第十話 一周目(2)
季節がまた少し流れ、雪が降り積もりはじめるころ、絢華は父親から蓄音機を借り、締め切った部屋でレコードを聴いていた。
「ねえ、この歌、知っていて?」
絢華がレコードの入っていた厚紙の外袋を見せる。幸生は目を細め、印字されているアルファベットを読んだ。
「歌は存じませんが、〝Das Veichen〟……ええと、〝すみれ〟と書かれています。Mozart……モーツァルトですね」
「おまえ、これが読めるの?」
「医学書には独語で書かれたものも多いですから」
「ねえ、歌詞は? 歌詞はなんて意味なの?」
幸生は困惑した。
絢華は普段から何かと気怠げで胡乱であり、気まぐれで飽き性だ。一つのことにこれほど関心を向けている姿は滅多に見られない。
「すみませんが、聞き取りは得意では……」
「わからないの?」
絢華が唇をとがらせる。顔はそっぽを向きながら、目だけは幸生をじっと見上げて。
幸生の胸がぎゅうっと締めつけられるように痛んだ。
「では、そのレコードをお借りしてよろしいですか? 次に来るときまでに、なんとか翻訳しておきます」
「じゃあ、お願いね」
絢華は布団から這い出て、レコードを外袋に戻す。今日は少しばかり顔色がよさそうだった。
幸生は帰宅するとさっそく物置の隅にあった蓄音機を引っ張り出した。前任者から役目と家を引き継いだとき、彼が荒稼ぎの果てに手に入れた高級な舶来品の類いも一緒に引き継がれたのだが、これもそのうちの一つだった。
古くくすんだ蓄音機だが、レコードを嵌めるときちんと音を奏でてくれた。くぐもったピアノが流れだし、その上に豊かなテノールが重なる。
幸生は医学書を読む課程で独語を身につけたが、聞き取りは苦手だった。何度も何度も再生しなおしてはそれらしい単語を書き留め、意味がつながるかを確認する。
そうしてついに歌詞の全貌が明らかになった深夜――幸生は恍惚に呼吸を乱し、熱く震える心臓をおさえていた。
なぜだろう。歌詞がいやに胸に刺さる。小さく可憐なすみれの抱く、卑しい欲求が……その果ての結末が……どうしてか、胸にこびりついて離れない。
なぜ今、彼女の顔が浮かぶのだろう。
自分は彼女に、そんなことを望んでいるとでもいうのだろうか。
いや、そんなわけはない。自分はただ、彼女のそばにいたいだけだ。そばにいて、あの美しい顔をいつまでも拝んでいたいだけ。見つめていたいだけ。
『今度はわたしにだけ言って』
彼女の仄赤い唇に、白い指先がそっと当てられる。あの蠱惑的な笑みを思い返すと、幸生は全身の血がぞっと熱く滾り出すのを感じて目眩がした。
この感情はなんだろう。この感情はなんだろう。この感情は……なんなのだろう……
次の診察のとき、絢華は待ちきれないというように「歌詞、翻訳してくれた?」と布団から身を乗り出してきた。
「ええ……」と幸生は鞄から紙片を取り出したが、躊躇うように折り曲げる。瞬間、絢華にひったくられ、幸生は「ああ」と情けない声を上げた。
「すみませんが、先に診察を。私が帰ったあとにでもゆっくりご覧ください」
「どうしてよ。先に見せなさい。気になって仕方ないの」
絢華が紙を広げる。その大きな瞳いっぱいに、幸生の文字を映す。幸生はなぜか肩を縮こまらせていた。
「……まあ」
絢華は細く白い指先でくすっと口元を隠した。
「気持ちの悪いすみれね」
頭を殴られたような衝撃が走った。それと同時に、奇妙な高揚感が胸底に湧き上がってくる。
ああ。
こんな感情だったのか。あのすみれは。
「これ、本当に正しい翻訳なの?」
「そのはずです」
「ふうん。まあ、わかってすっきりしたわ」
絢華は紙を畳にほうって、褥に体を横たえると自ら帯をときはじめた。
流れはいつも同じ――わかりきっているからこその行動だっただろう。だが幸生は、浴衣の隙間からのぞく白い肌が妙に眩しく感じ、思わず目をそらしてしまった。
「はやくしなさい。寒いんだから」
じれったそうな絢華の声に、幸生は「申し訳ありません」とすぐに鞄を開けた。彼女の透き通るような肌に杖の先で触れる瞬間、自分でもあり得ないほど手が震えているのがわかった。
気持ちの悪いすみれ……
醜く卑しい悪鬼のごとき己が……彼女に近づき、触れている。杖を介しているとはいえ……なんと恐れ多いことだろう。
