第二話 風来の医者
絢華の母、千草は男爵家の令嬢で、その美貌は粗い白黒写真でも明瞭だった。肌は輝くほど白く、目元が儚げで、眉は常に惑うような弧を描いていた。そんな彼女にまっすぐ見上げられたらどんな男でもほだされてしまうだろう。
父もまさにその一人だった。父は財閥の立場を総動員してあちこち手を回し、最終的には男爵家が資金繰りに困窮していたのを助ける代わりに母を娶った。
父の溺愛ぶりはすさまじく、母の機嫌を取るために家計が湯水のように使われていたらしい。
その母は、絢華を産み落としてすぐに姿を消した。
発見されたのは一ヶ月後。ある山のほとりに水死体となって流れ着いていた。見知らぬ男と互いの手首を縄でくくり、心中していたのだ。
心中の相手は男爵家に仕える馬丁だったという。父は激怒した。男爵家への援助の一切を断ち切り、財界から追放しようとした。令嬢の駆け落ちは華族の恥であり、社交界では忌避される。だれも一家を庇おうとはしなかった……
***
「お、お嬢様」
襖の向こうから女中の声が聞こえ、絢華は薄い微睡みから目覚めた。
「ご昼食を、お持ちいたしました」
「……」
起き上がり、あくびをかみ殺す。女中が困り果てたように「あの……お、お嬢様」と小さくつぶやく。
「うるさいわ。さっさと入りなさいよ」
女中は「失礼、いたします」とびくつきながら襖を開けた。肩を縮こまらせて、なるべく絢華のほうを見ないようにして、箱膳を布団の脇に置く。若い、新入りの女中だった。
絢華は箱膳に胡乱な視線を投げた。吸い物や湯豆腐、葉物の胡麻和えなどが彩りよく並んでいる。絢華は手始めに豆腐へ箸を入れ、細かく割りほぐした。限界まで解体し、中身をじっと見つめる。胡麻和えも同様に箸でかき回した。
ふと、こちらを蒼白な顔で見下ろす女中の視線に気づいた。絢華は仄赤い唇の端を薄くつり上げる。
「ねえ。これ、あなたが食べて」
女中は困惑するように「え」とつぶやいた。絢華はにっこりと目を細めて箱膳を押しやる。
「目の前で食べてみてくれる?」
「し、しかし、こちらはお嬢様のお食事で……」
「聞こえなかったの? 食べなさいと言ってるのよ」
「で、ですが、そんなことは」
「食べられないの? 毒が入ってるから?」
女中は「滅相もありません」と泣きそうな顔で言いつのった。絢華はますます目を細める。
「じゃあ、食べられるでしょう?」
女中はまごついていたが、観念したように箱膳の前へ座した。恐縮に震える手で箸を取り、絢華が乱雑に散らかした胡麻和えをつかむ。
「お豆腐も。お吸い物も。米も。全部よ」
歌うように言うと、女中はますます肩を縮め、言われるがまま箸をつけた。そうしてほとんど空になったとき、絢華は「あらぁ」と目を見開いた。
「わたしの食事、全部平らげてしまったの?」
女中は無言で目をぱちくりとさせた。
「……えっ」
「わたしの食べる分がないじゃない」
「え、で、ですが、その、食べるようにと……」
「全部食べろなんて言った覚えはないわ。毒が入ってないか確かめてって言っただけよ」
絢華は締め切られた障子の向こう、母屋のほうへ視線を向けた。
「お父様に言いつけなくっちゃ。わたしの食事を全部〝味見〟しちゃった手癖の悪い女中がいるって……」
「も、申し訳ございません!」
女中はひれ伏し、必死に声を上げた。
「もう一度お食事を用意して参ります、どうか、どうかお許しください、どうか……」
「汚いわ、畳にさわらないで」
絢華は冷たく言い放ち、戸口を指さした。
「とっととそれを持って出ていって。ほらはやく」
女中は箱膳をひったくるように持ち、転がるように部屋を出て行った。
