第五話 呪いと悪鬼
香の匂いに満ちた部屋を一歩出れば、冷たい秋風が肌を刺す。寒露の頃も過ぎ去り、いよいよ冬に入るのだなと思い知らされる。
絢華は浴衣と羽織の前をかき合わせ、渡り廊下を歩く。離れに閉じこもっていると言っても不浄には出向かなくてはならない。その瞬間がたまらなく億劫だった。
はやく過ごしやすい春になってくれたらいいのに。だがその頃まで自分は果たして生きているのだろうか。
「あの方のあれ、なんて病気でしたっけ?」
ふと囁き声が耳に届き、絢華は咄嗟に柱の陰へ身を潜めた。そっと外を覗けば、中庭を掃除している女中たちの背中が見える。
「がん、ですって。なんだかわからないけど、母親があれだったし呪いでしょ。自業自得よね」
「こわいわねえ。やっぱり天罰じゃないかしら。そんな得体の知れない病気にかかるなんて」
「そういえばあの新しい医者の顔、見た?」
「見た、見た! あれ人じゃないわ、まるで悪鬼よ。体も妙に大きいし、遠くから見ても本当にぞっとするったら……」
「呪いに悪鬼をぶつけるなんて、旦那様も粋なことをなさるわよねえ」
「――あなたたち、暇そうねえ」
物陰から顔を出してそう呼びかけると、女中たちはびくりと飛び上がり、こわごわとこちらを振り返った。渡り廊下から見下ろす絢華を見るなりさっと血の気を失っていく。
「あ、あ、……お、お嬢様」
「ずいぶん楽しそうだけれど、暇なのかしら? この屋敷も人手が余っているのねえ。お父様に今度ご相談しようかしら……」
青白い顔ににっこりと笑みを刻んでやると、彼女らは泣きそうな顔で「申し訳ございません」と頭を下げ、そそくさと庭をあとにした。まだずいぶんと落ち葉を掃き残しているのに、よほど絢華が怖いらしい。
「ふ、ふ……馬鹿な人たち」
口にした途端、くらりと目眩が走った。渡り廊下の手摺りをつかみ、奥歯を噛んで懸命に体をまっすぐにする。
みっともない姿は見せたくない。誰にも嗤われたくない。見下すためにも、見下されてはいけないのだから。
この日、午後から幸生がやってきた。
幸生とはあまり会いたくなかった。前回もそうだが、自分はこの医者にみっともない姿を晒け出してしまっている。不可抗力とはいえ、他人に弱みを握られている気がして不快だった。
あの裁ちばさみは結局没収されたままだし、有無を言わさず絢華を制するところも気にくわない。
だが幸生の処方する薬はよく効いた。今さら寿命は延びないだろうが、体の不調を一時的にでも和らげてくれる。食欲が出ることもあるのだ。
(今日も薬をもらうだけ。それだけよ)
そう思って、幸生を部屋に通した。
彼は部屋に踏み入るなり、すぐに辺りを見回し、部屋の片隅にある蓄音機に気がついた。
今まさに、盤上でレコードが回っている。静謐で軽やかなピアノの音色と共に、異国の男のテノールが囁くように流れていた。
「気になるの?」
思わず、そう口を衝いて出ていた。今日は話さないでおこうと思ったのに。
「……ええ」
幸生が答える。目を細め、歌声に耳を傾けている様子だった。
「お父様に我が儘を言って譲っていただいたの。部屋でひとりは寂しいだろうってね……この曲はわたしのお気に入りよ」
「そうですね」
絢華は眉をひそめた。答えがかみ合わない。
なんだろう、彼のこの、いやに陶酔した目つきは。
「もしかしてこの曲……知っているの?」
「……え、――ええ、はい」
「本当に? 曲名は言える?」
「モーツァルトの〝Das Veilchen〟」幸生は流暢に言ってのけた。「〝すみれ〟です」
絢華は一瞬、沈黙した。歌は佳境に入り、高らかなテノールが部屋の空気をびりびりと震わせていた。
「……歌詞は、わかる?」
「ご存知ありませんか」
「ちょっと確かめたいだけよ」
幸生は醜い顔の皮膚をひきつらせた。微笑んでいるのだと、数秒遅れて絢華はやっと気がついた。
「後ほど書いて差し上げましょう。その前に、今日の診察を終わらせたいのですが」
「別に、症状はさほど変わらないわ」
「さほど、の部分を知りたいのです。薬の処方にも関わりますから」
鞄から杖を取り出し、ぱちんぱちんと組み立てる。絢華はため息をつき、布団を捲った。
「はやく済ませなさいよね」
「承知しております」
