第六話 血の檻
翌朝。絢華は早くに目が覚め、離れの障子を久方ぶりに開けた。そろそろと足を踏み出し、置きっぱなしの下駄に足をかけ、縁側に腰を下ろす。
頭上に広がる空にはまだ黄金色の光が薄くにじんでいる。その合間にぽつぽつと綿雲が散っているのを、絢華は飽きもせずじっと見つめていた。毛織りの上着の前をかき合わせ、下駄の鼻緒を裸足で軽くもてあそびながら。
早朝の誰もいない中庭はこんなにも静かで、すがすがしいものだったか。いつも午後からしかやってこない幸生は知らないだろう。次に来たら教えてやろう……と思ったが、彼の言うとおりに外へ出たと知られるのは癪だった。やはり、黙っておこう。
気がつけば、ひとりでに鼻歌が出ていた。〝Das Veichen〟……小鳥のさえずりのように小さく、歌をなぞる。幸生の几帳面な文字が脳裏に浮かび、その熱に浮かされたような歌詞と共に幸生の醜い顔が思い出され、絢華は思わずかぶりを振った。
歌は、もう歌わなかった。
それからも絢華は早朝に起きて、中庭の空気を堪能し続けた。体調が悪いときも、幸生の薬を飲むとましになるので、縁側に出ることはできる。
最近は薬のおかげか、少しずつ食欲が出始めていた。だが粥だけは相変わらず食べられない。汁物やうどん、豆腐などは、徹底的にばらばらにして、中に何もないことを確かめられれば口にすることができた。
「近頃は調子が良さそうですね」
あるとき幸生が来て、絢華の顔色を見るなりそう言った。
「食事もとれているようで安心しました」
「……別に。ただの気まぐれよ」
「気まぐれでもなんでも、食べたいときに少しずつ召し上がっていただければ良いのです」
「そう」
幸生の淡白な口調の中に、明らかな喜びが混じっている。なんだか気恥ずかしくて、絢華は布団に足を投げたまま顔を背けてしまう。
「そういえば……この頃よく空気を入れ換えられているのではありませんか」
「は?」
「いえ。香の匂いがいつもより薄いように思いましたので」
「……そんなことないわ」
絢華は大げさに手をひらひらと振る。
「おまえの言うことなんか聞くわけないでしょう」
「そうですか」
「……待って、おまえ部屋の匂いなんか嗅いでたの? 気持ち悪い。もう息をしないで」
「申し訳ありません」
目をそらしていても、幸生の視線を感じる。
絢華の身を本気で案じている視線。……いや、ちがう。この男は医者だ。いずれ己の命の限界が来て、無事に看取れば、この男は次の患者の元へいく。そうして己のことなどすぐに忘れてしまうのだろう。
「ねえ」
絢華は鞠を両手でいじりながらつぶやいた。
「わたし、あとどのくらい生きるの」
幸生は鞄を探る手を一瞬、止めた。
「……この調子であれば、この冬のあいだは。私見ですが」
「そう」
気怠げに鞠を畳へ転がす。ころりと鈴がむなしく鳴いた。
「別に、長生きしたいわけじゃないけど」
こぼれ落ちた声は、負け惜しみのようだった。
***
朝と夜が、日増しに冷たくなっていく。早朝、障子戸を開けると風が骨身にしみるようになった。病身にはあまりにこたえるので、絢華は父親におねだりをして、白いカシミヤの外套を買ってもらった。それを羽織れば幾分か温かいからだ。
「おまえが外に顔を出せるならわしは嬉しい」
離れまでやってきた父はそう言って、取り寄せた外套を絢華の肩へかけた。乳白色の美しい布地に、絢華の長い黒髪がよく映えた。
「お父様、似合っていて?」
絢華は両手で外套の裾を広げてみせる。袖のないインバネスのような形だが、婦人用で、今冬の流行であるらしい。
「ああ……とても、よく似合っている」
そうつぶやく父の瞳が怪しく揺れる。
「千草に……そっくりだ。絢華……」
皺だらけの父の手が、外套の上から絢華の肩をゆっくりと撫でおろす。流れるように首筋を、頬をなぞり、髪を耳にかけた。
「お父様、もうお仕事があるのではなくって?」
「……そうだな」
父は名残惜しげに髪に触れ、立ち上がった。
「絢華。あの医者はどうだ」
「お医者?」
絢華は目を上げた。こちらを見下ろす父の、探るような目つきに気づき、「ああ」とわざとらしく首をそむけた。
「あの人こわいわ。顔が化け物なんだもの。見るだけで吐き気がしそうよ。でもお薬はとてもよく効くの……だから用事が済んだらいつもすぐ帰ってもらってるわ」
「そうか、そうか」
父はたちまち宥めるような甘い声を出した。
「だが、仕方がない。いい薬をもらえているうちは我慢するんだぞ」
「ええ……」
父が去り、部屋は静寂に包まれる。絢華は外套を脱ぎ、畳へ乱暴に放り投げた。
薬箱にはまだ幸生の薬が残っている。これが無くなるころでないと、彼は来ない。
「知らないわ。あんなひと」
布団を頭までかぶりこむ。
