第十二話 この世にあなたを縫いとめて
絢華は重い瞼を開けた。幾ばくかのあいだ、眠っていたらしい。全身が柔らかなもので包まれている。分厚い上掛けの上に幾重にも毛布が掛けられているのが見える。
目の前にあるのは天井で、小さな電灯が鬱々とした光を放っていた。体をよじらせるとわずかに揺れを感じる。寝台に寝かされているのだろうか。
「目が覚めましたか」
視界の端から幸生がのぞき込んでくる。
皮膚病で腫れ上がり、痛々しい火傷のあとをこさえた醜い顔。もうすっかり見慣れてしまった顔。
「ここは……?」
「私の家です」
絢華はゆっくりと瞳を動かした。そばに立つ幸生の背後の壁に、おびただしく貼り付けられた何かが見えた。
「あれ、なに……?」
「蝶です」
幸生が壁に視線を向ける。翅を広げた蝶々たちが半透明の板に挟まれ、整然と並んでいる様に目を細める。
「私の蒐集品です」
絢華は首をめぐらせ、部屋中を見渡した。蝶だけじゃない。棚の上には翼を広げたまま動かない小鳥が、棚の中には白い手首や眼球の浮いた硝子瓶が、ところせましと置かれている。思わず眉をひそめてしまった。
「ぜんぶ……おまえが集めたの」
「ええ」幸生がうなずく。「どれも美しいでしょう」
「……悪趣味ね」
吐き捨てるようにつぶやくと、幸生は口元をひきつらせた。微笑んでいるのだとすぐにわかってしまう自分が憎くなる。
「幻滅しましたか」
「とっくにしてるわ」
「それでもあなたは、屋敷に帰るのを選ばなかった」
絢華は一瞬だまりこんだ。
「……ええ、そうよ」
「少しは信頼していただけていると……解釈してもいいのでしょうか」
信頼。
果たして、己がこの男に抱いている感情は、信頼と呼べるのだろうか。
「わからないわ」
絢華は小首をかしげた。
「でも、おまえにさからう意味も感じないの」
死が、少しずつ、だが確実に迫ってきている。
死んだあと、この体はきっと、「千草」に囚われた者たちに蹂躙されてしまうのだろう。
でもこの男は、一度も絢華を「千草」と重ねなかった。血と吐瀉物で汚れた醜い自分を、穢れた自分を、今も「美しい」と言ってのけた……
「あなたは今、私の作業台に載っています」
幸生が、絢華の横たわる天板の端に触れる。
「作業台……?」
「剥製をつくる作業台です」
少しだけ、背筋が寒くなった。こちらを見下ろす幸生の顔の片側に、電球の陰がおりる。
「今ならまだ間に合います。拒まれるなら、あなたを看取って、そのまま埋葬します。お望みならお屋敷にお返しすることもできます」
彼はあくまでも、わたしの剥製がほしいだけなのか。
布団の内側は温かいのに、胸の奥が一気に冷えた心地がした。
「わたしを剥製にして、どうするの?」
「この部屋に飾ります」
幸生が両腕をわずかに広げる。絢華は「ふうん……」と部屋を見回した。
「わたしはあくまでも、蒐集品の一部ということ?」
「あなたは特別です。広く場所を空けて、綺麗な着物や洋服を着せて、専用の椅子や寝台を用意します」
「そんなの当たり前よ」絢華はわざと口調を苛だ立たせた。
「でも、他の一部というのが気にくわないわ。この部屋にわたしを飾るなら、他のものなんて要らないでしょう?」
「……それは」
「わたしを飾るなら、他の蒐集品なんてぜんぶ捨てて。この部屋をわたしだけのものにして。それができないならおまえの望みは叶えてやらない。死んだら焼いて、骨は海にでも撒いておいて」
自分でも、愚かだと思う。
死んだ後、幸生が本当に言うことを聞いてくれる保証なんてないのに。
「わかりました」
幸生は吐息混じりにうなずいた。
「あなたを看取ったらすぐに」
その目つきは真剣で、なんとなく、嘘じゃないと思えた。ただの願望かもしれないが。
「何か、ほしいものはありますか。喉がかわいたとか、どこかが痛いとか」
「喉はかわいてないわ……というより、もう何も喉を通らないの。痛みは……不思議と感じないわね……吐き気もないし……あれだけ苦しくてつらかったのに、変ねえ」
ただ感覚が麻痺しているだけかもしれない。だがそんなことはもうどうでもよかった。
「ねえ……」
絢華は何気ない調子でたずねた。
「剥製にするって、どうやるの?」
幸生は毛のない眉をほんのわずかに寄せた。
「まず、皮膚を切開して中身をすべて取り出します。皮膚は腐敗しないよう、鞣して防腐処理をほどこし、臓腑や肉のかわりに詰め物をして形を整え――」
