第七話 穢れし者に褒美を
十一月も半ばを過ぎた。この日は朝から雨が降り続いており、陽の差さぬ空から落ちる雨粒は氷のように冷たく、民家では赤子を背負い綿入れ半纏にくるまる主婦の姿が見られるほどだった。
そんな午後、幸生はいつものとおり高久家の門をくぐり、当主や夫人に挨拶をしてから絢華のいる離れへ向かった。
実は、前回の診察から少しばかり日が経ちすぎていた。原因は常連客の急病である。幸生に医院の建物を貸し出し、シマでの商売を許している組の長が持病を悪化させたので、その面倒を見なければならなかったのだ。
離れの入口の襖に立ち、小さく咳払いをする。「お嬢様」と呼びかけた。
返事はない。
「お嬢様。……田中幸生でございます」
ごそりと布団の擦れる音がした。
「知らない」――小さくくぐもった声。「誰だったかしら。忘れたわ」
「お嬢様」
「……」
「申し訳ありません。少し日を空けてしまいました。ですが、お嬢様の容態が急変すればすぐ連絡をいただけるようにしておりましたから……」
「知らないわよそんなの」
つんと拗ねたような声に、幸生の胸の奥がぎゅっとつままれたように痛む。幸生は鞄を脇に置き、その場に膝をついた。
「私もずっと、気が気ではありませんでした。受け持っている患者の病状が急変して、どうしてもかかりきりになってしまっていたのですが、そのあいだもずっと、お嬢様のご容態を案じていました。医者にあるまじきことですが……」
「……」
「途中で届けさせた薬ももう切れかけているころでしょう。どうか、入らせていただけませんか」
ややあって、襖の裏にぽすんと何かが当たる音がした。ころりと鈴の音が鳴る。応答であると解釈して、幸生は「失礼いたします」と襖を開けた。
途端に、甘ったるい香の匂いがむっと鼻をついた。締め切られた部屋の隅から隅までけぶるように染みついている。
中央に長火鉢が焚かれ、そのそばで布団に寝そべり、頬杖をついて、空いた手で鞠をもてあそぶ絢華の姿があった。
「お嬢様」
そばまで寄って、そっと膝をつく。絢華はこちらを見もしない。
「お待たせして申し訳ありませんでした。お変わりありませんでしたか」
「……別に、おまえなんか待ってないわ」
ころころと、指先で鞠が鳴る。
「はやくお薬をちょうだいよ」
「その前にお体を診させていただきたいのですが」
絢華はふんと鼻を鳴らし、気怠げに仰向けになった。その白い首元に薄く赤茶けた線が走っているのを見つけ、幸生は目を見開く。
「その、首の痕は」
「別に……」
絢華は雑に帯を解き、胸元をはだけさせた。幸生がいつも通り杖の先で診るのを、ぼんやりと待つ。
だが幸生は動かない。絢華の首の傷を、信じられないものを見るような目で凝視している。
「何よ」
「いえ、その……」
「そんなに気になるの? 醜い傷だって?」
「いえ……ただ、いったいどうしたのかと」
「おまえの言うとおりに外へ出たら嫌な目に遭ったのそれだけ」
早口で言い終え、絢華はきゅっと口をつぐんだ。
幸生は杖を握り、その先で首の傷をかすめるようになぞった。絢華の肩がぴくりと震える。
「な、に――」
言葉が途切れる。
幸生の顔がひどく歪んでいる。ただでさえ不気味な、悪鬼じみた顔なのに、怒りがにじんで殊更に恐ろしい顔つきになっていた。
「誰が、傷つけたのですか」
「別に……誰でもいいでしょ」
「誰ですか」
幸生の杖の先が小刻みに震えていた。絢華はごくりと喉を鳴らす。
「あの日、体調がよかったの。だから早朝に中庭を歩いてみたの、そしたら……葵がいて」
絢華は自嘲するようにつぶやいた。
「ただの、売り言葉に買い言葉よ……売女と言われたから、売女を買う男の娘と言い返してやったの」
「それで……そんな傷を」
「わたしも思いっきり平手打ちをしてやったわ。あの子、無様にひっくり返ってた。一生忘れてやらないわ。死に際に思い出して嗤ってやるの」
絢華はふいに顔を上げた。初めて真正面から彼を見る。
「おまえ、今の話を聞いても驚かないのね」
「何がでしょうか」
「父が私を買う、と言ったのよ。驚かないの?」
「……いえ」
幸生は歯切れ悪く濁す。絢華はいぶかしげに眉を上げた。
「予想してたってこと?」
「いえ……いや、まあ、そう……ですね」
「ふうん。おまえよくそんなわたしの面倒を平気で見られるわね。普通、穢らわしいとか思うでしょう」
「お嬢様は穢らわしくなどありません」
幸生の杖の先が、胸から腹にかけて、さぐるようにゆっくりと動く。
「あなたは誰よりも、何よりも美しい……何があろうと、それはゆるがない」
幸生の、醜く歪んだ両の目が、絢華の白い肌をじっとりとなぞった。その皮膚の下までもを見透かすような強い視線に、絢華は無意識に身を震わせる。
「おまえ、目が悪いの? わたしは病でこんなに痩せて、血色も悪いし、もう昔のような見た目じゃないわ。これで美しいなんて……そんなこと言うの、未だに母親の幻影を重ねているあの愚かな父親くらいよ」
「私は誰とも重ねておりません」
「じゃあ、どうして?」
幸生は曖昧に笑い、杖を離した。絢華はますますむきになり、「答えなさいよ」と彼の手を引く。
