第8話 キーを5つ下げたら
「どいてっ、コウモリ!」
拡声を乗せた声を、正面の群れに叩きつけた。
第8層の奥の広間で、あたしを囲んでいた大コウモリが、見えない壁に殴られたみたいに弾け飛ぶ。
でも、1匹も落ちない。拡声は押し返すだけで、群れはすぐにまた羽ばたいて戻ってくる。
囲みが開いたのは、そのほんの一瞬だけだった。
開いた隙間へ、頭から突っこむように走った。
群れにかまれた左の前腕が、足を出すたびにずきずきする。目指すのは、来るときに頭がつかえそうだった、天井の低い通路だ。
あそこなら、コウモリたちは羽を広げられない。たぶん。
通路に飛び込むと、頭のすぐ上を、ドローンが天井をこすりそうになりながらついてくる。
後ろでばさばさ鳴っていた羽音が、ふっと止んだ。
振り返ると、群れは追ってきていた。でも、飛んでいない。
翼をたたんで、床と壁をずるずる這っている。
「いや、なんでコウモリが這ってまで来んの」
遅っ。あと、見た目がだいぶ無理。
走れば、引き離せる。昼に1時間半かけて来た道を、今度は逃げるために走っている。
もう一度だけ振り返ったときには、黒い群れはずいぶん小さくなっていた。
通路の先の、少し広くなった所で膝が抜けた。
壁に背中を預けて座りこむ。頭の奥が重くて、体じゅうがだるい。眠りの歌を歌いすぎたせいだ。
左の前腕には、歯の跡が2つ並んで、血がにじんでいた。弦を押さえるほうの腕だ。
指を握って開くと、ちゃんと動いた。
腕のスマートフォンに、コメントが流れていた。
『逃げきった?』
『腕から血出てる』
『吟遊詩人じゃ無理』
『ドローンの電池あと20分なくない?』
3件目は、毎回、吟遊詩人を茶化しに来る人だった。
うん、知ってる。30人の前で背中を見せて、たった今、身をもって確かめたところだし。
電池のほうも、そのとおりだ。地上までは、まだ1時間半の道のり。
帰り道の途中で画面がぷつんと消えたら、部室で見ている海歌は、いちばん悪いほうを考える。
だから、電池が切れる前に、配信は自分で切る。
右手をレンズに向かって振った。
「生きてるから。帰るね」
配信を終えるボタンを押すと、片耳のイヤホンが急に静かになった。
◇
1時間半かけて上層を上がりきり、ゲートに冒険者証を当てる。
ダンジョンから上がってくるひんやりした空気が、背中を追い越していく。
そこに、海歌が立っていた。
腰まである髪の、水色の毛先が乱れている。部室から坂を駆け下りてきたのは、上下している肩で分かった。
海歌は、スマートフォンとペットボトルを同時に突き出した。
声の出ない海歌の代わりに、スマートフォンの読み上げが鳴る。
[水。飲んで]
受け取って一口飲んでから、喉がからからだったことに気づいた。
「……ごめん。逃げた」
海歌は首を横に振った。髪が左右に揺れるくらい、大きく。
揺れが収まると、海歌の目はあたしの左腕で止まった。血の固まった、歯の跡。
ほんの一瞬、海歌の顔から笑いが消えた。それから、親指が動く。
[コウモリにモテモテじゃん]
いつもの「なんちゃって」を待つ。来ない。
海歌は肩を揺らして笑った。声の出ない笑い方で。
いつもなら、ここは「いや」から入るところだ。
モテてないし。食べられかけてるだけだし。
なのに、口が動かなかった。
怒ってくれたほうが、まだ楽だった。
「……明日、もう1回行く」
言ってから、自分でびっくりした。
自分の声で歌う以外に、勝つ手なんか1つもない。
海歌の手のひらが、あたしを止めるみたいに、胸の前で一度だけ上がった。
海歌は笑ったまま、その手を下ろして、こくこくとうなずいた。
◇
夜、海歌の部屋。
ベッドに並んで座って、海歌のスマートフォンで、昼の配信の録画を流す。窓の向こうには、路地を挟んで、明かりの消えたあたしの部屋の窓が見える。
