第48話 締め切りの日
「あ、あー」
喉を確かめるつもりで、短く声を出してみた。
2日ぶりの声は、ちゃんといつもの低くかすれたあたしの声で、どこも引っかからない。
パイプ椅子の海歌があごを引いて、よし、という顔をした。
金曜の15時20分。帰りのホームルームが終わってすぐの部室だ。
ホワイトボードの隅には、顧問の角ばった字で『文化祭 ステージ出演の申し込み 5月16日まで』と書いてある。
今日がその締め切りだ。18時30分までに、職員室の顧問に出さないといけない。
あたしは鞄から申し込み用紙を出して、海歌に差し出した。
バンド名とギターの欄は埋まっている。ボーカルの欄は空いたままだ。
「この用紙、預かってて」
「近道を開けたら、戻ってきてここに書く」
「開かなかったら、海歌の名前は書けない」
近道の先は、海歌の声をふさいでいるチョーカーを壊せる物が出る、深い層だ。
言ったからには、もう引っこめられない。
海歌は用紙を受け取って、空いた欄をじっと見下ろした。
それからスマートフォンを出して、何か打ち始める。指が途中で止まった。打った分を消して、画面を伏せる。
読み上げはひとことも鳴らなかった。
ボケの1つも来ないのは珍しい。来ないほうが、よっぽど言いたいことがあるみたいに見える。
代わりに、海歌は手のひらを胸より低い所に構えた。窓越しの練習で、声の高さを手のひらで示すときの始め方だ。
手のひらがゆっくり上がっていって、胸の前でぴたりと止まる。3日前、あたしが通路で声を裂いた日の夜にも、窓の向こうで同じ所で止まった。
その夜、海歌は歌詞のノートの編曲に、線を1本引いた。いちばん上の音の所だ。ここより上は歌わないと、あたしはそこで約束している。
あたしはうなずいて、ギターケースを背負った。
部室を走り出るとき、振り返らなかった。振り返ったら、たぶん何か言いたくなる。
◇
校門で待っていた大鼓と坂を駆け下りて、協会の建物までは7分だった。
階段で地下へ降りると、ひんやりした空気の中にゲートの列が並んでいる。
その手前の端末の横に、紺の作業ジャンパーの背中があった。大きなリュックを背負ったまま、ルーペさんが立っている。
「お待ちしておりました、三浦さん、鳴瀬さん」
「5分だけ、お時間をいただけますか」
ゲートに入る日と時刻を、メッセージで知らせたのはあたしだ。待たれていても文句は言えない。
「順番にまいります」
「闇サイトの売り手の団体が、配信を見ているかもしれない。この前お話ししたとおりです」
「ですので、配信は控えていただきたい。あの広間に挑むのも、やめていただきたいのです」
あたしはゲートのほうへ一歩踏み出しかけて、そこで止まった。
隠さないと約束した人に、背中は向けられない。
大鼓が、太ももを指で叩いて5分を数え始めた。とん、とん、とん、とん。4つ数えて、また頭から。
言葉どおりに受け取る人の前で「5分だけ」と言うと、こうなる。
「5分です」
大鼓が言った。ルーペさんは、はい、と深く頭を下げて、そのまま次の話を始めた。
数えた本人より、言い出した本人のほうが5分を忘れている。
丁寧な言葉が、止めたい、の周りを何度も回る。あれだけ説明の長い人が、今日は同じことしか言っていない。
腕の画面の時計は15時45分。
あたしはゲートを見て、また目を戻した。
配信は控えて、が3回目に入った。
腕の画面の時計は15時50分。
「ルーペさん。配信は切りません」
「海歌が、部室で見てるんです」
ルーペさんは手帳を握ったまま、しばらく黙っていた。それから、端末のほうへ手を向けた。
「では、出る予定の時刻を、18時15分と届けてください」
