第三話 八ツ当たり
高久絢華は母親である千草によく似ていた。同じ年頃の姿で並んでいたら鏡あわせのようであっただろう。
千草がいなくった夜、絢華は三歳であった。玄関にものものしい気配がして、複数人の警官とともに父が慌ただしく出ていったのを覚えている。そして翌朝、同じ玄関で、父が座り込んでいた。その背中は丸く、小さく、狂ったように戦慄いていた。
「……おとうさま?」
不安に駆られ、小さな声でそう呼ぶと、父は振り返った。その肩越しに見えた瞳を覆うすさまじい憎悪を、絢華は未だに忘れられずにいる。
体が成長するにつれ、絢華を見る父の目は少しずつ歪んでいった。
革張りのソファに座り、「おいで」と優しく手招き、膝の上にのせて揺らしながら、絢華の小さな手を大きな手のひらで包み込み、柔らかな白い頬に口づける。またあるときには「来い!」と叫び、昼下がりにあれほど愛撫したのと同じ手で、絢華の頬を叩き、背中を叩き、細い首に力をこめた。
「どうして、裏切った、どうして……」
のしかかる父の息は酒くさく、涙の雨がぼろぼろと降ってきて、そのたびに絢華も泣いていたが、月日を追うごとに泣くことすらできなくなった。
父は見えていない。自分が今、誰の体を愛でているのか。誰の首を絞めているのか。
そして我にかえるたび、「すまない、すまない……」と泣いてすがる。永遠に、その繰り返しだった。
やがて後妻を娶り、そのあいだに子ができても。父の愛憎に終わりはない。
***
幸生が高久邸の門をくぐったとき、庭の向こう、母屋のほうから刺々しい声が耳をつらぬいた。
「あなた、いい加減ご決断くださらない? 療養所に預けるほうがあの子のためにも、我が家のためにもなりますでしょう」
思わず足を止め、耳をそばだててしまう。あの声は高久富貴――当主である高久晋一郎の後妻のものだ。
「一生治らない娘をあんな離れに隔離して、これじゃ屋敷じゅうに病魔が蔓延しますわよ。あなた、わかってらっしゃるの?」
「この前も話しただろう。あの子の病気は伝染するものではない。それに、あの子もわしの娘だ。病気だからと遠くへ追いやれるものか。それこそおまえの気にする体裁が傷つくだろうに」
「体裁なんてとっくに取れてませんわよ! どこかの女狐の裏切りをもうお忘れかしら? 婦人会やサロンで未だに哀れみや陰口を向けられる私の気持ちを考えてくださる?」
「……」
「子どもたちだってもうすぐ一人立ちしますわよ。そろそろ葵の縁談も考えなくてはいけないというのに、あの子がずっとこの屋敷の病巣になっていては、子どもたちの人生の邪魔になるわ! もういい加減、後処理のことを考えてくださいな」
それきり、もう声は聞こえてこなくなった。
幸生は首を振り、玄関へ向かおうと石畳に向き直ったところで、またしても足が止まる。
ひとりの少女が石畳の上に立っていた。年は十二、三といったところだろうか。お下げ髪に大きなリボンをつけ、仕立てのよい真っ白なワンピースをまとう姿は、絢華の異母妹――高久葵であるとすぐにわかった。
「こんにちは」
幸生は慇懃に巨躯を曲げる。葵は驚いたように目をしばたたいていたが、すぐにはっとして軽く会釈した。
「あの、絢華さんのお医者様ですか?」
「……ええ。そうですが」
「そうですの。絢華さん、いつお亡くなりになりますか?」
幸生は一瞬、言葉を失った。
「それは……余命のことでしょうか」
「それ以外あります?」
「……まだわかりません。もう少し様子を見てみなくては」
「だいたいでいいので目安を教えてほしいのですが。一年はかかりそうですか? それとも半年も待てば逝かれますか?」
あどけない顔でなんてことを聞くのだろう。幸生は惑いつつ、「末期でいらっしゃいますから……」と言葉を濁した。
「どういうことですか? もっとはっきり教えてください。それともまさか、あの人を庇っているのですか?」
そこまで言って、「それはないですよね」とすぐに否定した。離れのほうへ、意味ありげな視線を向ける。