絢華はため息をつき、再び褥へ身を横たえた。そのままもう一度寝入ろうとしたとき、今度は左手の障子のほうから「お嬢様」と低い声がした。
はっと目を上げる。白い障子に大きな影が映り込んでいた。心臓が嫌な音を立て始める。
「……お医者?」
「はい。今日の診察に参りました」
幸生のぎらついた視線が脳裏をよぎる。昨日、死の宣告を受けた絢華を見つめる不気味な瞳を思いだし、ぞわりと身を震わせた。
「いらないわ。薬は足りているの」
「睡眠薬ですか。それは薬とはいいません」
「もう手の施しようがないんでしょう。だったらひたすら眠っておとなしく死ぬだけよ。医者なんていらないわ」
「あなたのお父上様は、そう思っておられませんよ」
「……」
この医者の雇い主は父だ。どんなに我が儘を重ねても、父の決定に逆らうことなどできない。
絢華は上体を起こし、布団を巻きつけるように引き上げてから「入りなさい」と告げた。
「失礼します」と襖が開き、幸生が慇懃に腰を曲げる。相変わらず見上げるような巨躯である。絢華は布団の端をぎゅっとつかんだ。
幸生は布団からわずかに離れた位置に膝をつくと、まず部屋を見渡した。続いて絢華の布団からのぞく首元をじっと見つめる。
「食事は、もう済まされましたか」
「食べてないわ」
「なぜです」
「食べたくないからよ。何か悪くて?」
幸生の不気味な顔を挑戦的に睨めつけると、彼もまた、じっとりとした眼差しを絢華に向けた。
「もう、ほとんどのものが喉を通らないのではありませんか」
絢華はわずかに視線をそらした。幸生が淡々と続ける。
「胃の腑に癌のある患者は、次第に食欲を失い消化能力も低下していきます。今後は一回の量を減らし、一日数回に分けて負担なく口にされるのがいいでしょう。粥やうどん、果物などを――」
「食べたくないと言ったでしょう。食事なんてとりたくないの。だから放っておいて」
幸生は口をつぐみ、しかしすぐに声を発した。
「……そんなに、信用なりませんか。使用人が」
「え?」
幸生は「いえ」とすぐに目を伏せた。彼がほんの少し動揺しているのを察し、絢華は目をまたたく。
「そうよ。……誰のことも信用していないわ」
自嘲気味につぶやく。それだけで済まそうと思ったのに、なぜだか次々と言葉が漏れた。
「どこで誰がわたしを陥れようとしているのか、わかったものじゃない……この家にわたしの味方はいないわ」
「お父上様がいらっしゃるでしょう」
「そうね。わたしを恨む継母や、異母弟、異母妹……彼らに比べればわたしに優しいものね。でもそれは全部嘘よ。つくりもの。わたしに向けたものじゃないわ」
言い切ってから、絢華はすっと口を閉ざした。
なぜだろう。いらないことを言いすぎた。来て間もない、得体の知れない医者風情に。
幸生は「そうですか」と抑揚なくつぶやくと、鞄を開けて中をさぐった。折りたたまれた杖を取り出し、ぱちんぱちんと組み立てていく。絢華は思わず肩をこわばらせた。
「……またそれでわたしを突くの」
「突きません。少し診させていただくだけです」
「もっと他にないの? せめて先に綿紗でもつけて――」
「それでは感覚が鈍ります」
幸生が杖を差し向ける。「布団を上げてください」という平坦な声に、絢華はまなじりをつり上げた。
「また着物をぬぐの?」
「はい」
「いやよ」
「それでは困ります。昨日、確認しそびれたことがありますので」
「いやって言ってるじゃない。どうせ助からないんでしょう、もう何をしたって無駄よ」
「あなたが安らかな日々を過ごせるよう、手を尽くしてほしいとお父上様から仰せつかっています」
「いやって言ってるでしょ!」
絢華は身をよじり、布団をさらにきつく巻きつけた。それからふいに意地悪く目を細める。