「その時刻を過ぎたら、私が救助をお願いします。救助の知らせは、保護者の方にも参ります」
遅れたら、家に知られるということだ。
止められないなら、せめて時刻で縛って帰らせる。それがルーペさんの精一杯なのは、あたしにも分かった。
端末に18時15分と打ちこんで、冒険者証をゲートに当てて中へ入った。
時計は15時55分。5分のはずの話で、25分たっていた。
自分で決めた「隠さない」に、自分で25分取られた。世話がない。
◇
第10層へ飛ぶ転移陣の白い円の上で、あたしは指を折って数えた。
ここから第13層の広間までは、行きで55分。帰りも同じだけかかる。
18時15分にゲートを出るには、広間を17時20分に出るしかない。削られた25分のぶん、余りはもうどこにもない。
第11層では、大猿の群れの間を、大鼓が宙に浮くドラムのソロだけで通した。第12層の草原は、踏み分け道を2人で走って渡る。
湿った第13層の通路を抜けて、行き止まりの広間に着いた。
腕の画面に出る、配信を見ている人の数は、始めから1,500を超えている。初めてこの層に下りた日の、倍以上だ。
『今日が本番?』
『締め切りの日だっけ』
『13層の武器溶かしリベンジ回』
『草原から来ました』
『低い声ききに来た』
リベンジ回のコメントの呼び名は、掲示板がこのスライムに付けたものだ。
ダンジョン目当ての人と、草原の配信から来た聞き手が、同じ欄で混ざっている。どっちも、今日は帰らせてくれそうにない。
広間の入口で、あたしはアンプのつまみを上げて、ギターの低い弦を1本鳴らした。
天井からも壁からも、音が倍になって返ってくる。この洞の中なら、どこにいても声は届く。
次に、壁の1か所へギターを向けた。奥で折れ曲がる、細い横穴だ。
同じ弦を鳴らすと、音は穴の中へ入っていって、角の先で消えた。
あそこへ入られたら、あたしの歌はもう届かない。
「あの穴の前には、俺が立つ」
大鼓は、広間の真ん中から横穴の前までの間を、目で一度なぞった。何歩で着くか数えている顔だ。
「大鼓。もう1つ、先に言っとく」
「約束した上の音で割れなかったら、今日は退く」
「分かった。割れなかったら、退く」
大鼓が口に出して決めたことは、本当にそのとおりになる。
奥の壁の下では、半透明の大きなスライムが、第14層へ下りる階段をまるごと覆っている。
入口の床には、溶けた剣と盾のかけらが前に来たときのまま散らばっていた。
大鼓が前に出ると、腰の高さに宙のドラムが輪になって浮かんだ。
スネアを1発鳴らして、大鼓はそのまま走りこみ、スライムの体の端をスティックで叩いた。
ゼリーの体がうねって、階段からずるりとはがれる。半透明の体が、叩いた大鼓のほうへ向きを変えた。
スティックの先から、白い煙が上がっていた。パーカーの袖にも、小さな穴が1つあいている。
木のスティックは、叩くたびに酸で少しずつ溶けていく。長くはもたない。
あたしはギターの音をスライムに当てた。
透けて見える魔石が光って鳴る。キーを5つ下げた「泡にならない」の、サビの終わりの音と同じ高さだ。
腕の画面の時計は17時。残りは20分。
首のピックを紐から外して、前奏を弾き始めた。
大鼓のビートに乗せて、歌い出す。
白い洞が、あたしの低い声を何倍にもして返してくる。ギターで鳴らした高さに声を乗せると、喉の奥で声が太くなった。
『始まった』
『響きやば』
『この声だよこの声』
『ドラムの人もう溶けてない?』
最初のサビの終わりで、声を伸ばした。
魔石にひびが入りかける。
その瞬間、スライムがちぎれるように分かれた。
ちぎれた分は小さなスライムになって、床を這いだす。魔石は、いちばん大きい体に残っていた。
