第四話 罪と罰
継母の富貴は成金の娘で、絢華が五歳のときにやってきた。
富貴は高久夫人を名乗ってすぐ、屋敷じゅうの使用人を入れ替えた。実家からお気に入りの女中をつれてきて、下男は己の采配で雇い入れた。夫が家のことに無関心だったおかげで富貴はやりたい放題だった。
絢華はその頃、今のような離れではなく、屋敷の二階にある自室にいたのだが、ある日突然富貴がやってきて
「ここはあたくしの子どもが使うの。あなた、姉になるのだからお部屋を譲りなさい」
と言い放った。
この部屋は二階の角にあり、陽当たりの良い六畳間の洋室だった。それが一階の階段横にある四畳半の和室へ遠ざけられたのである。
廊下を曲がってすぐのところに炊事場と女中部屋があった。女中らが朝早くにばたばたと目覚める気配や、夜遅くまで働く足音でよく眠れない日々が続いた。だが父親には言いたくなかった。言えば継母を不快にさせるであろうことは幼心にも察していたからだった。
そんな絢華の気遣いもむなしく、富貴は身ごもると気性が荒くなった。夫には猫なで声を出すが、絢華が視界に入るだけで
「何しに来たの? あっちへ行きなさい」
と怒鳴り、ときにはヒステリックに
「売女の子があたくしに近寄らないで、汚らわしい!」
と叫び、使用人を呼んで絢華を自室まで追い立てた。
富貴の息がかかった使用人たちは皆、陰で絢華を「売女の子」と蔑んだ。聞こえよがしなその声はどこにいても耳に入る。
やがて富貴が双子を生んだ。晋之介と葵。かわいい赤子に恵まれ、父の意識もそちらにかかりきりになると思われた。
だが、父は無事に子が生まれたのを見届けると、夜な夜な絢華の部屋までやってくるようになった。
「絢華」
小声でよびかけられるが、絢華は布団にくるまり眠ったふりをした。父は足音をしのばせてそばまでやってくると膝をつき、じっ……と穴が開くほど絢華の顔を見つめる。
酒臭い呼吸が張り詰め、やがて父の顔が近づくと、唇に生ぬるい接吻が降ってきた。
「千草……千草……」
頬が濡れる。父はあえぐようにかつての妻の名を口にする。呼吸が荒くなり、ますます昂ぶる父の声に、絢華は身震いをこらえながらひたすら耐えた。
夜の父の行いを、果たして富貴は知っていたのだろうか。
あるとき、絢華は風邪を引いて寝込んでいた。使用人が食事を運んできたので、絢華は頑張って起き上がり、彼らに礼を言って茶碗を手に取った。湯気の立つ粥にありがたく口をつける。
――ぱり、という、粥に似つかわしくない食感がした。慌てて口から出すと、茶色い何かがつぶれていた。見ればそれは、固い殻と細い脚を持つ羽虫だった。
叫び声を上げて茶碗を取り落とした。ひっくり返った粥の中に死んだ虫やどろどろの土塊が見え、血の気が引いていく。
くすくす……と含み笑いが耳を射す。いつしか襖が小さく隙間を空けており、その向こうに無数の目があった。「アハハあの顔」「奥様にご報告しなきゃあ」と囁きがさんざめく。
持ってこられた水も妙なにおいがして飲めず、結局飲まず食わずが続き、限界まで衰弱したところで父に医者を呼ばれ、栄養を注射されてなんとか生き延びた。なぜ食事を取らなかったのかと父に叱られたが、本当のことを言う気になれなかった。富貴に何をされるかわかったものではない。
その後も仕立ててもらった着物にまち針が残っていたり、父に買ってもらった洋服を獣の血で汚されたり、紅の入った貝殻の中身を汚泥にすげ替えられたりと、毎日毎日嫌がらせが続いて頭がおかしくなりそうだった。
絢華が十五歳になったある日、父が海外出張で不在のあいだに学校の本を破かれた。
このころ、富貴の子たちも十歳となり、富貴から毎日のように絢華を「売女の子」と聞かされ続けたおかげで見事に絢華を忌み嫌うようになっていた。だから絢華は部屋に閉じこもり、同じ食卓につかぬようにしていた。
本を破ったのは異母弟たちか。それとも彼ら親子に指示された使用人か。絢華は破かれた頁同士を糸で器用につなぎ合わせた。これだけならまだ、ぎりぎり耐えられたかもしれない。
だがその日の夕べ、夕餉を運んできた使用人が「ああっ」とわざとらしく手をすべらせ、目の前で箱膳をひっくり返した。
「申し訳ありません、代わりのお食事をとってまいります」
と彼女らは部屋をあとにしたが、いつまで待っても誰も来ない。
仕方がないので自ら厨に出向くと、女中たちが愉快そうに話をしながらだらだらと炊事の後片付けをしているではないか。
「代わりの夕餉は?」
と尋ねると、女中たちは鬱陶しそうに「はあ」と目を上げ、それからすぐニヤニヤといやらしい笑みを浮かべた。窓際に置かれていた椀を取ると、盆にも載せずに絢華の手に押しつけたのだ。
