第9話 首のピックを外す
自分の声で、歌えるのか。
ゲートから1時間半かけて第8層の奥の広間まで歩いてきたのに、答えはまだ出ていなかった。
腕に巻いたスマートフォンの隅で、ドローンの電池が残り31分を指している。昨日コウモリにかまれた左の前腕には、白い包帯が巻いてある。
昨夜、海歌が打った一言を、スマートフォンの読み上げの声が言った。
[それで歌って]
だから今日は、持ち歌を、カラオケでキーを5つ下げたときの高さで歌う。
広間は見上げても天井が見えないほど高い。天井から下がる白い石のつららが、先だけほのかに光っている。
光の届かない上のほうに、十匹ほどの大コウモリと、翼を広げると人の背丈ほどある群れのボスがぶら下がっていた。
あたしが立っているのは、広間に入ってすぐの所だ。背中には、来るときに頭がつかえそうだった天井の低い通路が続いている。ドローンはあたしの斜め上を飛んでいた。
『昨日の子だ』
『今日は逃げんなよ』
『腕、包帯じゃん』
『リベンジ回?』
『電池もつの?』
2件目は、いつも戦いだけを見に来るダンジョン目当ての視聴者だ。
うるさい。逃げる気なら、1時間半も歩いてこないってば。
でも、見られているのが今日はやけに重かった。電池が切れるまでの30分で、この人たちの前で決めなきゃいけない。
眠りの歌は使わないことにした。昨日は群れをせっかく眠らせたのに、ボスの一声で全部起こされたからだ。今日は最初から、ボスだけを狙う。
いつものピックで、弦を1本だけ鳴らした。
腰のアンプから出た音が天井へ上がっていき、ボスがぴたりと止まる。その胸の奥で魔石がぼうっと光り、お腹の底に響くような低さで鳴り始めた。
海歌の歌い方で出せるいちばん下より、もっと下の音だ。
持ち歌の「泡にならない」を、キーを5つ下げて弾き始める。
あたしは自分の声を口の中に押し込めて、小さく歌った。画面の向こうの人たちに、あたしの声をそのまま聞かせずに済むように。
小さな声でも、高さは合った。
口の中で転がすだけの歌は、自分の耳にもほとんど聞こえない。なのに、天井で鳴っている低い音と、あたしの声がぴたりと重なったのは分かった。
その瞬間、天井の暗がりで光がぐっと強くなる。
『光った』
『いけるか?』
『昨日より光ってる』
なのに、押し込めた声では息が続かなかった。サビに入る前に胸がしぼんでしまい、光はすっと薄くなって消える。
届きかけて、届かない。昨日から、その差が少しも縮まらない。
『惜しい』
『今の惜しすぎ』
『次は口開けて歌って』
分かってるってば。分かってて、口を開けられないだけだ。
ボスが甲高く鳴いた。
天井の群れが一斉に降りてくる。けれど半分ほどはあたしに来ないで、背中の低い通路の入り口へ退いた。羽根をたたみ、通路をふさぐように張りついて、こっちを向いている。
昨日の逃げ道がコウモリで埋まった。
残りの群れはまっすぐあたしに向かってきた。
包帯の腕でギターを胸に抱え、床にしゃがみ込む。1匹が包帯の上から爪を立てて、昨日の傷がずきんと痛んだ。それでもギターだけは絶対に落とさない。
頭の上を羽音が何度も行き来して、黒い翼が右手をはたいていく。
指から、いつものピックが飛んだ。白い床を一度跳ねて、広間の暗がりへ転がっていく。
手に残ったピックは、首のピックだけになった。
探す暇はない。
群れの羽音が、今度はあたしの斜め上のドローンへ寄っていく。
「だめ、ドローンは。海歌が見てんの」
腕の画面を指でなぞって、ドローンを天井の近くまで上へ避けさせる。高く上げれば、コウモリも追ってこないと思った。
そこが群れの飛ぶ高さだと気づいたのは、ドローンを上げきってからだった。
黒い翼がドローンにぶつかる。機体がぐらりと傾いた。
腕の画面の映像が大きく揺れて、天井と床が入れ替わりかける。画面の端に、しゃがみ込んだあたしの頭のてっぺんが、斜めに小さく映っていた。
天井の暗がりではドローンのまわりをコウモリが回り、床の近くでは残りの群れがあたしの頭の上を飛び交っている。
『画面揺れてる』
『ドローンやばい』
『落ちる落ちる』
『下ろして』
『いや下はコウモリだって』
「下ろせないってば。下、コウモリだらけだし」
下ろしたら、今度はドローンもあたしも、まとめて群れの真ん中だ。
自分で上げて、自分で追い込んだ。最悪すぎる。
もう1匹が機体の横にぶつかって、映像がまた大きくかしぐ。プロペラの音が一瞬だけ途切れて、また戻った。
画面の隅の電池は、いつの間にか残り18分まで減っていた。
ドローンが落ちたら、配信が切れる。そうなったら海歌は、あたしが無事かどうかも分からなくなる。
昨日、ゲートの外で水を差し出してきた海歌の手を思い出した。今日も地上のどこかで、この画面を見ているはずだ。
次にぶつかられたら、たぶん落ちる。
ここで決めるしかない。
右手が首のピックをつまんだ。
『止まった』
『大丈夫?』
『どうした』
『ドローンにまたコウモリ』
腕の画面の向こうで、何十人もが、あたしが次に何をするかを待っている。
この中に、あたしの歌を「男子みたい」と笑った誰かがいるかもしれない。