いっそ、もっと体調が悪くなればいいのに。いよいよ死にそうになったら彼はどんな用事を差し置いてでも飛んでこなければならないのだから。
***
中庭の石畳に駒下駄の音がかすかに響く。早朝、絢華は白い外套を羽織り、ひとりで庭を歩いていた。
贅をこらした庭園は未だ秋の彩りを残している。赤や黄に染まった木々が木漏れ日を通してきらきらと輝き、時おり吹き抜ける冷たい風に葉を落とす。その様を、絢華は眩しげに目を細めて眺めていた。
昨夜は体調が悪く寝込んでしまったが、今朝は吐き気も痛みもなく、症状は落ち着いていた。ならばいっそ、この美しい庭を歩いてみようと思い立った。縁側から眺めるだけじゃなく、全身で冬支度する庭の風景を味わいたかったのだ。
早朝に目覚めているのは使用人だけ。それもこんなところには現れない。今、ここは絢華だけの世界だった。煩わしい人目もない。ただ自然があるだけの……
不意に足が止まった。生け垣のあいだをぬった先、小さく広がる緑の空間に、だれかがいる。
赤い敷物をしいた腰掛けに、葵が座っていた。いつもまっすぐに伸ばしている背を少しだけ丸め、一心不乱に本を読んでいる。
その目が、視界の隅で立ち尽くす絢華の姿を捕らえた瞬間、不愉快そうに歪められた。
「……どうしてあなたがここにいるのですか」
「ずいぶんな言い草ね」
絢華も負けじと着物の袖で口元を覆う仕草をして見せた。
「わたしはただお散歩をしているだけなのに」
「病人ならおとなしく離れにいてください」
「いやよ。せっかく今日は体調がいいのに。お散歩をしちゃいけない決まりなんてないでしょう」
「今日は体調がいい、ねえ」葵は鼻で笑った。「どうせあなたの気まぐれでしょう。都合がいいときだけ周りに構ってもらえて、八つ当たりの口実にもなる……体調がいい悪いってなんて便利な言葉かしら」
「はあ?」絢華の蒼白な頬にかすかな血の気がのぼる。「あんた、もう一回言ってみなさいよ。人の気も知らないで」
「怖い顔ね。でも私のほうが怖いわ。いつまた悲鳴を上げてお父様を呼んで被害者ぶるのかわかったものじゃないもの。使用人にしたみたいに、私のことも陥れられるかもしれない」
絢華が何か言い返す前に「でも」と葵は挑戦的なまなざしを向けた。
「私を陥れたらお母様とお父様の関係が悪くなるわね。あなたの愚かな母親のせいでこの家の評判は過去、地に落ちかけたそうだけど、それを立て直したのはここへ嫁入りを決めたお母様よ。つまり離婚沙汰になったら困るのはお父様よ」
「……別に、知ったことではないわ。わたしはもうすぐ死ぬのだから」
「あなた本当に最低ね」葵は本をばたんと閉じ、膝に置いた。「親の顔が見てみたいわ。まあもう見られないけれど」
「……は」
「血は争えないって言ってるの。体調が良かろうが悪かろうが部屋に引きこもっていてほしいわ。気まぐれで出てきて、この朝の美しい庭を穢さないで。いい気分が台無しよ」
立て続けに侮辱され、絢華のこめかみが引きつった。
「どうしてあんたにそこまで言われなきゃいけないの? ここはわたしの家でもあるのだけど」
「私たちの家でもあるわ。あなたみたいな穢らわしいひとに我が物顔で歩かれたらみんなの気分が悪くなるの」
「誰が穢らわしいってのよ!」
「だってお父様に体を売っているじゃない」
葵は口にした途端、「ああ、嫌だわ」とおぞましそうに顔をしかめた。
「こんなこと、声に出したくもない……でも私、知っているのよ。昔から何かあると部屋にお父様を呼んで……母親そっくりの顔と体を使って望みを叶えてもらっているんでしょう。お兄様もお母様も使用人もみんな知っているのよ」
葵は刺々しい声で「母親の血ね」と言い放った。その直後、ばしんと重々しい音が辺りに響き渡った。
葵がよろめき、腰掛けに肘をつく。本が石畳の上にばさりと落ちる。絢華はびりびりと痛む手をあげたまま、目を剥き肩で息をしていた。
「あんた、想像以上の馬鹿ね」浅い息を吐きながら、絢華は口端をつり上げる。「その体を買う男の血が、あんたにも半分流れてるのよ」
怒りにのぼせていた葵の頬がたちまち真っ青になっていく。絢華は「ふふ、ふふふ」と低く笑った。
「あんただけじゃないわ。あの兄もね。それを産み落としたのはあんたたちの母親。この屋敷にいる人間はみぃんな汚いの。穢れた者たちの巣窟なのよ……」
笑いが止まらない。胃に気持ちの悪いものがせり上がってきて、赤い雫が口から漏れた。
「あんたもいつか惚れ込んだ男の体をお金で買うかもねえ。だって血は争えないんでしょう? あはははは」
「う、うるさい! うるさい! うるさい! 黙れ‼」
葵が叫び、絢華を地面に押し倒す。絢華はますます笑いながら血を吐き、二人の着物が血に染まる。
駆けつけた使用人に引き剥がされたころには、葵は癇癪を起こして暴れており、絢華は気を失っていた。




