第八話 緋毒に死す
絢華の顔がみるみる凍りついていくのを見て、幸生は一気に夢から醒めた。
ちがう。それは、今はまだ言ってはいけないことだ。
もっと後に打ち明けるはずの言葉だった。それなのに……
「……今、なんて?」絢華は信じがたいような顔で幸生を凝視する。
「遺体を……剥製……?」
「いえ。なんでもありません、忘れてください」
後からどんなに否定しても、一度口から出た言葉は取り消しようもない。
絢華は自分の体を見下ろした。少しはだけた浴衣からのぞく白い肌を見つめ、そろそろと手指の先で触れる。
「おまえは……わたしの体が……遺体が目当てだったということ?」
ちがう、という言葉は、喉に引っかかってうまく出せなかった。
そうだ。そのとおりだ。
それが、当初からの願いだった。
かつて彼女も、それを許してくれた。約束してくれた。
(だが約束は、守られなかった)
「なんとか言いなさいよ!」
絢華が詰め寄る。その手が幸生の襟首をつかむ寸前で彼は後ずさり、距離を置いた。
「そうです。あなたが……あまりにも美しいので」
絢華の顔が悲痛に歪む。
取り澄ましていても、拗ねていても、笑っていても……悲しみに歪んでも、彼女は美しい。
自分とは違う。魂の在り方が。この世に生きる価値が、違う。手の届かない存在。どこまでも遠い存在。同じ人間であるはずなのに、この違いはなんなのか。
「おまえも、……わたしを見てはいないのね」
低く、かすかに、絢華がつぶやく。震える手でゆっくりと、首の傷に触れる。
「この体がほしくて……大切で……だから今まで……」
絢華の瞳が大きく潤んで、揺れた。
白い頬にひとしずく、真珠のような光の粒が落ちていく。咄嗟に絢華は羽織の袖で顔を覆った。
「お嬢様」
「出て行って」
苦しみを吐き出すように絢華は叫んだ。
「出て行って! もう、おまえなんていらない!」
幸生はしばし、その場に凍りついていた。だが絢華が「もう顔も見たくない」と告げると、彼は黙って立ち上がり、襖を開けた。
襖が閉まり、その足音が遠ざかるまで、絢華は顔を上げなかった。ただ静かに肩をふるわせ、かすかな嗚咽を漏らしていた。
***
あの日、雪の中で見た彼女の死体は、あまりにも残酷で、忘れ得ぬほどに美しかった。
その日、幸生は朝のうちに高久邸へ向かい、可能な限り絢華のそばにいるつもりだった。病が急激に悪化し、意識もなく、いつ召されてもおかしくない状態だったのだ。
屋敷に到着すると、何やら中庭のあたりが騒がしかった。青い顔で右往左往する下男を見つけたので何があったのか問いただすと、彼は「お嬢様が亡くなっていたんです、中庭で」と告げた。
彼の言葉をよく解しないまま、彼に連れられ中庭へ急ぐ。そうして目に飛び込んできたのは、一面の雪に散らばる毒々しいほどの赤い花弁――いや、血だった。季節外れの彼岸花が咲き乱れるかのごとき猩々緋の血だまりに、長い黒髪を振り乱した絢華が裸身で倒れている。その腹は無残にも切り裂かれ、臓腑が中から食い破ったかのように飛び出していた。
周囲には女中たちのえづいた跡が点在していたが、そんなものはどうでもいいくらい、幸生は絢華の死体に魅入っていた。
ああ、こんなになってまで。彼女は美しい。
だが同時に、どうしようもないほどの虚無がじわじわと胸の中を浸食していく。それはやがて、胸の奥にぽかりと大きな風穴を開けた。気づけば幸生は雪の中へ膝をついていた。
「約束、したのに」
約束したのに。
あなたが病で死ぬのを看取ったあと、その体をもらいうけ、剥製にする。あなたは少し蔑んだ目で「気持ち悪い願いね」と眉をひそめながらも、許してくれた。尽くしてくれたご褒美だと言って……
絢華の死体はすぐに火葬された。継母の手配により高久家の墓には入れず、墓地の片隅にひっそりと、名もなき墓標の下に葬られたのだ。
絢華の無残な死体を見た晋一郎は嘆き悲しみ、すっかり塞ぎ込んで抜け殻のようになってしまった。富貴はそんな彼を生き生きと介護し、実家から執事を呼んですべての経営を任せて息子に仕事を覚えさせているという。
富貴は最後に、幸生に多額の金を握らせた。
「今までご苦労様。あの手のかかる子からようやく解放されて、あなたもほっとしたでしょう」
ほほほと笑う富貴の顔はとても艶やかだった。絢華が生きていたころは嫉妬の鬼と化してずいぶん老け込んでいたのに、今やすべての重荷が取れたかのようにつやつやと若返っている。
