋に突き刺さる。男は目を見開き、そこから血を注がれると、荒く息を吐き出した。
『誰も入ってこないように、外で扉を見張っておいて。出来るわよね?』
「はい……」
少女の姿こそ見えていないものの、明らかに様子のおかしい男に、研究室の面々は気付いていた。
「おい、どうした? 急にどこに行くつもりだ?」
「すみません、とても気分が良くて……あぁいえ、気分が悪くて……少し、外の空気を吸ってきます」
「は? 大丈夫か……?」
怪訝そうな表情をしながらも、その場のリーダーらしき男は研究室を去って行く研究員を見送った。
「まぁ良い。各自、作業を続けてくれ」
言いながらも、リーダーの男は研究員が去って行った扉の方を睨んでいた。
「……特に、脳機能に異常が出るような有害物質は出ていない筈だが」
明らかに気分が悪いだけでは無いように見えた研究員について考える男だが、その思考も頭を振って振り切ると、念の為に皆の様子も確認しておこうと視線を彷徨わせた。
「…………どういう、ことだ」
誰一人、この研究室の中で見つけることは出来なかった。男は息を呑み、周囲を再び見回した。いつも通りの筈の研究室には、少し霧がかかっている。
「この一瞬で、何処に消えた? いや、皆が消えたのではなく、私に何らかの異常があると考える方が自然……」
考えを口に出しながら悩む男の肩に、小さな手が乗った。
「あら、賢いのね」
「ッ!?」
男はその手を振り払い、振り返ってそこを睨んだ。だが、何もない。誰も、立ってなど居ない。
「でも、残念。無事って訳じゃないわ。もう、貴方が最後ね」
「ッ、何だと……!? 殺されたのか!? この一瞬だけで、気付かれることも無く……?」
考え込む男は、最後に一つの疑問に思い当たる。
「何故、私は殺していない?」
既に、殺すには十分な時間があった筈だ。今でさえ、相手は簡単に背後を取って殺すことが出来る。
「だって、貴方は少なくとも彼らを取り纏めていたリーダーなんでしょう? きっと色々なことを知っているし、役に立つわ」
「……なるほど、分かった。抵抗はしない。何から話せば良い?」
状況を理解した男は、そう問いかけた。だが、見えない少女は不思議そうに首を傾げるだけだった。それも、男には見えていないが。
「何もしなくて良いわ? ただ、そこに立っているだけで良いのよ」
「何を、言って……」
男の体が、ふらりと揺れた。赤い霧の中で。
「だって、もう終わるもの」
男の目が、蕩けたように揺れ動く。その目は、見えない筈のメイアを幻視していた。
「ぁ」
「ふふっ」
夢幻の霧。幻覚を見せる白い霧であるそれは、メイアの血が混じり赤く染まっていた。
「支配の上書きは出来なかったけれど……まぁ、暫く寝ててもらいましょ」
赤い霧の満ちた部屋の中には、十人程度が立っており、残りの二人だけは地面に倒れたままになっていた。その二人は、今も幻覚の世界の中に眠っている。




