第十一話 命がけの逃亡
午睡から目覚め、絢華はため息をついた。高熱を帯びた吐息は冷えた空気に溶けて霧散する。
幸生を無理やり追い出して、五日ほど経った。
あれから彼が来る気配はない。――来なくていい。当然だ。
だって、彼もまた、わたしを見ていないから。
「千草」という名は呪いだ。生まれたときから今までずっと、わたしにつきまとって離れない。父も継母も異母きょうだいたちも……使用人でさえ、「千草」の業をわたしに背負わせる。
彼だけは、そうじゃないと思えたのに。
わたしを……わたしという存在を見てくれていると、そう思っていたのに。
ぜんぶただの勘違い、思い上がりも甚だしい。そんな人間などこの世にいないのだ。わたしの価値は、この肉体にしかない……それももうじき朽ち果てる。
幸生の薬は飲んでいない。見るのもいやになった。そのせいか熱が高く全身が重怠い。常にうっすら吐き気がして、腹や胸のあたりの骨がみしみしと軋みそうなほど痛い。
――このまま人知れず死んで腐ってしまえたらどんなにいいだろう……
父は昨日から商談のため異国に赴いている。帰るのは一週間後と言っていたか。継母も子どもたちを連れて実家へ帰ってしまったので、この屋敷には今、使用人しかいない。そして彼らはこの部屋に近づきもしない。食事だけ襖の隙間からそっとねじ込んで、すぐ退散してしまう。
このまま薬も食事もとらなければ、死んでしまえるだろうか。
でも死んだあと、この肉体を好き勝手にいじられるのは嫌だ。邪魔な魂が出て行って、空っぽになった肉体を喜んで貪る者、いたぶる者の表情が脳裏に浮かんで吐き気がする。
ああ、せめて、ここではないどこかへ逃げだせたらいいのに……
絢華は布団からのそりと起き上がった。たちまち強烈な目眩が襲いかかり、膝からくずおれてしまう。
起きて。ちゃんと立って。今しかないのよ。
今を逃したら、もうどこにも行けないのよ……!
自らを奮い立たせ、部屋の隅の箪笥を開ける。朱や紫など派手な色の着物が重なる中で、できるだけ目立ちにくそうなくすんだ色のものを選び取る。毛織りの羽織にショール、厚手の足袋を取り出し、熱で足下をふらつかせながらもせっせと着替えをはじめた。
***
「幸生さん!」
医院の扉がばんと開き、若い男が顔を覗かせた。黑鉦会の下っ端組員だ。幸生は医務室の整理をしていた手を止めた。
「どうした。また怪我人か」
「いえあの……高久家の遣いだって言ってるやつらが幸生さんを訪ねてきていて」
たちまち幸生の顔が引きつった。脳裏には、自分が一度死ぬ前に絢華の容態が急変したときの記憶がまざまざと甦っていた。
「通してくれ」
組員にうながされ、高久家の使用人が駆け込んでくる。記憶の中と同じ女中だ。彼女は幸生の顔を見るなり「先生!」と息せき切って告げた。
「お嬢様がいなくなったのです。離れもお庭も母屋のどこにも……! 使用人全員で隅々まで探したのですが見当たらずで」
思いもよらぬ話に、幸生は「は?」と困惑した。
「いなくなった……?」
「はい。今、旦那様は異国へ出ておられて、奥様と坊ちゃま方もご実家のほうへ帰られて……その……我々もどうすればいいか……先生は何かお心当たりはありませんか、お嬢様とよくお話されていたでしょう!」
幸生のただならぬ顔つきに、後ろで聞いていた組員も「なんか、まずい話のようで」とおろおろしている。幸生はすぐに羽織を取った。
「できるだけ人手を割いて、周辺を捜索してください。町の人にも聞き込みを……お嬢様の容姿は目立つでしょうから」
女中は青ざめた顔でうなずき、医院から転がるように飛び出していった。幸生も羽織袴姿で雪駄に足をつっかける。
「しばらく医院を空ける、周知しておいてくれ」と、組員のほうを振り返らずに言い置いて、扉を開けた。
高久家の使用人たちが総出で絢華を探したが、その姿はおろか、痕跡すら発見できなかった。町の人間にも聞き込みをしたが、彼女のような強烈な美貌の人間を見た覚えはないという。