「説明されてもわからないわ」
絢華は布団をめくり、肌襦袢の帯を解いた。襟元をはらりと開いて、青白い肌を剥き出しにする。
「やってみせて」
「……はい?」
「どこをどう切るのか……どこの内臓から抜き出すのか……ああ、実際にメスを握るんじゃないのよ、なぞってみせて」
「な、……」幸生がごくりと喉を動かした。「何を……おっしゃって」
「死んだ後じゃ、見られないもの。おまえがどうやってわたしを扱うのか……だから、今のうちに教えて。実演しなさいよ」
絢華は腕を伸ばし、無防備な幸生の手を取ろうとした。
途端に彼ははじかれたように後ずさった。
「いけません、私に触れないでください」
「どうして?」
「私は、あなたとは違う存在です」
幸生は棚へ向かい、杖を取り出す。すかさず絢華は「杖は使わないで」と告げた。
「それ、固くて冷たくていやなの。ちゃんと手で触れて」
「では、せめて手袋を……」
幸生がゴムでできた分厚い手袋を手に戻ってくる。悪鬼と呼ばれるのもうなずけるほど大きな体をしているくせに、彼は情けないほど肩を縮こまらせている。
「わたし、そんなに汚いの? まるで虎列刺患者みたいな扱いね」
「逆です」
手袋をする幸生の手は、緊張に震えていた。
「私が汚いのです。私は……存在自体が穢れているのです。美しいあなたに素手で触れるなど、恐れ多く……」
皆まで聞いていられなかった。
可能な限り、すばやく両腕を伸ばす。彼の二の腕をつかみ、体重をかけて引き寄せ、戸惑う彼の額に唇を押しつけた。
幸生の体が雷に打たれたように震え、絢華の手から逃れようと身をよじる。だが、絢華は知っている。病に弱った絢華を強くは振り払えないことを。
唇を通して、ざらついた皮膚の感触が伝わってくる。母親に焼かれた彼の顔。呪いだと罵られ、業を背負わされた、哀れな醜い顔……想像でしかない幼い彼を想い、絢華は口づける。
幸生の肩はびくびくと波打つように震えていたが、それもだんだんと弱っていった。「おじょう、さま」と蚊の鳴くような、すすり泣くような声が、絢華の頬に熱い血をのぼらせていた。
やがて唇を離すと、幸生はしばし、抜け殻のようにその場で立ち尽くしていた。ややあって我に返ると、慌てて後ろの棚へ飛びついた。
「消毒を」泣きそうな顔で綿紗を手にし、絢華の唇を拭き取ろうとしたので「やめて」とその手を制した。
「そんなのいらない」
「ですが、私は、穢れて」
「別に穢れているとは思わないわ。それに、おまえの理屈じゃわたしも穢れているのよ」
幸生は困惑めいた顔で首を横に振る。
「そんなことは」
「おまえも知っているでしょう。わたしは……幾度もこの体を辱められているのよ」
「ですが、あなたは穢れていません」
「それはおまえの感じ方でしょう。わたしはおまえがなんと言おうと、この体を穢らわしいと思っているわ」
両手をのばし、幸生の頬を手のひらでつつむ。反射的に退こうとする彼を制するように強く、しっかりと捕らえて。
「おまえもきっと、わたしがなんと言ったって、自分は穢れているって思うんでしょう。じゃあ、いいじゃない……お互いの穢れを移しあえば」
今、幸生は賢い頭で必死にぐるぐるといろいろな考えを巡らせているのだろう。己の感覚と、絢華の言葉と、激しい背徳感とがうずまいて、処理しきれず、呆然としているのが手に取るようにわかる。絢華は少しだけ身を起こして、幸生の耳元にささやいた。
「ね……わたしの体、どうやって剥製にするの? やってみせて」
言いながら手を伸ばし、幸生の手首に触れて、手袋の口へするりと指先をすべりこませた。手袋はあっけなくめくれて、手のひらと手のひらが合わさる。
「ちゃんと大切に……愛情をこめてね」
部屋の中央の作業台に、絢華が横たわっている。はだけて剥き出しになった肌が電球の光に白く輝き、幸生の目には眩しく映った。
この肌の上で、実演しろという。彼女を剥製にする手順を見せろと。
右手を彼女の胸の上へかざす。白い肌に無骨な影がくろぐろと落ちて、それだけで背徳感に目眩がした。
人差し指と中指を重ねて刃に見立て、その先を、絢華の喉元にそっと優しく押し当てた。
「ここから……まっすぐに切り開きます」
