第一話 病める乙女
ひとつ咳き込むたび、手のひらに赤い花が散る。鉄くさいそれをぬぐう端布が、枕元にうずたかく積もっている。
だがこれを処分してくれる使用人はいない。
この体を診にくる医者もいない。
すべて、ここから追い出した。今や誰も近づきはしない。
ここは屋敷の離れで、母屋とは細い渡り廊下でつながっているだけの小さな部屋だ。畳張りの部屋は締め切られていて、香の匂いと病の気配が充満している。その真ん中に敷かれた布団の上で、高久絢華は咳き込みながらまたひとつ血を吐いた。
この春、絢華は十八になった。前々からうっすらと体調が悪かったのだが、誕生月をすぎたあたりで明確に悪化した。胃の辺りが痙攣を起こしたように痛み、喉へ血が上る。本当は会いたくないのだが耐えかねて父親を呼び、現状を伝えるとすぐさま医者を呼んでくれた。その医者は胃潰瘍だと診断した。
現状、この病を完治させる薬はない。気休め程度の胃薬を飲み、安静にして、治れば幸運である。そう説明する医者の目が、絢華の乱れた着物から覗く足や胸元をじりじりと舐めるように見つめていたのが今でも思い出されて気持ちが悪い。
医者はその後も診療と称して絢華の元へ通ってきたが、ある日とうとう「触診させてください」と言って絢華を押し倒し、着物をはだけさせようとした。
咄嗟に手ぬぐいで相手の首を絞めた。
騒ぎを聞きつけた父が表の庭から飛んできた。男の狼藉を知った父は激怒し、男を拳で散々にぶった。そしてくるりと絢華のほうを振り返り、鬼の形相で詰め寄った。
「どうせおまえが誘ったんだろう! おまえも、千草と同じ……売女の血が流れているのだからな!」
ぎりぎりと首を絞められながら、絢華はすべてを諦めたように両手をだらりと下ろした。
――ああ。
――わたしはいつまで、愚かな母親の業を背負えばいいのだろう。
苦しみを極限まで抑え、ひたすら冷めた瞳で見つめていると、父はハッと目を見開き、手指から力を抜いた。
「すまない、すまない……おまえは悪くない……絢華……」
先ほどまで殺意に満ちていた瞳を情けないほど震わせながらすがりついてくる。
こうなったらもう、何を言っても無駄なので、絢華はただ黙って父の気が済むまで、その気持ちの悪い謝罪を聞き続けていた。
父は高久財閥の当主である。財界に手を回せば件の医者の医院を潰すことなど造作もないことだった。
その後も父は絢華の体を案じ、懲りずに医者を手配した。だが呼ばれた医者は皆、例外なく絢華に劣情を抱いた。
それも無理からぬこと。褥に横たわる彼女のしどけない姿はあまりにも目に毒であった。病におかされ、体は徐々に痩せて血の気も失せはじめているというのに、その肌はいっそう白く、青白い血管が透けて儚く、形のよい胸元からは仄かに甘い香りが漂い、娘らしいあどけなさの残る顔には大人びた艶がにじみ出ている。唇と同じ朱色の着物の肩に流れる黒髪は流れる川のように美しい。そばに寄れば女であってもくらりとしそうなほど艶やかなのに、男ならばどれほどの魅惑であっただろう。
医者の粗相があるたびに、絢華は父から痛めつけられた。それを遠巻きに見る使用人たち。その騒ぎを遠くで耳にしながら嘲笑う継母と、その子どもたち……
絢華は遠い目の奥に心を殺した。
もう医者なんていらない。
放っておいて。だれも来ないで。わたしに関わらないで。
明日にでも病魔が命を刈り取ってくれたらいいのに……
庭から桜吹雪が消え、うんざりするような陽気が去り、木枯らしが吹きはじめたころ。
絢華はしんと冷えた部屋で褥に横たわり、香炉からただよう甘ったるい匂いを気怠げに嗅いでいた。
このところ体が重く、妙な熱っぽさが続いている。以前から胃がしくしくと痛んでいたが、ついには周囲の骨が軋むほどの痛みが出はじめ、誤魔化すように香を焚きながらぼんやりすることが多くなった。