「あなたもあの人に散々迷惑をかけられているでしょうし。はやく解放されたいですよね。あの人ほんとうに我が儘で利己主義の塊ですし、嫌なことがあるたびに使用人にあたり散らすし、お母様もあの人のせいで気が休まらなくてお父様とよく喧嘩をなさって――」
「葵!」
玄関のほうからヒステリックな声が響いた。見れば高久夫人が血相を変えてこちらに早足で向かってくるところだった。
「すみませんお医者様。お忙しいところを、娘が」
ほほ……と笑みを貼りつけ、夫人はさりげなく娘を後ろに隠す。
「いいえ。ご息女様も、いろいろと気にかかるところがおありでしょうから」
「ほほ、気になることなんて何もございませんのよ。さあ葵、学校の課題は終わったのかしら? 明日のお稽古の復習もあるでしょう?」
夫人は葵の背中を軽く叩き、母屋のほうへ追いやると、ふうとため息をついた。「先生」と、ふいに声をひそめる。
「絢華さんの余命がはっきりしたならすぐ教えてくださいませね。それから、どこか遠くに良い療養所があればご紹介くださいな」
「療養所、ですか」
「はっきり言ってあの子の気性には手を焼かされていますの。あんな調子ではろくに世話もできやしませんわ。先生もいい加減ご迷惑でしょうし……」
「ご当主様と相談させていただきます」
幸生はそれだけ言って、丁寧に頭を下げると、そそくさと母屋のほうへ向かっていった。
晋一郎は書斎で煙草をふかしていた。入ってきた幸生を見るなり「おお、先生」と煙草を灰皿に置く。
「今日も娘をよろしく頼む」
「ご当主様。その、奥方様からご提案があったのですが――」
「もしや療養所の件か?」
晋一郎の声が一気に鋭くなった。
「ええ」
「だめだだめだ」晋一郎は鬱陶しげに手をひらひら振った。「あんな妄言を真に受ける必要はない。あの子をなんだと思ってる。絶対にわしの目の届かぬところへはやらんぞ」
「承知しております。ですが、お嬢様がもしもそれをご希望なさった場合は」
「絢華もそんなことは望まない。望むはずがない。わしから離れるなぞ絶対に許すものか」
晋一郎の額にうっすらと青筋が差していた。幸生は「そうですか」と静かに返す。
「では、今後もこちらでお嬢様のご様子を拝見いたします」
「そうしてくれ。そして何かわかればすぐに言ってくれ」
「はい」
「わかっているだろうが――」晋一郎はふたたび煙草をつまみ、こちらを見据える。「娘が何をしてきても、決してその気になるなよ」
晋一郎から立ちのぼる異様な空気に、部屋の湿度が一気に上がったような心地がした。
「心得ております」
それだけ言って、幸生は鞄を持ち直し、書斎を後にした。
離れに向かう途中、廊下でたびたび使用人を見かけた。女中たちは皆、幸生の顔を見るなりぎょっと目を剥き、まるで見てはいけないものを見たときのような気まずい顔をうつむける。中には露骨に汚物を見るような目で睨む者もいた。
離れに続く渡り廊下へ出ると、向こうから二人の女中が歩いてくるのが見えた。一人は若く小柄で、もう一人は恰幅の良い中年だった。中年のほうは箱膳を持っているが、中は椀や小鉢が倒れてぐちゃぐちゃになっていた。もう一人の若いほうは洟を啜ってしゃくり上げている。
中年のほうが幸生に気づき、ぎょっと立ち止まった。若いほうも涙に濡れた目を上げ、「きゃっ」と小さな悲鳴を上げる。
「あ、あなた――お医者様?」中年のほうがいぶかしげに尋ねてきた。
「はい。田中幸生と申します。ところで……何か、あったのですか」
幸生が若いほうを見ると、彼女は怯えたように肩を縮こめる。中年のほうは「何かもなにも……」と忌々しげにため息をつく。
「絢華お嬢様ですよ。今日はとりわけ虫の居所が悪いようでしてね。この子は雇われたばかりの新人なんですが、すでに先日、絢華お嬢様にいびられていたらしく、私はそれを知らずにこの子を連れてお食事の配膳をしたんです。そうしたら絢華お嬢様がこの子を見るなり嫌味を言って」
「どのような」
「『またいびられに来たの? あなたマゾヒズムの趣味でもあるのかしら』と」
幸生は目だけで天を仰いだ。
「それで」
「この子はもうすっかり怯えてしまって、手が震えて、お膳の小鉢を倒してしまって。それを見たお嬢様が『また嫌がらせをしに来たのか』と突然怒りだして――」
