第46話 転調で追いかける
冒険者協会の自動ドアの前で、あたしはギターケースを背負ったまま足を止めた。
通りを挟んだ向かいの、ハコブネの入口の階段から、ギターの音が上がってくる。
5月3日、連休の昼すぎだ。今日は大鼓と2人で、初めて第13層まで下りる。見送りに来た海歌も、隣で同じ階段のほうを向いていた。
大鼓が、後ろのポケットから新しいスティックを抜いて見せてきた。折れた1本の代わりに買って、やっと2本に戻ったのだ。
見せ方が、新しい靴を買ってもらった小学生と同じだ。
連休の前半に2回、第12層の草原まで潜った。踏み分け道は、走れば半分の20分で渡れると分かっている。
階段から聞こえてくるのは、ギターの音だけだった。歌声はない。
低い弦で歩くようにビートを刻んで、高い弦が歌の代わりにメロディを鳴らしている。灯子さんの弾き方だ。
サビに入る直前で、1つだけ珍しいコードが鳴った。明るく進んでいた曲の足元が、一瞬だけ抜けるような響きがする。
あたしなら、あそこにあのコードは置かない。思いつきもしないと思う。
前にハコブネで灯子さんの出番を見た夜も、別の曲の同じ所で、同じコードが鳴っていた。客席のいちばん後ろで、思わず左手で同じ形を押さえたから覚えている。
ギターが止んで、少しすると階段から灯子さんが上がってきた。
黒のハイネックに、低い位置で1つに結んだ長い黒髪。ステッカーだらけのギターケースを肩に掛けている。海歌がハコブネで歌っていたころから、ずっと世話を焼いてくれている年上のミュージシャンだ。
海歌が真っ先に駆け寄った。今日の読み上げは、駅の構内放送みたいな、やけに落ち着いた女の人の声だ。
[灯子さん、聞いてくださいよぉ]
海歌はスマートフォンを掲げて、録音を流し始めた。窓越しの練習で、毎晩こっそり録っていたやつだ。
昼の通りの真ん中に、あたしの低い声が流れていく。思わず首のピックを指でつまんでいた。止めてと言う間もない。
海歌はさらに、シールだらけの歌詞のノートを開いて、「泡にならない」のページを灯子さんに向けた。上を向いた転調の矢印が、3つ並んでいるページだ。
[わたしの編曲です]
[心音が、13層の下への道を、この歌で開けるんです]
灯子さんは少し首をかしげて、録音を聞いていた。
録音の声がいちばん高い所へ上がったとき、灯子さんはハイネックの上から首元に指を当てた。目は、あたしでなく海歌のほうを見ている。
それから、あたしのほうを向いて笑う。
「いい声だね、心音ちゃん。低いとこ、すごくいい」
面と向かってほめられると、どこを見ればいいか分からない。
ハコブネで灯子さんにほめられたバンドは、たいてい次に、直す所を1つ言われていた。たぶん、ここから来る。
「1つだけ言うとね」
灯子さんは、ノートのいちばん最後の矢印を指でなぞった。
「最後の転調で、いちばん高くなるとこ。心音ちゃんの声だと、のどが締まると思う」
「そこから上で無理すると、声、なくしちゃうから」
隣で、海歌の顔が一瞬こわばる。
「大丈夫、ゆっくりでいいよ」
灯子さんは手を振って、ハコブネの階段へ戻っていった。
言い返す所は、どこにもない。高い所を力で押し上げるなと、海歌にも毎晩言われている。
首元を押さえていた指のことは、海歌の前では聞かずに飲みこんだ。
[いってらっしゃい]
[水、飲んでね。2人とも]
海歌はもう、いつもの顔で笑っていた。
大鼓は、灯子さんの背中に下げた頭を、いつもどおり誰よりも遅く上げた。
◇
ゲートをくぐってからは、話が早かった。
第11層では、大鼓が腰の高さに輪になって浮かぶドラムを叩き、そのソロだけで大猿の群れの間を通した。第12層の草原は、踏み分け道を2人で走って渡る。
岩壁の割れ目の階段を下りると、また白い石の洞窟に出た。第11層と同じ白い岩なのに、天井がずっと低い。壁に手をつくと、指先がじっとり湿った。
この湿った通路の先に、近道をふさぐスライムの広間がある。腕に巻いたスマートフォンに出る配信の同時接続数は、600くらいだ。
通路の角を曲がった所で、群れに出くわした。
棍棒を提げたホブゴブリンが3匹と、肩の高い大きな狼が6匹。ばらばらに散っている。
いちばん大きいのは、大柄なホブゴブリンの2匹。次が、小柄なホブゴブリン1匹と大人の狼4匹で、この5匹は体の大きさがそろっている。いちばん小さいのが、まだ細い若い狼の2匹だ。
体の大きさが違えば、魔石の高さも違う。いつものように1つの高さを鳴らして伸ばしても、割れるのは同じくらいの体の何匹かだけだ。
海歌の編曲を試すには、ちょうどいい相手が出てきた。分かれるたびに高くなるスライムのために、海歌が転調の矢印を3つ書いた「泡にならない」だ。
「こいつらは俺が引きつける」
大鼓が前に出ると、腰の周りにまたドラムの輪が浮かんだ。
スネアを1発鳴らして、いちばん近いホブゴブリンの肩を叩く。叩かれた順に、群れの頭が大鼓のほうへ向いていく。