「わたしが大声を出したら、おまえはクビよ。それどころか、もうお医者として商売できなくなるでしょうね。警官に捕まるかも……少なくともお天道様の下を歩けなくなるわ」
「そんなことなさらずとも、私は日の下で生きてはおりませんので」
一瞬、奇妙な沈黙が下りた。
「どういうこと?」
「私は、町医者などではありません」
「……はあ? お医者じゃないということ? 藪なの?」
「私の主な患者は、侠客や花街の者です。……おわかりいただけますか」
絢華はぽかんと口を開けていた。その様を、幸生は少しだけおかしそうに見つめる。
「箱入りのお嬢様にはご理解いただけないかもしれませんね。つまり、私は日陰者にすぎません。あなたが追い出せば、私は裏の世界へ帰るだけです」
「……じゃあ、昨日言っていた、癌の患者って」
「とある侠客の方でした。賭場と置屋を持つ、花街ではそれなりに権力のある方で……どうも体調がすぐれない、商売のために長生きしたいから腫瘍がないか体を開いて診てくれと懇願してきたのです」
理解が追いつかない。この男は、いわゆる闇医者ということなのか。なぜ父はわざわざ怪しげな出自の者を絢華の元へよこしたのだろう。
「お父上様は、私を裏社会の名医だと思っておられるようですね。身に余るお言葉ですが、ご期待に添えようと思い参じました」
「……ふ、ふふふ」
絢華はこらえきれずに噴き出した。真面目な顔で姿勢良く座っている幸生の姿に耐えきれず、げほげほと咳き込みながら肩をゆらす。
「そう。おまえ、評判がいいのね。でもそれだけじゃないわよ。お父様はお医者が嫌いなの。もううんざりしているのよ。みんなわたしの誘惑に耐えられないと思っているから」
「……誘惑」
「お父様はね、わたしが誰かのものになるのが耐えられないの。だからわたしが嫌悪するような、醜い顔の医者を探したのよ」
刺々しい声が狭い部屋に響き渡る。絢華は挑発的な眼差しで幸生を睨めつけていたが、ふいに喉を押さえた。
げほ、と赤黒い血が布団に飛び散る。幸生が反射的に身を乗り出すのが見えた瞬間、「さわらないで!」と叫んだ。
「さわらないで……近寄らないで……!」
口を拭おうと枕の脇を探る。だが手に取ったのはすでに血の染みついた布きれだった。新しい布はもうそこにない。顔をしかめていると、幸生が鞄の中から包みを取り出し、中から白く清潔な布を取り出して絢華の顎にあてがった。
思わず、その手に手が触れた。幸生の手が光の速さで引っ込み、布がはらりと膝へ落ちる。
苦しげなうめき声が幸生の歪んだ唇から漏れる。彼は慌てたように新しい布を取り出し、小さなガラス瓶を傾けて透明な液体で濡らすと、先ほど触れた絢華の手をごしごしと拭った。酒精のつんとした匂いが辺りを漂う。
「……なに、して」
「申し訳ありません」
まるで汚い泥でもついたように絢華の手をこすり続ける。その目はひどく震えていた。
「もう、いいわ、そこまでしなくても」
絢華が手をどけると、幸生は気まずそうに布を下げた。大きな体躯を恐縮げに縮こまらせているのがなんだか哀れで情けなく見え、絢華は肩から力が抜けるようだった。
「ねえ、体。診るんでしょう」
汚れた布団をどける。帯をゆっくりと解いて見せると、幸生が目を剥くのが見えた。たちまち嫌悪感が戻ってきて、絢華はぎゅっと眉をひそめた。
「おまえ、やっぱり気持ち悪いわ」
「……申し訳ありません」
「はやく済ませて。部屋もそろそろ寒いんだから」
はらりと着物をはだけさせると、幸生が慌てたように「下は見ません」と言った。「腹部だけを」と、急くように言われ、そうなの、と裾を閉じる。両腕で胸を隠しながら、「はやく」と告げた。
幸生の杖の先が、そっと胸の下に触れた。陶器のような肌の上を、つ、とすべらせる。何かをさぐるように、ときどき軽く押さえながら、絢華が顔をしかめるのをつぶさに見つめた。