笑われた日に買った首のピックの角が、指の腹に食い込んだ。
口の中に、また声を押し込めかけた。小さく歌えば、誰にも聞かれない。誰にも笑われずに済む。
頭の上で、ドローンのプロペラの音がまた揺れた。
やめる。
ピックを、首の紐から外した。
首のピックで、弦を鳴らす。
アンプの音が広間に広がって、天井のボスがまた止まった。光った魔石が、さっきと同じ高さで鳴っている。
肩は上げない。お腹とわき腹に、ゆっくり息を入れる。
練習のたびに、海歌が両手で上から押さえてくれた肩だ。
あたしは顔を上げて、口を開けた。
「きみの声で 海が鳴る」
低くて、かすれた声が、広間いっぱいに響いた。
白い石の壁に跳ね返って、あたしの声が何重にもなって返ってくる。
天井の魔石が光る。今までのどの光よりも、白い。
すぐそばを、コウモリの翼がかすめた。それでも歌は止めない。
最後の音を、伸ばす。
さっきは、ここで胸がしぼんだ。
肩が上がりかけて、こらえる。海歌の両手の重さを思い出して、お腹の奥から細く長く息を出し続ける。
声は揺れない。同じ高さのまま、まだ続いている。
伸ばすほど、天井の光が強くなっていく。暗かった天井の岩が、端まで白く照らし出された。
息が、最後の一筋になる。
魔石が鳴った。
ぱきん、と天井で澄んだ音がした。
ボスの体がほどけて、光の粒になる。
【レベルアップ。Lv7からLv9になりました】
かつん、と石の床に何かが落ちた。
群れはばらばらに散っていく。通路をふさいでいたコウモリも、我先に暗がりへ逃げていった。
広間が急に静かになった。
聞こえるのは、水の滴る音と、傾いたまま飛んでいるドローンのプロペラの音だけだ。腕の画面だけが、見たことのない速さで流れていた。
『割れた』
『ボス消えたんだけど』
『声低っ』
『鳥肌立った』
『床になんか落ちた』
床に落ちたのは、ボスの魔石だった。暗がりの中で、まだ少しだけ光っている。
あたしは首のピックを握ったまま、さっきまでボスのいた天井の暗がりを見上げていた。喉の奥に、自分の声の震えがまだ残っている。
同時接続数が跳ねるように増えていく。42、45、49。
50を超えたところで、流れの中に1つだけ短い書き込みが混じった。
『今日の歌、まねじゃない』
ハコブネの最前列の人だった。
海歌のまねで歌ったあたしに、『似てるけど違う』と書いた人だ。
あたしは、その1行から目を離せなかった。
書き込みは、すぐに次のコメントの波に押し流されていく。
『低いのに通る声』
『もう1回聞きたい』
『無理って書いたの取り消す』
『Lv9になってる』
『これ昇格じゃん』
あたしはその場に座り込んだ。
何か言わなきゃ。配信なんだから。
口を開けても、さっきの声は出てこない。いつもならすぐ出てくる冗談も、1つも浮かばないままだ。
ギターを抱えて、コメントだけが流れていくのを眺める。
『おーい』
『放心してる』
『ドローン生きててよかった』
『電池そろそろやばくない?』
しばらくして、床のボスの魔石を拾った。親指の先よりずっと大きくて、真ん中にひびが1本入っている。
外した首のピックは紐に戻した。指はまだ少し震えている。
いつものピックは、暗がりをいくら探しても見つからなかった。
電池が切れる前に配信を切って、あたしは1時間半の帰り道を歩き出した。
◇
地下のゲートを出て、1階の買い取り窓口へ上がったのは、夕方だった。
カウンターに、ひびの入ったボスの魔石を置く。職員さんが、それとあたしの冒険者証を端末にかざして確かめた。
「大コウモリの群れのボスですね。おひとりで?」
「はい。ひとりです」
「ひとりで群れのボスは、珍しいですよ。昇格の条件は満たしています。新しい冒険者証をお作りしますね」
少し待って、カウンターに新しい冒険者証が置かれた。Fの字がEに変わっている。
見た目はただの軽いカードだった。2週間と少し、毎日のように潜って、ようやく1段。
呪いのチョーカーを壊せる何かが何層にあるのかも、あたしはまだ知らない。
振り向くと、窓口のすぐ後ろに海歌が立っていた。1階のロビーで、あたしが上がってくるのを待っていたらしい。
毛先だけ水色の長い髪が、少し乱れている。肩から斜めに掛けたマイクの布の袋も、背中のほうへずれていた。
あたしが新しい冒険者証を持ち上げて見せると、海歌はうなずいて、目の前でスマートフォンを両手で持ち、何か打ち始めた。
なかなか打ち終わらない。
長い。親指がずっと動いている。
途中で止まって、また動いて、また止まる。あたしは声をかけられずに、その親指を見ていた。
それから親指が、消すほうを押したまま動かなくなった。打った文が、何行ぶんも端から消えていく。
何が書いてあったのか、あたしの所からは見えなかった。手の中の新しい冒険者証の角が、手のひらに当たって痛い。
海歌が画面をこっちに向ける。
海歌のスマートフォンの読み上げが、一言だけ言った。
[おめでとう]
本日(10/18 (日)) 10話まで一時間ごとに投稿予定です。
面白いと思っていただけたらブックマークしてお待ちください!