「あ、あたしが、悪いんです」若い女中がしゃくりあげた。「あたしが、へまをしたから、だから」
「だからって物を投げつけられていいわけはないでしょ。いくら病気だからってあの傲慢でごうつくばりの――」
は、と中年のほうが口を閉ざす。こわごわと幸生を見、「ね、ねえ、お医者様だってお嬢様には手を焼いてらっしゃるんでしょ」と笑う。
「……それで、そのあとはどうなりましたか」
「どうもこうも。倒したお膳を交換しますからと言っても『もう放っておいて、帰れ、出て行け』の一点張りで。ついには長火鉢の薬缶にまで手をけられたので急いで退散したんです」
「なるほど」
「お医者様もほどほどになさったほうがいいですよ。いつどこであの人の癇癪を引き起こすかわかったもんじゃありませんから」
「……」
「それじゃ、あたしたちはこれで。……ほら、行くよ。いつまでも泣いてたってしょうがないんだから」
中年のほうが若いほうの背をぽんと叩いて歩き出す。よく見れば若いほうの胸元は、ひっくり返った食事の汁でべっしょりと濡れていた。
幸生は黙って廊下の先を見る。
閉ざされた襖の向こうは静まりかえっている。そっとすり足気味に歩み寄り、襖ごしに「お嬢様」と声をかけた。
返事はない。
「お嬢様。医者の田中でございます」ともう一度呼びかけたところで、「何よ」とくぐもった声が聞こえた。とてつもなく不機嫌そうである。
「診察に参りました」
「帰って」
「そういうわけにはいきません」
最悪、と小さな声と共にため息が漏れ聞こえる。幸生は「失礼いたします」と襖に手をかけた。
開けた瞬間、赤い鞠が飛んできて幸生の顔面に直撃した。
鞠が落ち、鈴の音がころりと鳴る。絢華は布団の上に足を投げ出し、片手を上げたままこちらを睨みつけていた。
その顔の、なんと美しいことだろう。
閉め切られていた部屋に満ちるむせ返るほどの香の匂い。乱雑に捲られた絹の上掛けと、しどけなく崩れた朱色の寝間着、肩の上に落ちる乱れた黒髪も相まって、その姿は爛熟した彼岸花を思わせた。
ぼうっとしていると、もうひとつ鞠が飛んできた。それは幸生に当たる前に畳の上へ力なく落ちる。よく見るとそこにも汁物のこぼれた跡があった。おおかた、若い女中に物を投げつけたはずみで箱膳の中身がひっくりかえったのだろう。その周囲には小さな置物や小箱などが散らばっている。
「帰ってと言ったわ」
肩で息をしながら絢華は呻いた。
「具合が悪そうですね」
「いいときがあると思う?」
「いえ。……その苦しみを和らげてさしあげたいとは思っていますが」
途端に絢華はまなじりをつりあげた。
「だったら今すぐなんとかしてよ。できない? そうでしょうね。おまえは役立たずよ。とっととお医者なんかやめてこの屋敷から出て行って!」
枕が飛んでくる。湯飲みが、茶盆が、火鉢の箸が、小さな猫の置物が……あらゆるものが幸生の体にめちゃくちゃにぶつけられた。幸生は避けるでもなく、自らを庇うでもなく、ただ黙ってなすがままになっていた。
「……なんなの」
投げる物がなくなったらしい。絢華は代わりに声を張り上げる。
「なんなの、その目は。憐れんでいるの? それとも蔑み?」
「そのように見てはおりません」
「嘘!」
絢華は窓辺の文机へ向かってよろよろと這いずった。小さな抽斗を開け、中から大きな裁ちばさみを取り出す。冷たく光る刃先が、絢華の白い胸元へ向けられた。
「お嬢様!」
幸生が反射的に駆け寄る。
「近づかないで!」
絢華は血の気の失せた唇をニィッと曲げて笑った。
「ここでわたしが死んだら、おまえはどうなるでしょうね。お父様は間違いなく激怒して、おまえを殺すわ。きっとこの鋏で滅多刺しにして……」
「私の生き死になどうでもいいことです」幸生が早口で遮った。「しかしお嬢様には余命の許す限り生きていただきます」
絢華の唇がぽかんと小さく隙間を空ける。
一歩、また一歩と、幸生は少しずつ足を踏み出す。
「どうしてもとおっしゃるなら止める権利は私にはありませんが……そのときは私も同じ鋏で自らの喉を切り裂きましょう」
「何を……言っているの?」