「軽く腹水が溜まっているようですね」
杖が離れる。幸生は鞄の中から風呂敷を取りだし、畳の上に広げた。
「ふくすい?」
「はい。腹部が張って苦しくありませんか」
絢華は浴衣をかき合わせながら「そうね」とうなずいた。体調が悪化してからずっと続いていたのですっかり慣れてしまったが、このところ息苦しささえ感じていた。
「まだ軽いですから、利尿剤で様子を見ましょう。針を刺すような段階ではありません」
淡々と述べながら、風呂敷の上に小さな包みをいくつか並べる。
「食欲の減退、吐血……激しい胃の痛みもあるでしょう。それ以外に気になる症状はありますか」
「……別に。常に熱っぽいくらいよ」
「体が重怠い感じですか」
「そうね」
「貧血もありそうですが」
「……立ちくらみは、よくあるわね」
幸生はうなずき、小さな薬包をいくつかほどいた。それぞれ、様々な色の粉が詰められている。
「胃の痛みや不快感をやわらげる薬を出しておきます。熱を下げる薬の常飲は推奨されていませんが……なるべく、体がつらいときにだけ飲むようにして」
「待って、待って」
絢華は思わず制した。
「そんなにたくさん、一度に言われても覚えられないわ」
「……では、使用人に託しましょうか」
「やめて、絶対いや」
絢華は窓際の文机を指した。
「どれがどれか、紙に書いて。わたしにもわかるように」
幸生は言われたとおり、持参していた万年筆で紙に薬の服用方法を書いてくれた。字は意外にも丁寧で、細かな字が几帳面に並んでいる。それに目を通している横で、幸生が立ち上がった。思わずびくりと身をこわばらせると、慌てたように「失礼しました」と告げられた。
「その布きれを回収しておこうと思いまして」
彼の視線の先にあるのは、枕元にちらばった血染めの布である。
「血液は衛生上よくありませんから。本当は使用人にさっさと処分させるべきですが」
「……だれもここへは来ないわよ。前は来ていたけれど、そのたびにいびって追い出してやったから」
その瞬間、幸生の瞳に一瞬、寂しげな光がゆらめいた……ように見えた。
「そうですか。では、今後はわたしが回収しておきましょう。新しいものも補充しておきます」
「まるで使用人ねえ」絢華はせせら笑った。「今どきのお医者は使用人の真似事もしてくれるの?」
「あなたがそれをお望みであれば」
至極当然のように言うので、絢華は面食らった。
「……冗談よ。おまえに世話されたくないし、触れられたくもないわ」
「直接触れることはありません。ご安心ください」
それから幸生は黙々と薬を選り分け、絢華が飲みやすいよう包みを整理すると、血で汚れた上掛けの布を丁寧に剥ぎ取って部屋を出て行った。戻ってきたときには新しい布を両手に携えていた。
「お確かめください」
と、絢華の目の前で布を広げてみせる。練色に染まった絹の生地には染み一つついていない。
「……何を?」
「怪しい箇所を」
絢華は思わず「ふっ」と肩を揺らした。
「どうしておまえがそんなことを気にするの?」
「あなたが安心して床につけるようにするためです」
この男は、絢華が誰も信用していないという事実を、真正面から受け止めていた。使用人から受け取ったものを、絢華の目で直接検めさせようとしている。
絢華は布を手に取り、隅々まで指先をすべらせた。
「大丈夫みたい」
「ようございました」
幸生は上掛けに布を取りつけると、丁寧に頭を下げた。「失礼いたしました」と静かに告げ、障子を開ける。
もう一度低頭してから、ゆっくりと閉めた。絢華はもう布団にくるまっていて、そちらを見もしなかった。
――変なお医者。