『ドラムの人きた』
『群れでかくね』
『ドラムごと移動すんの便利だな』
あたしはアンプのつまみを上げて、ギターの低い音を群れに当てた。
いちばん大きいホブゴブリンの胸で、魔石が光って鳴る。その高さが、キーを5つ下げた「泡にならない」の、サビの終わりの音とぴったり重なった。
首のピックを紐から外して、前奏を弾き始める。
大鼓のビートに乗せて、歌い出した。
ホブゴブリンの棍棒が大鼓の宙のスネアに当たって、硬い音が通路に響く。あたしの声はそれに消されずに、湿った壁から返ってくる。
大鼓が叩くたびに、ビートの音が少しずつ硬くなっていく。ギターで鳴らした高さに声を乗せると、喉の奥で声が太くなるのが分かった。
最初のサビの終わりで、声を伸ばした。
大柄なホブゴブリンの魔石が、2つ続けて割れる。2匹とも、その場で光の粒になった。
『でかいの2匹消えた』
『同時かよ』
『泡にならないだ』
歌を止めずに、ギターの音だけで次を探した。
弦を1本ずつ鳴らすたびに、群れの胸で魔石が光る。ある高さで、小柄なホブゴブリンと大人の狼4匹、その5匹の魔石がそろっていちばん強く鳴った。
何個上げるかは心音のギターが決める、と部室で海歌は打っていた。編曲家の言うとおりにしてやる。
押さえる指を、フレット1つ分だけ上へずらした。
キーを1つ上げて、2番のサビに入る。
『あれ、キー変わった?』
さっきより少し高い所で、あたしの声が通路に広がった。
サビの終わりの音を伸ばす。
小柄なホブゴブリンの胸で、魔石が光ったまま鳴り続ける。大人の狼4匹の魔石も、同じ音で重なった。
5つの魔石が、大きいほうから割れた。
ホブゴブリンが倒れ、狼が1匹ずつ続いて、光の粒になっていく。
『転調で割ってる』
『キー上げた? 今上げたよな』
『大きい順に割れてく』
『耳どうなってんの』
『曲の途中でキー変えて割るの何』
『ドラムの人ずっと叩いてて草』
同時接続数が、1,400を超えていた。
海歌が書いた矢印の1つ目は、ちゃんと効いている。
残ったのは、細い若い狼の2匹だけになった。
次の高さを探して、また弦を鳴らす。小さい2匹の魔石は、さっきより上で、しかもそれぞれ少しずつずれた所で光った。
どっちに合わせるか迷っている間に、2つ目の矢印の所が来てしまう。
押さえる指を上へずらした。声は、ギターがまだ探している途中の高さを追いかけている。耳で探りながら移るのに、喉がまだ慣れていない。
低い声に裏声を混ぜかけた所で、声が揺れた。
狼2匹の魔石は、光って鳴るだけで割れない。いちばん小さい1匹が、大鼓の脇をすり抜けて、あたしのほうへ跳んできた。
大鼓が振り向きざまに、その鼻先をスティックで叩く。狼は床を滑って、大鼓のほうへ向き直った。
あたしは歌うのをやめた。
1つの高さだけを鳴らして伸ばす、いつものやり方に戻した。ギターで、いちばん小さい狼の魔石の高さを鳴らし続ける。
その高さに、裏声を混ぜた声を合わせて伸ばした。今度は揺れずに、魔石が割れる。もう1匹も、同じやり方で割った。
届かない高さじゃない。
『惜しい』
『最後歌止めたな』
『でも全部割れた』
『裏声きれいじゃん』
慰めてくれるのはありがたいけど、止めたのは止めたのだ。2つ目でこれじゃ、矢印がもう1つ残っている編曲を、最後まで歌いきれる気がしない。
文化祭のステージの申し込みは、5月16日で締め切られる。あと13日のうちに近道を開けないと、用紙のボーカルの欄に海歌の名前を書けない。
頭の中で天の声が響く。
【レベルアップ。Lv24からLv25になりました】
大鼓がスティックを下ろして、こっちを向いた。
「報告する。俺も25だ」
「知ってる。同じ群れを一緒に割ったんだから」
「念のためだ」
念のためで、毎回それを言う人はほかにいない。
3つ目の矢印は、今日は使わずに済んだ。群れの中に、そこまで小さい魔石がいなかっただけだ。
通路は、そこからさらに少し歩いた所で行き止まりになった。
その先に、体育館の半分ほどの広い洞が口を開けている。近道をふさぐスライムの広間だ。
入口の床に、溶けて形の崩れた剣と盾のかけらが散らばっていた。前に挑んだ誰かが、拾わずに置いていった物だろう。
大鼓が、あたしの前に腕を出した。言われなくても、中には入らない。
奥の壁の下に、第14層へ下りる階段の口がある。
その口の上を、半透明の大きなスライムがまるごと覆っていた。ゼリーのような体の奥に、大きな魔石が1つ透けて見える。
録画で見たのと同じ相手だ。画面で見るより、ずっと近くて、ずっと大きい。
あれを相手に、さっき声が揺れた2つ目の矢印より、もっと上まで追いかけることになる。
ギターに伸ばしかけた手を、あたしは下ろした。
『本物だ』
『録画のやつじゃん』
『剣のかけら落ちてる』
『入るなよ絶対』
『13層の武器溶かしだ』
掲示板で、このスライムに付いている呼び名だ。