〝すみれ〟は短い。いつの間にか部屋は無音になっていた。夢見心地の気分から引き戻された気がして、絢華は急に幸生の醜い顔や、彼の杖の先の感触が不快になった。
「どうしておまえはそんなに醜いのかしら」
「申し訳ありません。生まれついての顔です」
「生まれつき顔がそんなに焼け爛れていたというの?」
「いえ、これは……」
幸生は初めて言葉を濁した。それから首を振り、杖を離す。
「腹部の張りはましになっているようですね。引き続き前回と同じ薬を出しましょう。食欲はいかがですか。少しは食べられるようになりましたか」
「誤魔化さないでよ」絢華は指先でいらいらと畳を叩く。「おまえのその顔はどうしたのと聞いているの」
「取るに足らないことです。お嬢様のお耳に入れるようなことでは」
「取るに足らないなら答えなさいよ」
幸生が毛のない眉根を寄せる。醜く埋もれた左目が細まり、ますます小さく見えた。
「……私は生まれてすぐに皮膚病を患いました。菌に皮膚を蝕まれ、顔が変形するほど激しく損傷させられたのです。しかし……私の故郷は小さな山奥の村で……誰も医学の知識など持ち合わせておりません。私の病は呪いだと恐れられ、村人たちは私を忌避しました」
絢華の瞳が微かに揺れる。それに気づいているのかいないのか、幸生は目を伏せて言葉を続けた。
「狭い村で人々から忌避される――それはすなわち一家の死を意味します。母親は村人たちの目の前に私をひきずっていき、木に縛りつけ、松明の炎で私の顔を焼きました。呪いが浄化されたと示すために」
絢華の喉が引きつった。幸生は目を上げ、痛々しいほどに口元を歪ませる。
「ご安心ください。呪いなどではありません。病ももう、すっかり消えております。お嬢様にうつるようなことはありませんから」
「――そんな、こと」
絢華は自らの震え声に驚き、咳払いしてから取り澄ました表情を取り戻した。
「ほんとうにくだらないことね。聞いて損したわ」
「……お耳汚しを、失礼いたしました」
「おまえ、その母親の顔を焼いてやらなかったの?」
今度は幸生が言葉を失う番だった。絢華はふんと鼻を鳴らす。
「おまえはもう、親の庇護下から抜け出ているのだし……裏社会だろうがなんだろうが、立派にやってるんでしょう。わたしがおまえなら村ごと全員焼いているわ」
幸生はしばし、雷に打たれたのかというほど固まっていた。やがてその肩が小刻みに揺れ、醜くつり上がった口端からくぐもった笑い声が響きだす。
「なにを笑っているの」
絢華はぴしゃりと布団を叩いた。
「ほら、さっさと薬を出しなさいよ」
「……ええ、ええ……」
幸生は未だ愉快そうに目を細めながら鞄をさぐる。手際よく薬を包みに分けると、絢華の枕元に溜まった使用済みの布やちり紙を回収し、新たに補充した。
「今日は、お顔の色が幾分かいいようですね」
何気なく、幸生がつぶやく。
「ご負担がなければ、調子のいい日は少しでも陽を浴びると良いですよ。気持ちも楽になります」
「いやよ」
絢華は気怠げにそっぽを向く。
「外に出たってろくなことはないわ」
「障子戸を開けるだけでもいいのです。気が向いたときにでも、ぜひ試してみてください」
それだけ言って、幸生は最後に鞄からノートとペンを取り出した。インクが内臓された、最新型の万年筆である。それをしばし紙の上へ走らせ、頁をちぎる。
「〝すみれ〟の歌詞です。独自の和訳で恐縮ですが」
ちぎった頁を折り曲げ、絢華のそばへそっと置くと、「では、本日はこれで」と丁寧に低頭して、部屋を後にしてしまった。
絢華は布団から這い出て、もう一度蓄音機を回した。軽やかに跳ねるようなピアノの音が部屋じゅうに満ちる。
布団のそばに置かれた、幸生の残していった紙を手に取り、そっと広げてみた。彼らしい几帳面な字が、濃紺のインクで紙いっぱいに書かれている。
最後まで読んで、絢華はわずかに目を見開いた。
嗚呼、すみれは思う。
もしも私が、この世でもっとも美しい花だったなら。
少しの間だけでも、愛しい人に摘み取ってもらえるのに。
その胸に抱かれ、身を任せられるのに。
ほんの十五分だけでいいから。
嗚呼、それなのに、彼女はやってきて
そのすみれに気づくことなく踏みつぶしてしまった。
すみれは頭を垂れ、力尽きてしまったが、幸福だった。
彼女によって……彼女の足下で死ねるのだから。