絢華の瞳にはじめて怯えが走ったのが見え、幸生は「しまった」と思った。絢華は両手で後ずさり、文机に肩をぶつけて青ざめる。
「おまえは一体なんなの? どうしてそんなことを……ただのお医者のくせに」
「ええ。そうです。ただの医者です」幸生は畳に膝をつき、自らの胸に手をそえた。「あなたの医者です」
絢華は不可解なものを見る目でじっと幸生を見据える。珠のような輝きと仄暗さが混在する瞳に見つめられ、幸生は胸が苦しくなった。
ゆっくりと手を伸ばす。絢華の手に握られた鋏の刃をそっとつかむと、優しく引き抜いた。幸い、彼女は抵抗しなかった。
「……おまえの目は、気持ち悪いわ」
ようやく絢華が声を絞り出した。
「申し訳ありません」
「おまえのことだってわたしは信用しない」
「それでも結構です」
「……おまえもどうせ、みんなと同じ。わたしにさっさと死んでほしいんでしょう」
「まさか」幸生は手にした鋏を見せた。「もしもそうなら、お嬢様をお止めしませんでした」
「信じないわ」
絢華は嘲るように笑った。直後、さっと顔を青ざめさせ、両手で腹をおさえた。
「……っ」
「苦しいですか」
幸生は急いで布団を引き寄せ、「こちらへ」と絢華を手招いた。絢華はつらそうに息を吐きながら、這うように布団の上へうずくまる。
「痛むのですね。吐き気はありますか」
絢華は力なく首を振った。幸生は鞄から杖を取り出し、ぱちんぱちんと組み立てる。「失礼いたします」と浴衣の内側へ杖先をもぐり込ませた。
絢華は何か言いたげな顔をしたが、抵抗する気力もないらしい。幸生はしばし腹部のあたりを探り、杖を引き抜いた。
「前回より張りが強いですね。腹水を物理的に抜くのは最終手段ですから……極力、薬で様子を見るほかありませんが」
「なんでもいいから……どうにかして」絢華は長い睫毛ごしに濡れた瞳を向けた。「死にたい、くらい、つらいの……はやく」
幸生は鞄から長細い小箱を取り出し、中から注射器を取りだした。小瓶を開け、薬を器に満たす。
「一旦鎮静薬を打ちます。それから、前回より強めの利尿剤と、健胃薬を出しますから、起きたら必ず飲んでください。いいですね」
それだけ言い終えると、幸生は杖の先で絢華の腕を器用に押さえ、手の甲へ薬を注入した。
「もう少しです。もう少しで楽になりますから」
「おまえ」絢華は青ざめた唇を開く。「わたしが気を失ったからって、もしも触ったら……殺すわ」
「触れません。……不安でしたら、この襖を開け放しておきましょう」
幸生は申告通り、すぐに襖を開けた。周囲の障子にも手を伸ばすと、「やめて」と力ない声で制される。
「もういい……じゅうぶんだわ……」
絢華は気の抜けたような声で、ひとりごとのようにつぶやく。焦点の合わない瞳が、幸生の目を追い、天上を見上げ、やがて瞼が閉じられた。
薬の補充が終わると、幸生は枕元に散らばった血染めの布やちり紙を回収し、新たに清潔なものを木箱に入れた。これで今日の仕事は終わりだ。
だが幸生は、眠る絢華の布団のそばで膝をつき、しばしのあいだ、その美しい寝顔に見入っていた。
閉じられた瞼を縁取る長い睫毛。少し痩けているが、まるみを帯びたなめらかな頬。ふっくらと形の良い唇。枕元に広がるぬばたまのような輝く黒髪……すべてが、精巧な人形のように完璧だった。見れば見るほど深い沼に足を取られてゆくようで、目を逸らそうとしてもなかなか逸らせず、幸生は恍惚に口を半開きにしたままただ絢華を見つめていた。
美しい。こんなに美しいものはほかにない。
己の手が触れることさえ許されぬ美の化身がそこにある。この美を永遠にとどめておけたらどんなにいいだろう……
ふいに絢華の唇から微かな呻き声が漏れた。幸生の意識が現実に引き戻される。
「お嬢様」
鎮静剤を打ったとて、苦しみが溶けて消えるわけではない。偽りの眠りから醒めたあとどうなるかは誰にもわからないのだ。
「私はここにおります。お嬢様……」
時間の許す限り、幸生は絢華のそばにひたすら、寄り添っていた。
「今度こそ……あなたをお守りしますから」
――あの約束を、果たしていただくために。