その体が一回り縮んで、魔石の鳴る音がすっと高くなる。録画で見たとおりの分かれ方だ。
ここからが、海歌の編曲の出番になる。
歌は止めない。弦を鳴らしながら、耳で次の高さを探す。
魔石がいちばん強く鳴った所で、押さえる指をフレット1つ分上へずらした。
キーを1つ上げて、2番に入る。
『キー上げた』
『転調きた』
『ギターで探してる?』
『耳よすぎん?』
さっきより少し高い声が、白い壁から返ってきた。
合っている。魔石の鳴り方で、それが分かった。
2番のサビの終わりで、また魔石にひびが入りかけて、スライムが分かれた。初めてこの層に下りた日に、狼の群れを相手に声が揺れた、2回目の転調だ。
次の高さを探り当てて、声を押し上げずに、低い声に裏声を混ぜて滑らせる。窓越しに海歌に教わってきたやり方だ。
2回目は揺れなかった。
『今度は揺れてない』
『裏声まざるのいい』
『転調で追ってる』
『曲の途中で追いかけてる』
配信を見ている人の数が、分かれるたびに増えていく。
片耳のイヤホンは静かなままだ。部室の海歌は、たぶん画面の前で手のひらを上げている。
小さなスライムが1匹、床を這ってあたしの足もとへ寄ってきた。
大鼓が膝でバスドラムを鳴らしながら、それを蹴り払った。ビートは一拍もずれない。
3回目のひびで、スライムがまた分かれた。体はもう、最初の半分もない。探り当てた次の高さは、ここより上は歌わないと海歌に約束した、あの音だった。
裏声を混ぜた声で伸ばす。今度は揺れない。
編曲の最後の転調まで、歌が初めて切れずにつながった。
『3回目』
『最後の転調まで来た』
『練習どんだけしたの』
『見てる人めっちゃ増えてる』
3回目に分かれたスライムが、急に向きを変えた。
大鼓から離れて、床を滑っていく。行き先は壁の横穴で、録画と同じ逃げ方だった。
大鼓が走った。
宙のドラムが輪のままついて回って、横穴の前で止まる。大鼓はその真ん中で足を開いて立った。
さっき目で歩数を数えた、その場所だ。
滑ってきたスライムが、正面から大鼓にぶつかった。
焼けた鉄に水をかけたような音がした。
深緑のパーカーの両袖が、煙を上げて溶けていく。その下の腕の肌が、見る間に赤くただれた。
大鼓はスティックを振り下ろして、スネアを叩いた。続けて、スライムの体を叩く。
下がらない。横穴の前から一歩も動かない。
『ドラムの人!』
『袖溶けてる』
『腕やばいって』
『下がれ下がれ』
『動かねえぞこの人』
見ているだけで、あたしの腕まで熱くなる。
大鼓の名前を叫びそうになった声を、そのまま歌に乗せた。
白い壁の横穴の前で、宙のドラムに囲まれた大鼓が、溶けた袖のまま両腕でスティックを振り下ろしている。
半透明の体は、そこから先へ進めない。
叩く音だけが、硬く大きくなっていく。大鼓は一度も振り向かなかった。
『ドラムの人がんばれ』
『ギターボーカルさん歌止めてない』
『この2人なんなの』
スライムは、横穴の手前で止まっている。ここなら、あたしの声は届く。
次の伸ばす音も、約束した上の音のまま伸ばした。
押しとどめられた体の奥で、魔石にまたひびが入りかける。
スライムが4回目に分かれた。
『は?』
『4回目?』
『こんなの誰の録画にもないぞ』
『3回で逃げるんじゃないの』
そのあと、コメントの流れがぴたりと止まった。
ちぎれた体が、大鼓の足もとへ散らばった。
残った体は、もうホブゴブリンほどの大きさしかない。配信を見ている人は、4,000を超えていた。
最後のサビが来る。
ギターで、透けて見える魔石が鳴る音の高さを探した。
魔石の鳴る音は、海歌と約束した上の音より、もう1つ高い。




