第43話 泡にならない、自分のキーで
「新入生が来る前に、1曲だけやる。海歌に聞いてほしい」
水曜の放課後の部室には、まだあたしと海歌しかいなかった。仮入部の新入生は毎日来るけど、来るのはいつも少しあとだ。
あたしはいつものアンプに腰かけて、ギターを膝に載せている。目の前には、海歌が窓の前から運んできたマイクスタンドが立っていた。
窓の前の床に貼った、「うみか」と書いた黄色いテープの上には何も立っていない。
海歌は戸の近くのパイプ椅子で、スマートフォンを打った。声の出ない海歌は、打った文を読み上げの声で鳴らして話す。今日の読み上げは、駅でアナウンスをするお姉さんみたいだ。
[まもなく、三浦心音さんの単独公演が始まります]
早めに来て、と送ったのはあたしだ。ボケで迎えられるのは分かっていた。
あたしは首から下げたピックに指をかけた。紐に通したこのピックは、自分の声で歌うときだけ外して弾く。海歌もそれを知っている。
紐からピックを外した。
海歌の顔がこわばった。親指が次のボケを打ちかけて、画面の上で止まる。
ピックを持つ指先が冷たい。今なら、まだ紐に戻せる。戻して前奏だけ弾けば、ギターの話で終わって、いつもどおりの放課後に戻れるはずだ。
いつもなら、あたしもここで一言ボケる。「なんちゃって単独公演です」くらいなら、考えなくても出てくる。
出さなかった。冗談にしたら、このあと言うことまで冗談になってしまう。
「『泡にならない』、ずっと歌えなかったじゃん。あれ、わけがあって」
言い出しの声が自分で聞いても頼りない。ツッコミのときは、あんなに勢いよく出るくせに。
「泡にならない」は、海歌の声に合わせてあたしが作った曲だ。
「海歌の歌い方でまねたら、海歌の声で歌ってるミナモと同じになる」
「自分の声で歌ったら、今度は海歌の歌を、あたしが取っちゃう。だから、歌えなかった」
顔を出さない歌い手の名前が出たとき、海歌の目が一度だけ、首に巻いたチョーカーの真珠へ落ちた。親指は画面の上で止まったままだ。
本人の前でこれを言えば、海歌を傷つけるかもしれない。それでも、黙って歌うよりはましだと思った。
「でも、今日は歌う。まねもしないし、元のキーでもない。あたしのキーで」
「マイナス5。ゆうべ、指で見つけた」
曲の高さを、海歌が歌う元のキーから5つ下げた所だ。あたしの低い声が、いちばん楽に出る高さになる。
海歌はスマートフォンを膝の上に伏せて、椅子に座り直した。聞く、という返事の代わりだと思うことにする。
外したピックで、前奏を弾き始める。
高さが変わっても、指は迷わない。中学のころから、何百回と弾いてきた前奏だ。
歌い出しの前に、海歌はいつも小さく息を吸う。前にあたしがまねて歌ったときは、その吸い方までそっくりだった。今日はあたしの吸い方で、雑に吸う。
低い声で歌い出す。
海歌の声なら軽く上がっていく所を、あたしの声は底のほうから押し上げていく。低い所で声がざらついた。
喉の奥の震えが、抱えたギターの胴に伝わってくる。弦とあたしの声が同じ低さで鳴っていた。
自分の声が部室の壁に当たって返ってくる。耳を塞ぎたくなる声だけど、左手は弦から離さなかった。
1番の終わりで息が足りなくなって、言葉の頭が少し遅れる。遅れた分はギターでつないで待つ。
間奏で一度だけ海歌のほうを見た。
海歌は椅子に座ったまま、伏せていたスマートフォンを両手で握って、瞬きもしないであたしの口元を見ている。袖で口を隠したくなった。左手は弦の上だし、右手はピックを持っているから隠せない。
ギターを弾いていてよかったと、初めて思った。
サビに入る。高い所へ上がる手前で、声がかすれた。かすれたまま、止めずに上へ行く。
喉の上のほうが少しきしむ。それでも、裏声に逃げなきゃいけない高さは、もうこの曲のどこにもない。