「絢華」
襖の外から父親の声がした。「入るぞ」
返事を待たずに襖が開く。こちらをのぞき込む父親の後ろにもう一人、だれか大きな人影がある。
「具合はどうだ」
「相変わらずですわ」
「そうか。……実はな、新しい医者を見つけたんだ」
絢華は黙って目をしばたたいた。
最後の診療はおよそ2ヶ月前。そのときも絢華は襲われ、大騒ぎとなった。それきり父は医者を呼ぼうとはせず、症状が悪化したときは薬師から処方された睡眠薬を飲んで耐えていた。それで済ませていたのに。
父が先に部屋へ踏み込む。その後ろから、大きな影がぬっと現れた。
絢華は悲鳴を上げかけた。まるで悪夢のような醜い顔がこちらを見下ろしていたからだ。
顔の皮膚全体が焼けただれ、左目は腫れ上がりつぶれかけている。口元も片端が不自然につり上がっていて、まるで怪異絵巻の化け物のようだった。
「初めまして」化け物じみた男が長い体躯を折り曲げた。「田中幸生と申します」
絢華は出かけた悲鳴を呑み込んだ。努めて表情を変えぬよう、冷ややかな目で男を見る。
「あなたが……お医者?」
「はい。――さっそく、お嬢様のお体を診させていただきたいのですが」
男の声は低く、淡々としていながらも、どこか胸に引っかかるような癖があった。不快ではないのだが、なぜだか気に障る。
「今日はいいわ。わたし、もう眠いから……」
「いかん。絢華、わしがついている今のうちに診てもらいなさい」
父は畳にどかりと座り込み、腕まで組んでしまった。
幸生と名乗る医者にもう一度目をやると、熱っぽい視線とぶつかった。
幸生はすぐに目を伏せたが、そのぼっと熱を灯したような視線はこれまで嫌と言うほど味わっている。絢華は小さく息を吐き捨てた。
まただ。また……父に痛めつけられる。
「診るといったって……胃潰瘍なのには変わりないでしょう。気分が悪ければ薬を飲むわ。それ以外なにをするというの」
「他の医者にそう診断されたのですか」
「胃が痛くて熱っぽくてときどき血を吐くの。四六時中気分が悪いわ。最近は食欲も落ちてきて……治るかどうかは運次第なんでしょう? 診てもらわなくて結構よ」
「この人はいろいろと特別な医者だ。おまえのそれもなんとかできるかもしれない。診てもらいなさい」
父親の態度は頑なだった。幸生が革製の鞄を開け、ごそごそと中をさぐりだす。
「いや」絢華は浴衣の前をかき合わせ、身を固くした。「いやよ。やめて。診ないで。触らないで!」
幸生が鞄から取り出したものをカチカチと組み立て、伸ばしていく。一尺ほどの小ぶりな杖が現れ、それが絢華のすぐそばに、とんと突き立てられた。
「手では触れません」
落ち着き払ったような声と共に、杖の先がゆっくりと動いて、布団の上から絢華の腹に触れた。
「捲っていただけますか」
まるで虎列刺患者のような扱いに、絢華は露骨に眉をひそめる。幸生の醜い顔を睨めながら布団を下ろした。
「着物もお願いします」
淡々とした、冷徹ともとれる声に、背筋が寒くなる。屈辱にわななく唇を必死にかみしめながら、浴衣の前をそっと開いた。
乳白色のなめらかな肌があらわになると、幸生の喉がごくりと動くのが見えた。杖の先が、絢華の薄い腹をかすめるように撫でる。固く冷えた感触が肌を這うのがどうしようもなくおぞましく、背筋が震えた。
何よりも、幸生の目に嫌悪感がつのった。醜く爛れ、うもれかけた左目までもがぎらぎらと火照っている。その目が胃の腑のあたりを、呼吸で胸が上下するさまを、つぶさに見つめてくるのだ。絢華の裡まで見透かそうとするかのように。