机の上には、灯子さんが持ってきた、のどにいいお茶の缶。灯子さんの「鑑定でさ、ほかに何か出なかった?」が、なぜか耳の奥に戻る。
録画の中のあたしは、海歌に似せた細くて高い声で歌っていた。
我ながら、よく似せてある。似せてあるだけだけど。
「録ったの聞くと、毎回これ誰ってなるんだけど」
海歌は画面から目を離さずに、片手で打った。
[だから聞く]
録ったら聞き返して、ずれたところを直す。海歌の練習では、いつもそうだ。
広間の暗がりで、群れのボスの魔石が光って鳴る。
その瞬間、海歌の指が画面を叩いて止めた。
「はいはい。どうせ低いんでしょ。カラオケならキーいくつ下げ、って話」
あたしはケースからギターを出した。
包帯を巻いた左腕で弦を押さえると、腕の内側が引きつる。我慢できないほどじゃない。
「海歌、そこから3秒戻して。もう1回」
録画の中でボスが鳴るのに合わせて、あたしもギターを鳴らす。合わない。
指を少しずつ低い音のほうへずらしては、海歌に戻してもらって、また鳴らす。
何度目かで、ギターの音がボスの音にぴたりと重なった。
その瞬間、同じ録画の中で歌っているあたしの声だけが、浮いて聞こえた。
まねた声は、ボスの音に届かないまま、ずっと上で鳴っている。
海歌が、画面の中のあたしの声のあたりを、ずれてる、と言うように指でとんとんと叩く。
それから、持ち歌の歌い出しを弾く。1つずつ下げて弾き直していくと、5回目で、歌い出しの音がボスの音にそろった。
思っていたより、ずっと下。昼のあたしは、こんな低いところに向かって細い声を投げていたらしい。
カラオケのリモコンなら、キーを5回下げたところだ。あたしは思わず声に出していた。
「キー、マイナス5」
「なんだ。キー下げれば、あたしの声が届くじゃん」
やっと1個、勝つ手が見つかった。
顔がゆるむのが、自分でも分かった。
「明日は眠りの歌で群れを寝かせて、それから海歌の歌い方のまま、5つ下げて――」
海歌は、もう打っていた。
親指が短く動いて、止まる。
スマートフォンの画面が、ギターを抱えたあたしの鼻先に突き出された。
[それで歌って]
いつもの、ふざけた読み上げの声。
「……分かってるってば」
言いながら、気づいたらカーディガンの袖で口元を隠していた。
海歌は画面を突き出したまま、もう片方の手を伸ばした。あたしの袖をつまんで、口元からゆっくり下ろさせる。
下ろされた袖から指先を出して、あたしは首のピックをつまんだ。
中学の音楽の時間に「男子みたい」と笑われた日、歌はやめてギターだけにすると決めて、帰りに楽器屋で買ったピックだ。
弾くだけなら、声はいらないから。
「……やるって。マイナス5で」
海歌は袖から手を離して、やっと笑った。
路地を渡って、自分の部屋に戻る。
窓の向こうでは、海歌の部屋の明かりがまだついていた。
ギターを膝に乗せて、キーを5つ下げた持ち歌を弾き出す。自分で作った曲なのに、知らない曲みたいに低い。
夜だから、声は小さく。向かいの窓に届かないように、体ごと壁のほうを向く。
いつもと同じに、海歌の歌い方で歌い出す。歌い出しの前に小さく息を吸う、海歌の癖までまねて。
最初の何小節かは、まだ海歌に似ていた。
メロディが下がっていくにつれて、喉の奥が落ち着かなくなる。
細く高く作っていた声が、低いところで形を保てない。
まねの形が崩れて、別の声が出てくる。
低くて、かすれた声。
弦の上で、手が止まった。
その高さに、海歌の声はない。
本日(10/18 (日)) 10話まで一時間ごとに投稿予定です。
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