第九話 一周目(1)
幸生が生まれたのは、山に囲まれた名もなき農村だった。何度も飢饉の憂き目にあいながら細々と耐え忍び、生き延びてきた小さな集落。そこに生きるものはみな家族であり、助け合って生活していた。
幸生は三人きょうだいの末っ子だった。四歳になったある朝、幸生の顔を見たきょうだいたちが悲鳴を上げた。慌てて川へ行き、その水面に己の顔を映したとき、幸生もまた悲鳴を上げた。額、頬、顎……顔面のいたるところがぞっとするほど醜い痘痕に覆われていたのだ。
幸生の顔に起こった異変はたちまち村中に伝わった。幸生の顔を見た者すべてが「呪いだ」「祟りだ」と恐れ、今にも崩れそうな古い小屋に幸生を幽閉した。
暗闇の中、幸生は全身が焼き焦がされるような熱に三日三晩うなされた。激しいかゆみが伴い、苦しみにあえいでも、だれも助けてはくれなかった。
ある日扉が開けられ、幸生の前に母親が現れた。助けに来てくれたのだ――そう思ったのもつかの間、母親はすさまじい形相で幸生の着物をつかむと、村の中央にずるずると引きずっていった。
周囲には村人たちが集まっていた。幸生のきょうだいも、かつての友達も、村長もいた。すべての人の目の前で、母親は幸生を木の柱にくくりつけ、燃える松明を握りしめ……赤々と踊る炎の舌で、幸生の顔を焼いた。
絶叫が耳をつんざいた。それが己の喉から出たものである自覚はなかった。この世のものとは思えない地獄の痛みと恐怖、全身が引き裂かれるような苦痛に飲み込まれ、ただ獣のように吠え続けるしかなかったのだ。
こうして幸生の呪いは「浄化」され、小屋から出ることを許された。だが誰も幸生に近づかなかった。目を合わせようともしない。それもそのはずだった。小屋に閉じ込められているあいだ、幸生の体に宿った「呪い」は顔の皮膚を浸食しつづけ、醜く変貌させたのだ。その上、炎に焼かれ爛れてしまい、幸生の顔を見た乳飲み子は泣き、子どもたちは「悪鬼」と罵り石を投げ、大人たちは見えていないかのようにふるまった。
醜い。
汚い。
穢らわしい。
よるな。
見るな。
近くで息をするな。
……。
ある日、幸生は言いつけられた用事を済ませたあと、家に戻らず林の中をさまよった。もはや家族のだれも、幸生が戻らずとも気にしない。幸生のせいで村八分にされ死にかけたのだから仕方のないことである。だからひとりで林に踏み入り、その奥に見つけた小さな穴蔵で過ごすようになった。
ふと見れば、穴蔵の入口にひらひらと蝶が飛んでいる。真っ白で美しい翅が、はらはら舞う雪のように綺麗で、気づけば幸生は手を伸ばし、その翅を摘まんでいた。
近くで見れば見るほど、それは美しかった。途端、幸生は腹の底から強烈な何かが湧き出るような感覚を覚えた。
自分はこんなにも醜いのに、どうしてこいつはこんなにも美しくいられるのだろう。
花を見れば誰もが微笑む。小鳥のさえずりを聞けばみんな笑顔で耳をそばだてる。沈む夕日にため息をつき、村の女子には愛しげに目を細め――ああ、ああ、そのすべてが遠い。彼らに比べれば己はまるで、地の底に蠢く虫螻のようだった。どんなに手を伸ばしても届かない。いや、むしろ手を伸ばすことさえおこがましい、許されるはずのない存在……
なのに。美しいものが今、自分の手の中にある。いとも簡単に翅を毟り胴を潰すことができる。その状況に幸生はすさまじい高揚を感じていた。
捕らわれた哀れな蝶は胴をつぶされあっけなく死んだ。残された美しい翅を、幸生は丁寧に摘まんで取り外し、穴蔵の奥にそっと隠した。
夏がおとずれ、それも去り、山が赤々と色づきはじめた頃、幸生は林に迷い込んでいた旅人を介抱した。
旅人は男で、顔に傷があり、腕や背中におどろおどろしい刺青が入っていた。男の腹には銃創があり、血のにじむ生傷があちこちにあった。幸生はひとりで山ごもりしていた経験から薬草を煎じ、傷の処置をして寝かせてやったのだ。
男は幸生に感謝した。幸生の凄まじい顔には一瞬おどろいていたが、それよりも彼がおののいたのは、穴蔵の奥にある幸生の宝物たちだった。
「おまえさん、ありゃ――何をやってる」
石壁一面にびっしりと貼り付けられた蝶の死骸。鳥の羽根。獣の目玉……幸生は自慢の宝物たちに注目され、頬を熱くした。
「僕の、蒐集品なんです」
男は「ははあ」と頭を掻いた。「なるほど、蒐集品か……」
すぐそばに村があるのに穴蔵で生きている幼い少年。その異様な顔。歪んだ展示物……男は何か、深く事情を察してくれたらしい。
「坊主。おまえ、傷の処置がうまいな。おまけに手先も器用なようだ。ろくに学校なぞ言ってなかろうに、受け答えに知性がある。おまえの才能を買いたい」