瞬間、幸生は火のついたように後ずさった。それから急いで鞄を開けると、布に酒精を垂らし、絢華の手指を拭った。
「ちょっと、何して」
「穢れてしまう。あなたの指が」
「やめて、離して、……いったいなんなの!」
絢華は手を振り払い、拭われた部分を庇った。つんと広がる酒精のにおいに顔をしかめる。
「前もこんな……おまえ、何をしているの」
「私に触れないでください。あなたを穢したくない」
幸生は低く呻くように言う。
「それ、皮膚病の話? でももう治っているんでしょう?」
「病は関係ありません」
「じゃあなんなのよ」
「私は……」幸生は苦しげに息を吐いた。「あなたとは違う……あなたが空を舞う蝶ならば、私は地の底で腐る土塊です」
「はあ……?」
「どうか、自ら私に触れないでください。その美しい存在を穢してほしくありません」
「おまえ、……」絢華はふさわしい言葉を探したが、咄嗟に出てこなかった。「すっごく……変よ。変」
「自覚しております」
「本当に変。気持ち悪いわ」
「申し訳ありません」
幸生は黙って、診察を再開した。その合間に症状の変化など月並みな質問をする。絢華はぽつぽつと、正直に答えた。
「そうですか。庭で怪我をなさったときも、突然吐血したと……」
「そうよ。急に気分が悪くなったの。止められなかったわ。おかげで新しいコートが汚れたの……すぐに染みをぬいてもらったから、もう全然わからなくはなったけど。最悪だったわ」
「一時的な強い心的ストレスで体に負担がかかったのかもしれませんね」
「なんでもいいけど、せっかくお父様に我が儘を言って買ってもらったのに最悪よ。蘭の国のものなのよ、すごく貴重なものだったのに」
絢華は忌々し気に顔をしかめる。
「その代償にあんな思いまでしたのに、ぜんぶ無駄になったわ」
幸生の毛のない眉がぴくりと震えた。
「お嬢様」
声が鋭くなる。杖を離し、改まったように手を膝に置く。
「そうやって、自らの体を痛めつけるのはもうおやめください」
「……なによ、急に」絢華はうつむき、浴衣の前を合わせた。「別に痛めつけてなんか」
「私の目には、あなたが自暴自棄になっているようにしか見えません」
「何を勘違いしているのか知らないけど、全部手段にすぎないわ。こうすれば面白いほど言うことを聞いてくれるひとがいる。それを見て歯ぎしりするほど私に嫉妬して地団駄するひともいる。その様子を見てわたしに無駄な怒りを募らせるひとも……こんなに愉快なことはないでしょう」
「もっと、自分を大切にしてください」幸生は無意識に身を乗り出していた。「そんな者たちのために、あなたがわざわざ傷つく必要はない」
絢華は瞼を閉じ、ゆっくりと開いた。黒い花弁がふわりと広がるように、大きな黒い瞳が幸生をとらえる。
「おまえ、わたしが好きなの?」
一瞬、時が止まったようだった。
幸生の頬にカッと血の気がのぼる。巨躯をよろめかせて尻もちをつき、無様に後ずさる彼を見て、絢華は仄赤い唇をつり上げた。
「ねえ、どうなの?」
「……私は、そのような感情は、決して」
「じゃあ、嫌い?」
「まさか!」
絢華の顔が不意に近づく。香の匂いとはまた違う、胸の奥がうずくような甘い香りをかすかに感じ、幸生は震えた。
「お嬢様……どうか離れてください」
「いつから?」
幸生の声を遮るように、絢華がたずねる。「ねえ」
「私は、医者です。お嬢様。そのような感情は持っておりません」
「ふうん?」
絢華はますます身を乗り出し、両手をついて幸生に迫る。幸生は後ろへのけぞるようにして、なんとか彼女に触れまいと耐えていた。
「おまえ、顔が真っ赤よ。火傷の痕だらけでもわかりやすいくらい」
「――それは、あ、あなたが、近づかれるから」
「わたしが近づくと、そんなふうになるの?」
美しい彼女が間近にいる。蠱惑的な瞳で、幸生だけを見つめている。その事実はあまりに甘美で、幸生の胸をじりじりと焼き焦がしていく。その痛みに耐えかねて、「もう、おやめください」と告げた。息も絶え絶えに、情けないほどの小さな声で。
「おまえの言うことを聞く義理はないわ」
絢華は意地悪く目を細めた。情けなく身を震わせる男を見下ろし、おかしそうに喉を鳴らす。
「でも、かわいそうだから、今日はもう虐めてやらない」
ふいと体を離す。幸生は放心した顔で脱力した。その様がおかしくて、絢華は肩を揺らして笑った。
「でも……そうねえ。おまえはいつもわたしによく尽くしてくれるから、何かご褒美をあげてもいいわよ」
ご褒美、という言葉に、幸生の視界がくらりと歪んだ。それが浅ましくも顔に出ていたようで、絢華はますます愉快そうに笑う。
「何がいい? なんでも言ってごらんなさい。わたしはもうすぐ死ぬけれど……おまえにだけはご褒美をあげたいのよ」
「本当になんでも……言って良いのですか」
生々しいほどに掠れた声が喉から絞り出る。熱に浮かされたような幸生の顔を見下ろし、絢華は「言って」と囁くようにうながした。
「では……あなたが亡くなったら、その遺体を私にください」
幸生は夢見るようにつぶやいた。
「あなたの体を剥製にして……永遠のものにしたいのです」