やがて幸生は杖を置き、鞄から小さな四角い入れ物を取り出すと、中を開けて銀色の器具を取り出した。薄く平たいそれを手に、もう一方の手で再び杖を握ると、絢華の顎をぐいと持ち上げた。
「口を開けて」
「……えっ」
「舌を見ます」
絢華はいやいやながらも口を開けた。「もっと舌を」と催促されたが、屈辱と嫌悪が先走り、首を激しく横に振る。
幸生は小さく息をつき、銀色の器具を絢華の舌に押しつけた。ぐ、と押され、喉に異物感がこみ上げる。
幸生の目がいっそう怪しく光り、今にも襲いかかられそうで、絢華は激しく身震いした。「やめて!」――気がつけば顔を背け、できるだけ遠ざかろうと身をよじっていた。
幸生が器具を布きれで包みながら、
「癌かもしれませんね」
と言った。
その声は実に淡々としていた。絢華も父親も、危うく聞きそびれるところだった。
「……がん?」
「ええ。ここ数年、異国で研究され始めている病です。この日ノ本でも徐々に認識が広まりつつあるようですが。臓器に腫瘍が宿り、そこから体中の組織を徐々に侵してゆくのです」
「なぜ、そうとわかる」
父親が声を絞り出す。
「以前、同様の患者を診ましたので」
「治ったの?」
絢華は急くように尋ねた。幸生は表情を変えずに「寛解しました」と告げた。
「かんかい?」
「病状が見られなくなって久しいという意味です」
「治ったということか」父が身を乗り出した。「なら、娘にも同じ治療を施してくれ」
「できません」
またしても淡々と、そよ風のように幸生が答える。絶句する父親を見、事務的に言葉を重ねた。
「その患者は幸い症状が軽く、おかげで癌だと初めは見抜けませんでした。ただ、患者自身が癌について聞きかじっており、自分もそうではないかと恐れ、間違っていてもいいから確かめてくれと訴えてきたのです。患者の言うとおり、体を開くと確かに育ちかけの腫瘍がありました。それを切除し、予後に寛解を確認できたのです。……しかし、お嬢様の場合は」
幸生の醜い目が、絢華の腹のあたりを見下ろした。
「すでに体は衰弱しており、杖の触診でもわかるほど胃の腑が硬い。もう末期でしょう」
締め切られた部屋に重々しい静寂が満ちる。その空気の下をかいくぐるように、絢華は小さく声を上げた。
「わたしはもう、助からないの?」
「はい」
「もう一片の可能性もないの?」
「経験した限りでは」
口の端が引きつり、唇の隙間から乾いた笑いが漏れた。
「ふ、ふふふふ……あはははははは」
笑いが喉に引っかかり、げほげほと咳き込む。手のひらに血がこぼれ落ち、浴衣の胸元にも雫がとぶ。気づけば枕をつかんで膝へ叩きつけていた。何度も、何度も、まるで敵のように膝を打ち付ける。その手を幸生の杖が押さえた。
「おやめください。お体に傷がつきます」
「そんなのもう、どうだっていいわ!」
はやく死にたいと思っていた。
死ねるのだ。もうすぐ。それでいいはずなのに。胸の中がむしゃくしゃして、どうしようもなく虫唾が走る。その矛盾がさらに気を苛立たせる。
「傷つこうがそれで死のうがおまえに関係ないでしょう!」
父が慌てて絢華の肩を押さえる。
「誰か! 絢華を止めろ!」
女中が、下男が、廊下から湧いて出てきて寝床を取り囲む。四方八方から手が伸びて、絢華の華奢な体を力づくで押さえ込む。
「やめて! さわらないで!」絢華は金切り声で叫んだ。「わたしにさわらないで!」
ぷつ、と小さな痛みが絢華の肘の内側を鋭く刺した。叫ぶ声がだんだんと遠ざかる。水槽の中に沈んでいくように、音も景色もすべての焦点がぼやけていく。
最後に見えたのは、汚らわしい使用人たちの向こうからこちらを覗く、左右非対称の目。じっとりとこちらを観察するような鋭い眼差しの奥に、どこか案ずるような不安がちらついているのが一瞬、見えた気がした。