そうつぶやいて、指先を下へすべらせていく。痩せて骨の浮いた胸、張りのある腹部……絢華がわずかに身をよじらせる。吐息が甘く耳に響く。
それはまるで毒のように、幸生の胸に熱い染みを広げ、集中力を削ぐ。
「……くすぐったいですか」
「少し」
絢華は上気した頬を片手で覆った。
「次は……?」
「切れ目を広げます」
指先を鼠径部に這わせる。絢華の体が反射的にびくついた。幸生はその反応を努めて見ない振りをしながら、首元から肩にかけても同様に指をすべらせる。
「今入れた切れ目から、体を開いて……中の臓腑を取り除きます」
「何から取り除くの?」
幸生は少し考えた。
「胸骨や肋骨が胸の臓腑を覆っていますから……まずは腹部から。手前から順に抜き取って、骨に覆われた箇所は最後に取り除きます」
「骨はどうするの?」
「皮膚と肉を綺麗に剥がし取れたら、骨壺に入れて埋葬しますよ」
「ふうん」
興味のなさそうな曖昧な声音だった。
「臓腑を取り除くのも、ちゃんとやってみせて」
「え?」
「ふりくらいできるでしょう。ほら、どこから手をつけるの?」
幸生は言われるがままに、両手を絢華の下腹へぎこちなく載せた。青白く、少しひんやりとした柔らかな感触が手のひらを包み、幸生の呼吸が無意識に浅くなる。
触れるたび、絢華が小さく吐息を漏らす。手のひらを這わせた箇所に血の気が通い、やんわりと赤みを帯びる。
この下に、彼女の血が、脈打っている。臓腑が息づいて、冷たい皮膚の下でほんのりと熱を帯びているのがわかる。――当然だ。彼女は生きているのだから。
ふと、幸生の視界に冷たく静止した絢華の肉体の映像が重なった。全身の皮膚が透き通るように青ざめ、その目は虚ろで固まっており、手のひらにはぐにゃりとやわらかな屍肉の感触が覆い……
「――きお、幸生」
耳に彼女の声がさして、幸生は喉をひくつかせた。いつの間にか過呼吸になり、肩が激しく上下していた。
「だいじょうぶ?」
こちらを見上げる絢華の目。意思の宿った、生きた彼女の瞳。
両手が震える。膝から頽れそうなほどに打ちのめされていた。
――そのときが、本当に来てしまったら。
「お嬢様……」
一番待ち望んでいたはずのときが来てしまったら。
「死なないでください……」
人生を股にかけてまで叶えたかった願いに、もうすぐ手が届くのに。
視界がぼやける。目頭が熱い。
「逝かないで……ください……」
膝がわななき、力が抜ける。床に頽れ、作業台にすがりつく。頬に熱いしずくが次々としたたり、醜い嗚咽が部屋中にひびきわたった。
「幸生」
絢華の声が、あやすように優しく呼びかける。
「さむいわ」
「すみ、ません……」
立ち上がり、毛布をつかむ。「ちがうの」と絢華が制して、両腕を広げた。
「もっとあたたかいのがいい」
言われている意味がわからず、「行火をとってきます」と口走ると、「もう」と怒られた。
「いい加減わかってよ……」
その懇願するような目つきと、広げられた両腕に、幸生の胸が突き上げられるように痛む。
作業台に両手をつく。膝をのせると、みし、と作業台がかすかに軋む音がした。
おずおずと、絢華の体を包み込む。その冷たい胸に、自らの胸をぴたりと押し当てるように。
自分の熱が、少しでも彼女の命の灯火を長らえさせるようにと。
「あたたかい……」絢華はため息をつくようにつぶやいた。「熱いくらいだわ……」
幸生は返事ができなかった。愛おしい感触が全身に触れて息ができないほど昂ぶり、嗚咽と入り混ざってひどい声をあげていた。
「おまえのそばで、わたしを永遠にしてね」耳元で、絢華がささやく。「約束よ……」
最後の吐息が、唇からこぼれ落ちる。
美しい微笑みが、黒百合のように花開く瞳が、春桃色に染まる頬が、……すべてが、儚く、透明に沈んでいった。
***
娘が行方をくらませた、という報せを聞きつけ飛んで帰ってきた高久晋一郎を待ち受けていたのは、絢華が履いていたという朱塗りの駒下駄と銀鼠色のショール、血のついた紅樺色の羽織だった。
下駄は海岸の崖上にそろえて置かれ、ショールと羽織は沖に流されていたという警官の報告を聞き、晋一郎は「ああ、ああ……」と声をあげ、娘の遺品にすがりついて三日三晩むせび泣いた。
後妻の富貴は「あなた、もう、あんな親不孝な娘のことは忘れて」と優しく声をかけたが、晋一郎は富貴を突き飛ばし屋敷を飛び出したという。
