第47話 ここから上は歌わない
文化祭に出る申し込みの締め切りまで、あと3日。歌のいちばん上の音は、まだ毎晩揺れる。
火曜の放課後、あたしは大鼓と2人で、下北沢ダンジョンの第13層の通路を歩いていた。白い石の天井が低くて、湿った壁に足音がこもる。
この層の近道をふさぐスライムは、分かれるたびに魔石の鳴る音が高くなり、3回目に分かれたあとの音が、海歌の書いた曲のいちばん上の音になる。窓越しの練習でも、そこを伸ばすと揺れる。
連休の最後の日に潜ったときも、キーを上げて追えたのは2回目までだった。
「録画のスライム、3回目に分かれたあと、広間の壁の横穴に逃げこんだじゃん」
歩きながら、あたしは切り出した。ルーペさんに見せてもらった、ほかのパーティの録画の話だ。
「あの穴、奥で折れ曲がってるから、声が届かない。逃げられたら、あたしの歌じゃ割れない」
「横穴の前には、俺が立つ」
大鼓は前を向いたまま言い切って、片腕を横に広げ、通せんぼの形をしてみせた。
「穴に入られたら、心音の声は届かない。届かないなら、入らせなければいい」
相談のつもりで出した話なのに、答えのほうが先に来た。
片耳のイヤホンに、海歌の読み上げが届いた。今日の声は、駅のアナウンスみたいに落ち着いた女の人の声だ。
[だいちゃん、スライムは酸だよ]
[録画で、剣が溶けてた]
[腕が溶けたら、ドラムたたけないよぉ]
海歌は家で配信を見ている。あたしがそのまま伝えると、大鼓はパーカーの袖を指でつまんだ。
「溶けるのは袖だ。腕は動く。動けば叩ける」
いや、袖が溶ける前提で話すな。
「海歌、大鼓が、溶けるのは袖だって」
配信しているドローンのカメラに向かって言うと、数秒おいて返事が来た。
[袖だけね]
[腕まで溶けたら、だめ]
「腕はだめだって」
「分かった」
横穴は大鼓、魔石はあたし。役目が1つ増えただけなのに、さっきより足が軽い。
通路の先で、ホブゴブリンと狼の小さい群れが出た。大鼓が宙のドラムを鳴らして群れを自分へ向け、あたしが1体ずつギターで高さを合わせて割っていく。
4体だけだったので、すぐに片づいた。ここまでなら、体がもう覚えている。
静かになった通路で、ギターを構え直した。腕のスマートフォンに、コメントが1つ流れる。
『転調、まだ2回目止まり?』
そのとおりだ。金曜は、もうしあさってなのに。
本番で揺れたら、魔石はきっと割れ残る。初めてここへ下りた日に、2回目の転調で声が揺れて、いちばん小さい魔石を割り残したみたいに。
だったら、その上まで出してしまえばいい。もっと上が楽に出せるようになれば、いちばん上の音なんて、なんでもない顔で伸ばせるはずだ。
あたしはギターで、いちばん上の音より、もう1つ上の音を鳴らした。
窓越しの練習なら、ここから先は喉の力を抜いて、裏声を混ぜながら滑らせる。毎晩、海歌にそう教わってきた。
でも、裏声を混ぜると声が細くなって、そこで揺れる。揺れない声がほしかった。だから、低い声のまま、力で押し上げた。
「心音、何をする」
後ろから大鼓の声が飛んできた。聞こえていたのに、あたしはもっと強く押し上げた。
焦っているときのあたしは、人の話を聞かない。昔からそうだ。
鳴らしたギターの音まで、あと少しで届く。
喉の奥で、何かがひっくり返った。
声が裂けた。
裏返った高い音が途中でぶつりと切れる。残ったのは、ざらざらにかすれた息の音だけだった。
喉が焼けるみたいに痛い。唾を飲みこむだけで、奥がひりひりする。
咳きこみかけて、口を押さえてこらえた。咳払いは喉に悪いと、海歌に何度も言われている。教わったやり方は自分で捨てたくせに、咳をこらえることだけは守っている。