頭にショールでも被れば顔は見えにくくなる。彼女もそれくらいの知恵は使っているだろう。
びゅう、と強い風が吹きつける。骨身にしみる冷たさだ。もうじき日も暮れてくる。……彼女はどこでどうしているのだろう。
こんなことは一度目の人生では起こらなかった。
いや、そもそも一度目とは出来事や時間の進み方が少し違っていた。一度死に、再び目を覚ましてからというもの、最初のうちは何もかも「知っている」からと若頭との話を効率よく飛ばしたり、勉強の進み具合も早めてしまったりしたのが影響したのか、あらゆる出来事が少しずつ前倒しで起こるようになっていた。絢華が〝すみれ〟の歌詞を知りたがったのは、一度目では真冬に入ってからだったのに、二度目は秋の後半になっていた。
つまり、絢華の命が燃え尽きるのも前倒しになっている可能性が高い――
だからこそ、彼女から慎重に剥製の許可を得て、死ぬ直前まで殺されないようしっかり見張ろうと計画していたのに。まさか、彼女自身が屋敷を飛び出すなんて思ってもみなかった。
口から白い息を吐きながら、幸生は町の端から端までを駆け抜けた。冷たい空気を吸い続け、喉が軋むように痛むが、構わなかった。
彼女はきっと、もっと苦しいはずだ。あんな体でこの寒空の下、ろくに歩けるはずもない。
「お嬢様……!」
幸生の慟哭は、灰色の曇天の下で虚しく霧散する。
「おや、先生」
町外れの小径で、葉の落ちかけた木に手をついて息を整えていると、後ろから声がかかった。振り向けば大八車を引いた中年の男がこちらを見ている。
よく見知った顔だった。黑鉦会と通じていて、組の不要物を処分する役目の男である。幸生も何度か依頼して、組の裏切り者の死体を引き渡したことがあった。
「……ああ」
「ひどい汗ですねえ。こんな日に走り込みですか」
「いや、まあ……」
「ご用なら伺いますよ。追加で銭はいだきますがね。今しがたも、いつもの山までゴミを処分してきたところで」
男は幸生が組の命令で何かしていると思っているらしい。手伝えば駄賃が手に入ると思っているのだろう。
「それなら、ひとつ聞きたいんだが。上等な着物を着た娘を見なかったか。一人で歩いているはずだ。長い黒髪で、体は痩せている」
あえて、顔立ちについては言わなかった。
「娘……ですか」
男は「ふーむ」と顎を撫でた。
「いや娘は見ませんでしたねえ。気味の悪い女なら見ましたけど」
「女?」
「いつもの山でゴミを処分して、麓へおりかけたところで、草むらに着物と髪が見えましてね。倒れているのかと近づいたところ、べしょべしょに吐血してたんで、驚いちまいましたよ」
「吐血⁉」
幸生は血相を変えて男の肩をつかんだ。
「その女の顔は」
「さあ……口元が血まみれで、妖怪かと思ったもんで、衝撃的すぎて覚えてませんや。吐いたみてえなすえたにおいもしたもんでたまらず……」
「場所は。場所を教えてくれ」
男は戸惑いのままに答えた。幸生は「今の話、誰にも言わないでくれ」と、手持ちの金を男に握らせる。
「へ? はあ、先生の頼みならもちろん断りませんけども」
「ありがたい。それからもうひとつ、頼みがあるんだが……」
幸生はひとしきり頼みごとを伝えると、ふたたび走り出した。
黑鉦会がゴミ処理に使う山がある。完全なる私有地で、一般人は立ち入りを禁じている。普通なら誰かが迷い込むことなどない。
そのはずなのだが、草木の生い茂る道なき道に、誰かが倒れ伏している。幸生は提灯をかかげ、ぼやりとした光の輪をなげかけた。黄昏の暗い影の中に浮かび上がるのは、振り乱された長い黒髪。暗い赤の着物に銀鼠色のショール。
幸生は駆けだしていた。草叢をかきわけ、伏した彼女の肩をゆさぶる。
「お嬢様、……お嬢様!」
ひっくり返すと、口から胸元にかけて血でぐっしょりと濡らした蒼白な顔が見えた。よく見ればすぐそばに胃液を吐いた跡があり、着物にもそれらしい汚れがあった。