「娘を探す! まだ死んでなどいない!」「そうだ、あれはきっとわしを待っているのだ。わしだけを待って……」
それは嵐の晩だったという。晋一郎は小舟一艘で海へ繰り出し、以来、帰ってくることはなかった。
晋一郎が娘の後を追ったという情報はたちまち町中に広まり、「高久当主は妻にひどい仕打ちをされたのに、娘のことは愛していたのか」「そういや娘は後妻親子からひどくいびられていたらしいな」などとまことしやかに囁かれ続け、富貴は徐々に気が狂っていった。使用人に当たり散らし、我が子である葵の顔を見るなり髪をわしづかんで「おまえのせいだ!」と叫び、屋敷の外へ引きずり出すようになったという。
若い娘の顔を見るとすべて絢華に見えるのか。その絢華を通して「千草」に今でも嫉妬しているのか。
息子の晋之介はまだ父親の事業を継げるような年齢ではなく、誰が彼の後見人となるのか、親族間で激しい争いが繰り広げられたというが、その後どうなったのか、情報は定かではない。
***
高久邸を筆頭に高級住宅の連なる丘と、その下に広がる港町。
潮風に背を向け、線路沿いをひたすら行けば、未だ御一新前の香りを残す下町に出る。賑やかな通りから道をはずれ、薄暗い路地裏を歩いた先に誰もよりつかない古びた建物があり、「田中醫院」と墨で書かれた木板が雑に貼りつけられているのが見える。
その建物の裏で、古い腰掛けに座る男の姿があった。左手に画板を持ち、右手の鉛筆を熱心に動かしている。彼のすぐそばには何かが埋められたように土が盛り上がっており、その上に真新しい石が置かれている。
「幸生」
横から声をかけられ、幸生は顔を振り向けた。医院の脇道から着流し姿の年老いた男――岡本が顔をのぞかせ、片手を上げていた。
「親父さん」
慌てて立ち上がろうとする幸生に「いい、いい」と男は手をひらひら振った。「ちょいと腰に鍼をやってほしかっただけだ。急ぎの用でもない」
男はずかずかと歩み寄ると、幸生のそばの石に向かって軽く手を合わせた。それから幸生の手元の画板を覗く。
「ほお。うまくなったもんだなあ」
白く伸びた顎ひげを撫で、傷の入った顔を歪めて笑う。
「最初の頃は、ガキの落書きにすら及ばねえほどひでえもんだったのに」
「いつの話をしているんですか」
画板に挟んであるのは白い画用紙。その一面に小首をかしげて微笑む美しい娘の姿が描かれていた。長くまっすぐな黒髪には濃い鉛筆の線が何度も丁寧に重ねられ、消しゴムで輝くような艶が幾筋も描かれている。だが一番目を惹くのは、微笑みの奥に見える黒百合のごとき真っ黒な瞳だった。この瞳が無邪気な乙女の微笑みの中に妖艶な気配をにじませているのだ。
「まるで生きているみてえだなあ」
岡本がぽつりとつぶやく。
「これで完成か?」
「いいえ、まだ――最後に朱色を落とすまでは」
「朱色?」
「ええ」幸生は答えた。「猩々緋ですよ」
彼岸花のごとき鮮やかな赤。
彼女の血の色。
最初は鉛筆だけで彼女を描いていた。それが何枚も、何十枚も、何百枚にもなったとき、幸生は気づいたのだ。
鉛筆で描いた彼女は確かに美しいが、何かが足りない……
試しに朱色の絵の具を買い、水で薄めて、彼女の頬や首筋、手首などにそっと落としてみた。するとたちまち絵の中の彼女が息を吹き返したように、鮮やかな微笑みを見せたのだ。
彼女は生きている。
幸生の手によって、その美はこの世に残り続けるのだ。永遠に。
「おまえが蒐集品をぜんぶ捨てると言い出したときは、気でも狂ったのかと思ったが……」
「私はいたって正常ですよ」
「わかってらあ。ただ、この前おまえさんを起こしにいった、置屋の若衆が、寝室の壁を見てぶったまげて気絶したって聞いてよ」
「それは、人の部屋に勝手に踏み込んだ奴が悪い。自業自得でしょう」
幸生はちらを目を上げ、自宅の二階へ視線を投げた。
この家の寝室は寝室にあらず。そして、以前はあった蒐集品はもうどこにもない。代わりに、壁にはびっしりと絵が飾られていた。
どれも同じ娘が描かれている。それぞれ表情や仕草が異なっていた。笑った顔、怒った顔、つんと拗ねた顔、蔑んだ顔、妖艶な微笑み、潤んだ流し目……
「あの部屋は……彼女の部屋なんですから」
ね、と幸生はそばに置かれた石を見下ろした。
薄曇りの空から淡い陽の光がやんわりと差して、白い石をぬくめるように優しく照らしだしていた。