いちばん上の伸ばす音は、ゆうべ指で確かめたとおり、喉の楽な所に収まった。息が続く所まで、その音を伸ばす。ゆうべは弦で鳴らしただけの音が、今はあたしの喉から出ている。
サビの最後の1行は、前に1人で歌おうとして「きみの声で」で止まった所だ。今日は止まらない。
「きみの声で 海が鳴る」
最後の和音を鳴らして、弦を手のひらで押さえた。
海歌の親指は、スマートフォンの画面の上で浮いたままだ。部室の中には、押さえきれなかった弦の響きだけが細く残っている。
外したピックを紐に戻すと、指先がまだ少し熱い。
海歌は泣きそうな顔で笑っていた。
口の端は上がっているのに、目のふちが赤い。親指がゆっくり動き出して、あたしはボケが来ると思って身構えた。
[心音の低い声、昔から好き]
最後に付くはずの「なんちゃって」は、いつまで待っても来ない。
「は?」
「いや、だって、海歌の声のほうが」
その先が続かない。比べるまでもないことを、なんで今さら言われているのか分からなかった。
[中学で歌って「男子みたい」って笑われてから、心音、自分の声きらいになったでしょ]
[知ってたから、言えなかった]
知られていたとは思わなかった。笑われたあの日のことは、海歌の前では一度も口にしていない。
海歌はしばらく打ってから、画面をこっちに向けた。今度は読み上げを鳴らさずに、見せるだけにしている。
あたしがEランクに上がった日にも、協会の窓口の後ろで、海歌はこうして何行も打っては消していた。あのとき読み上げで鳴ったのは、おめでとう、の一言だけだ。
Eランクおめでとう。今日の声、わたしのいちばん好きな心音の声だった。いつか、心音のとなりで歌いたい。
[あの日に消したやつ。打ち直した]
何が書いてあったのか、あたしはあの日、聞かなかった。
[ずっと、2人で歌いたかった]
海歌が椅子から立ち上がる。
スマートフォンを握ったまま、窓の前まで歩いていく。黄色いテープの上には、海歌が声を失ってから、マイクスタンドしか立ったことがない。そのスタンドも、海歌が自分であたしの前へ動かした。
海歌の上履きが、テープの「うみか」の字を踏んだ。
あたしはアンプに座ったまま、マイクスタンド越しに、テープの上の海歌と向かい合った。
海歌の後ろの窓から西日が入って、水色の毛先が光っている。テープの上で、海歌はもう一度スマートフォンを持ち上げた。
[声が戻らなくて、文化祭のステージで心音と歌えなかったらって、こわい]
[だから、ボーカルの欄、空けた]
打ちながら、海歌は泣いている。手の甲で顔をこすらないし、下も向かない。泣いている顔のまま、まっすぐこっちを見ている。
何か言おうとして口を開けたけど、出てきそうなのは冗談ばかりで、あたしは口を閉じた。
きのうの朝、家の前の路地で、あたしは用紙を差し出して、海歌の声はあたしが取り戻す、と笑って言った。
あたしはギターをアンプに立てかけて、鞄を開けた。
文化祭のステージの申し込み用紙は、朝から鞄のファイルに挟んだままだ。ボーカルの欄には、あたしがシャーペンで書き戻した「有村海歌」がある。
筆箱から消しゴムを出して、海歌の目の前でその字を消した。
海歌が、待って、と言うように手のひらをこっちへ向けた。
[え、なんで]
あたしはかまわずに消しかすを払った。ボーカルの欄が、また空欄に戻る。
「名前を書いて、口で約束するだけなら、きのうの朝の路地と同じだし」
海歌の手のひらは、こっちへ向いたままだ。
「そのチョーカーを壊せる物は、深い層で出ることが多いんだって。第13層に、もう1つ下の層へ下りる近道がある」
協会のサイトで見た層の案内では、その近道に、強いモンスターが出るという印が付いていた。
あたしは笑わずに続けた。自分の低い声で、海歌の顔を見て言う。
「5月16日までに、その近道を通れるようにする。通れたら、この欄に海歌の名前を書く」