ぐったりと目を閉じているが、開いた口からは微かな呼吸が漏れている。――彼女はまだ生きている。
できるだけ、素手で彼女の肌に触れないよう、脱げかけた着物を着せ、ショールを首元にしっかりと巻きつける。自分の羽織も脱ごうとしたとき、
「……ゆき、お?」
と霧のような声が耳をさした。
「お嬢様」
絢華の瞼がうっすらと開いていた。長い睫毛の奥で、黒い瞳が戸惑いに震える。
「う、そ、……どうし、て」
「探していたのです。お屋敷からいなくなられたと、遣いの者が教えてくれたので」
虚ろだった絢華の目に、少しだけ生気が灯りはじめる。その目がそばに置かれた提灯の光をみとめ、そのまま、汚れた自らの着物に落ちる。
瞬間、彼女は幸生から逃れるように力なく身をよじった。
「やめて……さわらないで……わたしを見ないで!」
突然暴れだしたので、幸生はすばやく上着を脱ぎ、絢華の肩にまきつけるようにして捕まえた。
「逃がしません」
「いや、いや、見ないで、見ないでよ」絢華は必死で逃れようと身もだえする。「お願い……もう、どこかへ行って……放っておいてよ……」
「どうしてですか」幸生は上着をしっかりと握り直した。「何があって、こんなところまで」
たちまち絢華は恨めしげな目つきになった。唇を噛み、顔を背ける。直後、ごほごほと咳き込み、小さく血を吐いた。
「お嬢様」
「さわらないで!」
よく見れば、絢華の目はひどく潤んでいる。今にもこぼれそうなほどに光って揺れている。
「どうせ、幻滅したでしょう……おまえは、綺麗なわたしが好きだものね。この肉体が欲しかったんでしょう、なのにこうして汚されて……さぞ残念に思っているでしょう。わたしを恨んでいるでしょう」
声を苦しげに震わせながら、訥々とつぶやく。自分の言葉で自らを傷つけるかのように。
「痩せてやつれて、嘔吐して血を吐いて……お腹も醜く張っているわ。『千草』のような綺麗な死に様になんか、してやらない……醜く、汚らしい死体にしてやるの、そうすればおまえはわたしに興味をなくすわ。そうでしょう?」
絢華は口端をひきつらせ、血の雫をこぼす。
「幻滅したでしょう、ほら、さっさとどこかへ行って……消えてよ……こんな姿、見ないでよ……」
絢華はとうとう両手で顔を覆い、伏せてしまった。喉をひくつかせ、小さく嗚咽を漏らす。
「幻滅とは、なんですか」
幸生は上着の端をぎゅうと握りしめた。
「私にとってあなたは、永遠に美しい存在ですよ」
「……うそ」
「本当です。ずっと……ずっとそう思って生きてきました」
絢華の、手の隙間から見上げる顔に怪訝な色が浮かぶ。幸生は意味深く口元をゆがめ、目を伏せた。
「……できればこのまま、あの屋敷にあなたを返さずにいられたらと思っています」
――あなたを穢す男や、あなたを見下し傷つける者たちの棲まう屋敷から逃がしてあげられたら。
絢華は口をつぐんだまま、じっと幸生を凝視していた。幸生は心の内で、(それだけじゃない)とつぶやいた。
ただ自分は、この混乱に乗じて彼女を囲い込みたいだけなのかもしれない。弱り切って身動きの取れない彼女を、自らの巣へ持ち去って……
「そうして」
絢華が囁くように告げた。幸生は小さく息を呑む。
提灯の仄かな光に照らされて、絢華のうるんだ瞳が揺れた。
「おねがい」
胸の内で、何かが爆ぜた。熱いものがこみ上げるのを感じながら、幸生は自分の大きな羽織で絢華を包み、そっと抱き上げる。
そのあまりの軽さに、幸生は絶句した。
すでに死の火が回り始めている。
幸生は道を急いだ。麓には大八車を置いて待機している男がおり、幸生を見るなり目を丸くした。
「先生、そりゃ――」
「彼女を積み荷の中に隠す。私の医院まで運びたい」
例によって金を男の手に押しつけると、男は「へへ、まいど」と黄色い歯を剥き出しにした。