「申し訳ありません、もう片付けてしまいましたので、代わりにこちらを」
「栄養豊富でございますから」
椀を見下ろす。虫の死骸が冷たい水に浮いていた。「さあさあどうぞどうぞ」と女中が箸を押しつける。
「飢饉の際はみんな虫をいただいてたそうですよ」
「カマドウマですわお嬢様」
それが、絢華の限界だった。
胸の奥で、頭の中央で、何かが火花のようにはじける感覚がした。気がつけば絢華は目の前の女中を床へ押し倒し、その口に椀の中身を押し込んでいた。
周囲の誰も、状況を飲み込めていないようだった。水と虫の死骸を口や鼻につめられがぶがぶともがく女中の呻きと、馬乗りになりながらそれを冷ややかに見つめる絢華の「ふ、ふふふふ……」という不気味な笑い声だけが厨房を支配していた。
「あはははははは!」
女中の顎をつかみ、無理やり虫を噛み潰させる。何度も、何度も、何度も。
「もうお食事がないの、大変ねえ、飢饉ねえ、栄養をつけなくちゃいけないわねえ!」
女中の鼻も口も吐き出した水でびしゃびしゃに濡れていた。ようやく我に返った女中たちが阿鼻叫喚の悲鳴を上げる。まもなく富貴が飛んできて、絢華の肩をつかんだ。
「何してるの! あたくしの女中に!」
振り返った絢華の目は、ぞっとするほど鋭く冷たい光を放っていた。一瞬ひるんだ富貴の手首を乱暴に払う。
「お義母さまがお雇いになった女中でしょう? なぜもっときちんと躾をしてくださらないの? 使用人の躾は女主人の責任ではなくて? それを私が代わりにやって差し上げたのですが」
「お、奥様、我々はちゃんとお食事をご用意しておりました、それなのにお嬢様が……」
周囲の女中がしどろもどろに弁明する。だが次の瞬間、絢華は「きゃーっ!」と悲鳴を上げた。
「やめて、あなたたち、やめて! 助けてお父様あっ!」
そう叫びながら髪を振り乱し、着物をわざとはだけさせ、洗い桶の廃水を頭からかぶると、台所の出口まで這いずっていく。次の瞬間、どたどたと足音が響き、引き戸が勢いよく開けられた。
「なんの騒ぎだ!」
そこにはなんと晋一郎が立っていた。今しがた帰ってきたばかりで上着も帽子も脱がずに息を切らしている。彼は足下に這いつくばる絢華を目にした瞬間、血相を変えて膝をついた。
「絢華……? どうした、何があったんだ」
その瞬間、富貴は「やられた」という顔をした。
「あなた、どうして……お帰りは明日のはずでは」
富貴の声も晋一郎の耳には入っていない様子であった。父親の胸にすがりつき、ぐすぐすと洟を啜る真似をする絢華の姿は、その美貌も相まって胸が締めつけられるほど哀れであった。
「わたし、夕餉をいただけなくて。厨房までいただきに行ったの、そしたら女中たちが『これでも食べていろ』と虫を……虫を出してきて……」
後ろで倒れていた女中が必死に首を横に振る。だが彼女の周囲にはひっくり返った虫の死骸が散乱しており、晋一郎の目にも状況は火を見るより明らかであっただろう。
「おまえか……それともおまえたちか?」
絢華を抱き、ゆらりと立ち上がった彼の目は怒りに燃えていた。件の女中の頬を思い切り張り倒し、後方へ蹴り飛ばす。一緒になって絢華を嗤っていた女中たちにぶつかり、彼女らも一緒に尻餅をついた。
「わたし、何もしていないのに。でも女中たちには嫌われているみたい……どうしてなの?」
泣きつく絢華に、晋一郎は「おお、よしよし」と頭を撫でさすった。
「おまえは悪くない。この躾のなっていない使用人どもが悪いんだ。お父様が折檻してやるから、おまえは部屋に戻っていなさい」
そう言って晋一郎は絢華を厨房から外へ出した。
それからしばらく晋一郎の怒鳴り声と、富貴の泣きつく声、女中たちのむせび泣きが家中にとどろいていた。絢華は部屋に戻らず、しばらく廊下の柱にもたれながらその地獄の饗宴に耳を傾けていた。
「ふふ、……うふふふふ」
ひとりでに笑いが口から漏れて、止まらない。
ふと、視界の端に双子の兄妹の姿が見えた。彼らは怯えたような顔で絢華を凝視している。
絢華は濡れた髪をかき上げ、「ふふふふっ」と殊さら唇を高くつりあげて嗤った。彼らは悪霊でも見るような目で絢華を見、慌てて逃げるように階段を上がっていった。
その晩、父の手によって髪を拭われ、濡れた着物を脱がされ、その身をすみずみまで慰められながら、絢華は感情を殺した目でひたすら天上を見ていた。
これは生き残るための手段だ。
……いや、ちがう……
生き残るがゆえの、罰なのかもしれない。