ひと仕事を終えたとばかりの、あまりのすがすがしさに、幸生は思わず
「愛する人を取り戻せてよかったですね」
とつぶやいていた。
富貴ははじめ、「え?」と小首をかしげたが、すぐさま笑みをひきつらせた。
「……どういう意味かしら?」
「どうも何も、言葉のとおりですが」
富貴は青い顔できょろきょろと周囲を見回し、「な、何を根拠に?」と声をひそめる。愚かにも、それが不用意な自白であると気づかぬまま。
この一瞬のあいだに、幸生の聡い頭の中でひとつの可能性が組みあがっていった。
富貴は夫を愛している。それがいつごろからかは確証にないが、前の妻の存在を執拗に嫌い、彼女の忘れ形見である生き写しのような絢華を憎んでいた。娘に対しに父親ならざる感情を抱いている夫を見て、富貴は嫉妬に狂い……
だが、絢華は病人だった。ほうっておいてもすぐに死ぬ。わざわざ手をくだす必要がどこにあるのか。あれほど残虐な方法で……
――いや。
幸生はゆっくりと息を吸った。
「彼女を、美しいまま死なせたくなかったのでしょう。愛する人の目を醒まさせるために、遺体をめちゃくちゃに破壊した……もしもあのまま病死してしまったら、いよいよ彼の中で絢華の美貌は永遠のものになってしまう。そうなればもう、取り返しがつかない。彼は永遠にとらわれたままだ。先妻に生き写しの彼女に……」
血と内臓をまきちらし、肉の残骸となり果てたものを目にした晋一郎の衝撃はいかばかりであっただろう。
彼の中で、「千草」と「絢華」の思い出は封じられたはずだ。これこそが犯人の狙いであったとしたら。
富貴は顔面蒼白になりながらも、わななく唇で必死に笑みをとりつくろった。
「ほほ……それは……とてもおもしろい妄想ですわね……。でも、なんの証拠もないのでしょう? ねえ?」
そうだ。証拠はない。
すべて、ただの憶測にすぎない。犯人につながる痕跡は、一晩じゅう降り注いだ雪で完全に消されているだろう。富貴の息のかかった使用人が凶器の始末をし、取り調べを受けても口を割ろうとしないはずだ。
富貴は札束にさらに札束を重ね、幸生の手に押しつけた。
「でも、あんまりそういった……悪評を近所で立てられますと、迷惑ですから……どうかその口を閉じていていただけません? あなたはもう、この屋敷とは関係のない方なのですから」
とっさに「警察」の二文字が頭をよぎったが、すぐに内心で首を横に振った。
自分は裏社会の人間だ。表の社会で警察を関わり合いになってはいけない。
わかっているのに……目の前の夫人を殺してやりたくて仕方がなかった。獣のような衝動をおさえるために、幸生は目をそらし、金も受け取らずに屋敷を去った。
後日、彼は墓地を訪れた。真新しい名も無き墓石を真正面から見下ろす。
個人で墓石を持てるのは一部の限られた資産家だけだ。名前がなくとも、立ててもらえただけありがたく思え――それが富貴の主張なのかもしれない。
「お嬢様……」
幸生は墓石の前に跪き、恭しく頭を垂れた。
凍りつくような風がびゅうと吹き抜けていく。空は焼けつくような茜色に染まり、墓地の背後に広がる林の陰がくっきりと浮かび上がっていた。
「約束、したのに……あなたは灰になってしまった」
もう、彼女の姿を目にすることはない。
「私のそばで、永遠になってもらいたかったのに」
その美しさを。己の手の届かない存在であるあなたを。この世に縫い止めておきたかったのに。
「何もかも、消えてしまった……」
わかっている。これが普通ではない、邪な欲望であることは。
彼女にそれを打ち明けたとき、よもや許してくれるなど微塵にも思わなかったのだ。己が尽くした結果だと彼女は言った……彼女の信頼を勝ち取り、丁寧に積み重ねた結果なのだと自負していた。
そのすべてが泡沫となってしまった。
今やもう、何もかもが空しい。
生きた心地がしない。
歩くのも、呼吸も、まばたきすら、鬱陶しい。
幸生は懐から手のひらほどの小瓶を取り出した。薄曇りの中に猩々緋の液体が小さく揺れる。
コルクの蓋を開け、口をつける。液体の苦みが喉に流れ込む。極限まで凝縮した彼の花の毒素は死の火となって己の裡を焼き尽くすだろう。
体内から彼岸花をまき散らして死んだ彼女を思い出しながら、幸生は倒れ伏した。哀れなその身に白い雪が降り積もり、無情にも覆いつくそうとしていた……




