第45話 手のひら、少しずつ
[徹夜で書きました。ほめてください]
金曜の放課後の部室で、海歌が歌詞のノートを開き、膝の上のギターにかぶせるように置いた。今日の読み上げは、深夜のラジオでしゃべっていそうな、やけに甘い男の人の声だ。
シールだらけのノートの「泡にならない」のページに、前はなかった鉛筆の印が書き足してある。
「目の下、クマないけど」
[2時に寝ました]
「それ、徹夜って言わないし」
第13層の近道をふさぐ大きなスライムに、5月16日に挑む。そう決めて海歌に送ったのは、きのうの夜だ。返事が来たその夜のうちに、海歌はこれを書いたことになる。
歌詞のいちばん上に、キーを5つ下げた所から、と海歌の丸い字で書いてあった。歌詞の途中には、上を向いた矢印が3つ並んでいる。
矢印の横には「分かれたら」とだけ書いてあって、いくつ上げるかの数字はどこにもない。
「キーをいくつ上げるか、書き忘れてるよ」
[わざとです]
[分かれたら、ギターを鳴らして、魔石が鳴る音の高さを聞いて]
[サビの終わりの伸ばす音が、その高さに来るキーに移る]
海歌は指先で矢印をとんとんと叩いて、もう1行打った。
[何個上げるかは、心音のギターが決める]
「いや、いちばん大事なとこ、あたしに丸投げしてない?」
[編曲家の特権です]
曲を作ったのはあたしなのに、編曲家のほうが偉そうだ。
でも、スライムが分かれたあとの魔石がどの高さで鳴るかは、その場でギターを当ててみるまで分からない。
あたしは薄いピックで、キーを5つ下げた前奏から弾き始めた。
矢印の所が来るたびに、押さえる指をフレット1つ分ずつ上へずらす。そのたびに、海歌が両手の人差し指を立てて、くいっと上へ振った。
声が出ていたころ、ステージで客をあおっていたときと同じ振り方だ。教える側に回った海歌は、見ているこっちが笑うくらい生き生きしている。
弾き終えると、海歌はスマートフォンをこっちに向けた。
画面には、前に第13層の広間に挑んだパーティの配信のアーカイブが止めてある。録画の話を送ったら、海歌は自分で同じ配信を探し出したらしい。
最初の画では、スライムが階段の口を丸ごと覆っている。海歌が早送りした3回目のあとの画では、その体が見る影もなく縮んでいた。
[3回目のあとは、たぶんキーを2つ下げたくらい]
「マイナス2」
口に出したら、思っていたより高く聞こえる。
試しに、キーを3つ下げた高さでサビの終わりの音を弾き、声を合わせて伸ばしてみた。2秒ももたずに声が揺れる。
キーを4つ下げた高さなら、最後まで揺れずに伸ばせる。今のあたしの上の端はそこまでだ。
「マイナス2まで、あと2つ届かないじゃん」
「潜ってレベル上げたら、もうちょい上まで」
言い終わる前に、海歌が2人の家のある方角を指さした。
そうだった。出せる声のいちばん上は、ダンジョンでモンスターを何匹倒しても上がらない。上げられるのは、ダンジョンの外でする発声練習だけだ。
海歌はもう次の文を打っていた。
[毎晩、窓で練習。わたしが手で高さを出す]
[5月16日までに、そこまで連れてく]
「3週間でキー2つって、けっこう無茶じゃない?」
[無茶じゃないよぉ。わたしが教えるもん]
言い返せなかった。あの録画の続きでは、3回分かれて小さくなったスライムが、最後は横穴へ逃げこむ。そこまで声が追いつかなければ、近道は開かない。
部室の戸が開いて、新入生が顔を出した。仮入部は今日で最後だ。
「失礼します。今日もよろしくお願いします」
黄色いリボンを結び直しながら、新入生はいつものパイプ椅子に座った。
あたしは首のピックに指をかけて、紐から外した。
「前に頼まれたやつ、今日やる。『泡にならない』」
新入生の背中が、椅子の上でまっすぐになった。
「キーは下げてるけど。あたしの声に合わせたから」
外したピックで、キーを5つ下げた前奏を弾き、そのまま最後まで歌った。