男は懐に手を入れ、キセルと燐寸を取り出した。
「俺のところで働け。勉強して医者になれ。そうすりゃおまえは一人前になれる」
「医者、に……?」
「そうだ。ま、普通の医者じゃねえがな。俺みたいなのばっかり相手にすることになる。お天道様の下もろくに歩けねえようになるわな。それでいいなら、選べ」
もとより、太陽の下など歩いていない。日陰から日陰に移るだけ。――幸生はなんの迷いもなく、男の誘いに乗った。
こうして幸生は侠客に拾われ、極道である黑鉦会の世話になるようになった。幸生を拾った男は岡本といい、黑鉦会の若頭で、別組織に命を狙われからくも逃げだし、あの山中をさまよっていたのだという。
若頭の命の恩人であり、将来有望だとお墨付きまで得ている幸生は組員たちから思わぬ厚遇を受けた。彼らは贔屓にしている闇医者の元へ幸生を送り込み、その医術を叩き込んだ。
闇医者は元々、帝都のエリート軍医であったらしく、独語や蘭語、仏語までもを操れた。幸生は彼の元でひたすら勉強し、医学書を読みあさり、日々抗争で運び込まれる組員たちの治療を手伝いながら「医者」になっていったのだった。
そうして、幸生は三〇歳になった。岡本は組長となり、幸生は闇医者の医院を継いだ。
幸生には前任者の自宅がそのまま与えられた。医院の二階が住処である。幸生は階段脇の小さな物置を寝床にして、寝室一面を〝蒐集品〟で埋め尽くした。
ガラスケースにピンで留められ整然と並ぶ蝶々。生きたままの姿で翼を広げる小鳥。珍しい毛並みの猫。しなやかな指先を持つ白い手首のホルマリン漬け……
ただ羽根を毟るだけだったときとは違う。剥製にして、美しい姿のまま手元に置いておく。だが手に入れても飾っても眺め尽くしてもまだ、足りない。渇く。決して満たされない飢えと渇きに支配され、抗うことなどできない。
そんな彼はついに、出会ってしまったのだ。
今までの蒐集品などすべて色あせ朽ちてしまうほどの美の化身――高久絢華に、魅入られてしまったのだ。
高久晋一郎から依頼を受け、初めて屋敷を訪れたとき、絢華の姿を目の当たりにした幸生はあらゆる言葉を失った。
褥に寝そべる絢華の体は硝子細工のように繊細で、さらさらと流れる黒髪や伏し目がちな長い睫毛、ほっそりと長い指先も相まって霞のように儚く見えた。一方で、その大きな黒い瞳には一切の光がなく、むしろ周囲の光を吸いつくさんとするような禍々しささえ宿っていた。
彼女は精巧な人形のごとき風貌とは裏腹に、驚くほど横暴で意地が悪く、ひどい癇癪持ちだった。病人でなければ手がつけられないほど暴れていたかもしれない。彼女は幸生を見るたび
「さわらないで!」「近寄らないで!」
と叫び、診察を拒んだ。
生まれながらに有り余るほどの美しさを持つ娘だ。幸生の醜く汚らしい風貌に我慢ができなかったのだろうと察したが、依頼を辞退する気にはなれなかった。どうにかして、彼女の顔を拝み続けていたかった。あまりにも、あまりにも、あまりにも……美しいから。容貌だけでなく、鼻持ちならない傲慢な振る舞いさえ眩しく、遠い存在であったから。
拒まれれば辛抱強く待ち、彼女の病状を見抜いて少しでも楽になる薬を与え、医者としての信頼を積み重ねた。通い続けるうちに、彼女は幸生の診察を拒まなくなった。
屋敷に通いだしてから二ヶ月ほど経ったある日、幸生は絢華の診察中、その背にちらばる赤い吸い跡を見つけてしまった。
これはいったい誰によるものか――うろたえる幸生には気づかず、絢華は無邪気に部屋の隅にある衣桁を指さして、
「あれ、いいでしょう。新しい着物よ。裾とお袖にレエスがついているの、レエスの半襟もあるのよ」
と自慢してきた。「お父様におねだりしたの」と、屈託なく。
幸生はその笑みに違和感を覚えた。診察を終え、部屋を出て、帰路につくあいだ、その笑みを何度も思い出して、ようやく気がついた。
目が笑っていなかった。口は微笑み、目元は細められていたが、瞳は空虚だった。あの美しい禍々しさもない。何もかも枯れて、乾ききったような空っぽの瞳がそこにあった。
屋敷に通い続けるうち、栄華を極める高久財閥のいびつな家庭事情がいやでも見えてきた。高久晋一郎は絢華の母である千草を溺愛していたが、彼女は実家の馬丁と駆け落ちし心中。この醜聞によって高久家の商売は一時低迷していたが、その危機を救わんと手を差し伸べたのが後妻の富貴。富貴は晋一郎を愛しており、すぐに二人の子を産んだが、晋一郎の心が未だ先妻に囚われたままで、しかも先妻の生き写しのような娘に醜い劣情を抱いている事実に気づき、絢華に激しい嫉妬を向けている……。