骨の浮いた白い肌の下で、彼女の臓腑はまだ生きて、脈打っている。そのすべてが終わり、魂の抜け出た彼女の姿を想像した瞬間、幸生は突き上げるような感情を覚えた。
これは、興奮だろうか。それとも……激しい哀哭だろうか。
その翌週、幸生の元に、高久晋一郎の遣いが転がり込んできた。
「先生、大変です。お嬢様が……」
幸生が慌てて駆けつけたとき、絢華は激しい熱と嘔吐で意識がもうろうとしていた。晋一郎は幸生の顔を見るなり泣きそうな顔で肩をわしづかむ。
「先生、娘が、娘が……」
離れに寝かされている絢華の顔は見たこともないほど真っ青で、今にもこの世から消えてしまいそうなほど儚く、透き通って見えた。彼女のかぼそい息づかいだけが未だその魂をこの世につなぎ止めているようだった。
晋一郎は顔面蒼白でぐたりとくずおれ、使用人たちによって自室へ運ばれていった。富貴もその子どもたちも、興味本位で覗きに来ただけで、「もうあの子も終わりねえ」と言い合いながらすぐに去って行ってしまう。
幸生はひとまず注射を打ち、様子をみることにした。ここには陸軍病院のような大がかりな設備はないが、移したところでできる処置は限られている。
「お嬢様」
幸生はそばに寄り添いながら、囁くように語りかけた。
「もう、煩わしい者たちはいなくなりました。どうか目を開けてください」
絢華の瞼はぴくりとも動かない。
幸生は生唾を呑み込んだ。彼女のわずかに上下する胸を見、今にも消えそうな吐息を凝視する。
「もう、逝ってしまわれるのですか……?」
この呼吸が、鼓動が、止まってしまったら。
彼女が、この世から消えてしまったら。
「約束していただきたいことがありました」
幸生は清潔な布を取り出し、それで包み込むように絢華の手を握った。
「でももう、この声は……届きませんね」
いや、届かないほうがいい。この醜く卑しい欲望を持つ医者がそばにいるなど、彼女は知らないほうがいいのだ。
「あなたがほしい」
彼女の骨張った白い手を、無意識に強く握りしめる。
「あなたが亡くなったら、その体を剥製にして、永遠のものにしたかった」
美しい彼女の姿を永遠にとどめておけるなら、他の蒐集品なんて捨ててもいい。
だがその許しはもう、得られることはないのだろう……
「気持ちのわるい、お医者ねえ」
一瞬、幻聴かと思った。
だが、目の前に横たわる絢華の目が、薄く開いている。淡い呼吸を繰り返していた唇が、わずかながらも明確に、意思を持って開かれる。
「いいわ。約束よ……」
そうして絢華は、静かに眠った。
それきり目覚めることはなかったが、心臓と肺だけはまだ弱々しく動いていた。
幸生はひとまず帰って、黑鉦会に事情を伝え、少しばかり医院を空ける許可を得た。絢華が永久の眠りにつく最後の最後まで、そばにいるつもりだった。
晋一郎の意思により、絢華の死亡後は土葬することになっていた。金持ちのあいだでは火葬がはやっていたが、「娘の体を焼くなど言語道断だ」と晋一郎が言い張ったのだ。
それは幸生には好都合だった。葬儀がおわったあと、こっそり墓を掘り返して絢華の遺体を回収できる。
自宅で、彼女を剥製にすることができる。
だが、その約束は、果たされなかった。
幸生が高久家へついたとき、絢華は殺されていた。遺体は刃物で無残にも切り裂かれ、寒空の下に放置されていたのだ。
晋一郎の受けた衝撃はすさまじいもので、遺体は急遽火葬されることとなった。遺された骨は富貴の命により無名の墓へ埋められた。
絢華は文字通り、この世から完全に消え失せてしまったのだ。跡形もなく……
「約束したのに」
幸生は彼女の墓のそばで、そう恨めしげにつぶやいた。
倒れ伏した体に凝縮した彼岸花の毒が回る。体の内側を少しずつ焼き焦がしていく。
「約束したのに……お嬢様……」
あなたの美を、永遠にして……己が手の裡にいつまでもとどめておきたかったのに。
この恨み節を、いったい誰が聞き届けたのか。
それとも幸生の凄まじい執念が運命を捻じ曲げたのか。
服毒し、雪に埋もれて死んだはずの幸生は、目が覚めると穴蔵の中で寝転がっていた。
少年時代の孤独に満ちた、あの山中の穴蔵で、幼い幸生は再び目覚めたのだった。