腕のスマートフォンで、コメント欄の流れが急に速くなった。
『今の声やばくない?』
『のど大丈夫?』
『無理すんな』
『咳こらえてるじゃん』
『水飲んで』
草原で声が裏返ったときは、笑う書き込みが並んだ。今日は1つも笑っていない。
笑われるより、こっちのほうがずっときつい。海歌が毎晩、始める前に水と肩を送ってきたのは、こうならないためだったのに。
片耳のイヤホンに、数秒遅れて海歌の読み上げが届いた。
[やめて]
それだけだった。いつもなら、水とか肩とか、次にやることを短く送ってくる。
今日は、いくら待っても続きが来ない。家の画面の前で海歌がどんな顔をしているか、見なくても分かる。
「帰る」
大鼓が言い切って、あたしの背中を軽く押した。あたしを先に歩かせて、自分は後ろに付く。振り返ると、宙に浮いたドラムが、大鼓の腰の高さでついてきている。
帰りの通路で、ごめん、と言おうとした。口から出たのは、かすれた息の音だけだった。
「しゃべるな」
いや、言い方。と返したくても、返す声がない。草原を走って渡るあいだも、大鼓は一度もあたしの前に出ず、あたしの足音のすぐ後ろでビートを刻み続けていた。
◇
その夜、窓を開けると、路地の向かいで海歌がもう待っていた。
部屋の明かりを背にして、海歌の顔はよく見えない。毛先の水色だけが、窓枠の外へこぼれている。
海歌は何も送ってこないまま、手のひらをいちばん低い所に構えた。毎晩の練習と同じ始め方だ。
あたしは声を出さない。手のひらだけが、ゆっくり上がっていく。毎晩あたしが声でなぞってきた高さを、1つずつ上っていく。
編曲のいちばん上の高さまで来たところで、手のひらが止まった。
ちょうど海歌の胸の前だ。そこから少しも動かない。海歌は手のひらをそのままにして、空いた手でスマートフォンに文字を入れた。
[ここより上は、歌わないで]
文字を入れる指が、途中でチョーカーに触れた。真珠の上で、指が一度止まる。
[声は、なくしたら戻らないかもしれない]
読み上げのお姉さんは、天気予報を読むのと同じ調子でそれを読んだ。手のひらはまだ胸の前にある。上げて、と頼んでも、今夜のあの手は上がらないと思う。
スマートフォンに、先生厳しすぎ、まで打って、全部消した。
「約束する」
かすれた声で、それだけ言った。海歌はうなずいて、すぐに続きを送ってきた。
[のど、2日休ませて]
[しゃべらない。ささやき声も、なし]
[ささやくのは、小声より、のどにきついから]
分かった、と言いかけたあたしの口に向けて、窓越しに手のひらが突き出された。
笑ってうなずいた。笑い声が漏れないように、口は閉じたままだ。
スマートフォンに返事を打ち、文字をいちばん大きくしてから、画面を窓のほうへ向けた。
了解。2日、黙る。ツッコミは全部、文字で送るから。
いつもは海歌が打って、あたしがしゃべる。今夜は逆になった。
打つのに10秒かかるツッコミなんて、間が悪すぎて誰も笑わない。それでも海歌は画面を読んで、声のない口で笑った。
窓を閉めてから、ベッドに座ってルーペさんにメッセージを書いた。挑む日と時刻は必ず知らせる、と協会の小部屋で約束している。返事が来たら、たぶんまた長い。
金曜の授業は15時20分に終わる。学校から協会まで走れば、ゲートの前に立てるいちばん早い時刻は15時30分だ。
ルーペさん、隠さないと約束したので、知らせます。5月16日の15時30分に、大鼓と2人でゲートに入ります。
送って、画面を伏せる前に、既読が付いた。