海歌の前で初めて歌った日は、サビの間ずっと声がかすれていた。今日は低い所で一度かすれただけで、最後の音まで揺れなかった。
弦を手のひらで押さえると、新入生はしばらく黙ったまま、あたしの手元を見ていた。
「昔のライブの動画で、海歌先輩が歌ってるのを何回も見てたんです」
「だから、別の曲みたいでした」
だよね、と思う。比べられるのは歌う前から分かっていた。
「でも、こっちが好きです。ギターボーカルさんの声の、この曲が」
いつもなら、ここで一言ボケて流している。口を開けたのに、何も出てこなかった。
ツッコミ担当が、褒められた途端に黙るのはどうなんだ。袖で口元を隠そうとして、ピックを持ったままの手に気づいてやめた。
戸の近くのパイプ椅子で、海歌が音を立てずに、小さく手を叩いている。
「あの。入部届、出します」
新入生はパイプ椅子から立って、深く頭を下げた。
◇
その夜から、窓越しの練習は、声を上へ広げる練習になった。路地を挟んだ向かいの窓で海歌が上げる手のひらの高さに、あたしが声の高さを合わせていく。
手のひらは胸より低い所から始まる。あたしは喉に力を入れずに声を滑らせて、少しずつ上がっていく手のひらを追いかける。
ある高さから上は、低い声のまま押し上げずに、裏声を混ぜるように言われた。草原で張り上げて裏返り、コメント欄に笑われた声だ。
[裏声も、心音の声]
そう打たれたら、混ぜるしかない。混ぜてみると、押し上げていたときより、ずっと喉が楽だった。
前の晩にやっと出た高さから、次の晩の手のひらは始まる。
[水]
[肩]
水を飲め、肩を上げるな。この2つは、毎晩、始める前に必ず飛んでくる。今夜は、窓を開けた瞬間に飛んできた。
「まだ何もしてないし。毎晩言わなくても覚えてるって」
海歌は返事の代わりに、声を出さずに唇をぶるぶる震わせてみせる。それをあたしがやり終えるまで、手のひらは一度も上がらない。
◇
土曜の夜も、窓を開けて練習していた。机の上の時計は21時だ。
向かいの海歌が、上げた手のひらはそのままに、空いた手の指を首のチョーカーの真珠に当てた。片手で打つ海歌の指はいつもより遅い。
[真珠、あったかい]
毎週土曜のこの時間に、ミナモの生配信が始まる。海歌の声で歌う、顔を出さない歌い手だ。ミナモが歌っている間、海歌の真珠は温かくなる。
あたしのスマートフォンは、机の上で画面を伏せたままだ。開けば、海歌の声がすぐ聞ける。開かなかった。
「海歌、今夜はもう」
言い終わる前に、海歌の手のひらがすっと次の高さへ上がった。
チョーカーから離れた指は、窓枠をつかんでいる。海歌はあたしの口元だけを見ていた。
肩を下ろして、息を吸い直す。言われたとおりお腹をふくらませて、その高さへ声を滑らせた。
海歌がうなずいて、手のひらをまた少し上げる。
ミナモが1曲歌い終えるくらいの間、手のひらは一度も下がらなかった。
あたしが声を出すのをやめないかぎり、海歌もやめる気はないらしい。
届くたびに、手のひらが上がる。上がり方が、だんだん速くなってきた。海歌の目が、ライブで客席をあおるときみたいに光っている。
気づくと、手のひらは海歌の顔より上にあった。今夜の分は、とっくに越えている。
その高さを、あたしは知っていた。元のキーの「泡にならない」の、サビの終わりの音だ。
海歌がステージで、いちばん長く伸ばしていた音でもある。
声を滑らせると、低い声に裏声が混ざって、細くなっていく。
あたしの声が一瞬だけ海歌の音に届いた。
次の瞬間、声がひっくり返って、かすれた裏声だけが路地へ抜けていく。
海歌の手のひらが、すとんと下りた。
[いまの、のど]
[水]
海歌の指が、あたしの部屋の窓枠に置いたペットボトルをまっすぐ指している。慌てて水を飲んだ。
「大丈夫だって。痛くないし」
ペットボトルから口を離して、顔を上げた。
向かいの窓で、海歌の顔が一瞬こわばって、それから笑った。