絢華の背中を汚した犯人もこれで察しがついた。だが解せないのは絢華のほうから父親を誘っている事実があること。
あるとき絢華が「お父様におねだりしたの」と舶来品の外套を見せびらかしてきたとき、幸生は思わず口に出してしまっていた。
「もう、やめませんか。そういうことは」
絢華がきょとんと目をまたたく。幸生ははっと我に返った。
自分は何を言っているのだろう。彼女がどこで何をしていようと、知ったことではないのに。
「ほしいものをお父様におねだりするのがなぜいけないの?」
「あなたのしていることは、自傷行為ですよ」
意思に反して、勝手に言葉を紡いでしまう。
自分は彼女の美しい姿にしか関心がなかったはずなのに。彼女がどうなろうと関係がないのに。
いや、彼女の美しい体をこれ以上穢されたくないからだ。きっと、それだけだ。
「……おまえには関係ないわ」
絢華は不快そうに眉へ皺を寄せる。
「お説教される筋合いもない。おまえはただわたしを楽にすることだけを考えていればいいの」
「あなたの体はもう長くない。弱った体に無理を強いてはいけません」
「でも、どうせ相手は来るのよ! わたしの元に!」
絢華は声を荒げた。
「どうせ来るの……拒んだって来るの……だって、わたしはあの人のお金で生かされてる。ねえ、どうせ避けられないことなら、せめて利用してやらなきゃって思わない? 代償としていいものをたくさん買ってもらって……わたしのことが嫌いで嫌いで仕方ない人たちに見せびらかしてやるの。そうやって愉しんでやろうって決めたの。おまえにどうこう言われる筋合いはないわ!」
振り絞るような声と共に、乾いた笑いを喉にのぼらせる。
「それにねえ……あの人、年老いたせいで不能なの。ふふ……ただわたしの体に追いすがって、情けない声で先妻の名を呼びながら、好き放題愛撫してるだけ。それでわたしは欲しいものが手に入る。こんなに得なことがあるかしら?」
「あなたはそうやって自分の心を麻痺させているだけだ。本当は……傷ついていらっしゃるはずです」
途端、幸生の顔面に鞠が直撃した。ころころと鈴の音を響かせながら畳の上を転がっていく。
「おまえに何がわかる」
次々と、いろんなものが飛んできては幸生の体に当たって落ちる。だが痛みは感じない。どれも驚くほど弱々しかった。
「外から見下ろして、偉そうに言って……」
「私はただ、あなたにこれ以上、苦しんでほしくないだけです」
幸生に物を投げつける手がぴたりと止まった。
「……どうして?」
絢華が真顔でたずねる。
「どうして、そこまでわたしのことを気にするの? ただのお医者にそこまでする理由はないでしょう」
――どうして、なのだろう。
彼女の言うとおり、自分はただの医者だ。治せもしない患者をできるだけ延命させてやるためだけの。
ただ、美しい彼女の姿をできるだけこの目に見ておきたい。死に際に立ち会えるならその様を目に焼きつけたい。そんな下心で辛抱強く通い詰めているだけなのに。どうしてこんなにも、彼女を取り囲む状況に怒りが湧いてくるのだろう。
「……自分でも、わかりません。でも、あなたが傷ついていることを想像すると、苦しくなります」
これは、事実だ。
「あなたが理不尽に穢されるのも、いやです」
「ふうん。……そう。……」
絢華はしばし、口をつぐんだまま目を伏せていた。そうしているとますます精巧に作られた人形のようで、幸生の心臓がどきどきと高鳴った。
ああ。
この姿のまま、彼女をこの世にとどめておけたら、どんなにいいだろう。
気づけば、引き結ばれていた彼女の唇が少しだけ緩んでいた。
「おまえは、優しいのね」
一切の光も存在しない、闇夜のような彼女の瞳に一瞬、きらりと光が揺れた。気がした。
「誰にでもそういうことを言っているの?」
「……いえ。普段は、このような話はそもそも……」
「じゃあ、もう誰にも言わないで」
白く細い人差し指を立て、自らの唇に押し当てる。
「わたしにだけ言って」
「……え、ええ」
「約束よ。その代わりわたしも、おまえに何か約束してあげる」
幸生は思わず身をこわばらせた。
「お嬢様が、私にですか」
「そうよ」
絢華は蠱惑的な微笑みを浮かべる。
「なんだっていいわ」
幸生はごくりと喉を鳴らした。
だが、言えるわけもない。
この心の奥にゆらめく、歪んだ醜い欲望など。
「そのように言っていただけるとは、思ってもみませんでした。……少し、考えさせてください」
「わかったわ。でも早く言わないと、わたしは死んでしまうわよ」
くすっと笑う絢華の、無邪気さと邪悪さの溶け合うような神秘的な美貌に、幸生はただただ、魅入られていた。魂が抜け出たように口を開けて。




