第42話 消せる字で書いた
ペンを筆箱に戻して、シャーペンに持ち替えた。
月曜の夜、自分の部屋の机で、文化祭のステージ出演の申し込み用紙に向かっている。
ボーカルの欄には、心音が書いてと言って海歌が自分で消した「有村海歌」の跡が、まだ薄く残っていた。
消えかけた字の上に、同じ4文字を重ねて書いた。
放課後の部室ではペン先が紙に届かなかったのに、上からなぞるだけなら5秒もかからない。楽な答えを選ぶときだけ、あたしの手はやけに速い。
書いた字を眺めているうちに、前に協会の職員さんに聞いた話を思い出した。海歌の声を奪ったチョーカーを壊せる物は、深い層で出ることが多いらしい。
スマートフォンで、協会のサイトにある層の案内を開いた。第13層に、第14層へ下りる近道が載っている。
近道には、強いモンスターがいるという印が付いていた。ほかの道は遠回りで、何時間もかかるとある。
第13層には、まだ下りたこともない。明日の朝に海歌へ言うつもりの約束が、言う前から少し頼りなくなった。
◇
次の朝、玄関を出ると、ちょうど向かいの家から海歌が出てきたところだった。
2人の家に挟まれた路地は、自転車1台がやっと通れる幅しかない。海歌は水色のカーディガンの袖から指先を出して、スマートフォンを打った。
声の出ない海歌は、打った文をアプリに読み上げさせて話す。今朝選んだのは、駅のアナウンスみたいな、やけに丁寧な女の人の声だ。
[おはようございます。本日も、ご乗車ありがとうございます]
「いや、電車に乗ってないし」
あたしがツッコむと、海歌はいつもの顔で笑った。昨日、廊下の窓ぎわで肩を震わせていた顔は、どこにも残っていない。
うまいなと思って、うまいのがちょっと嫌だった。
「海歌、ちょっと待って」
鞄のファイルから申し込み用紙を抜いて、ボーカルの欄が海歌に見えるように向けた。
「書いといた」
[なにを]
「っていうか、戻しといた」
海歌がまばたきをする。あたしは用紙を両手で持ち直して、頭を下げながら差し出した。
「声は戻るって。海歌の声は、あたしが取り戻すし」
「だからこの欄は海歌のです。謹んでお返しします」
「あ、返品は受け付けてないんで」
いつもの調子で言えた。
海歌が笑って用紙を受け取り、自分の鞄にしまってから、2人で並んで坂を上がる。そこまでの朝が、もう頭に浮かんでいた。
海歌は用紙をのぞきこんだ。ボーカルの欄のところで、目が一度だけ止まる。
海歌は画面の上で少し親指を迷わせてから、両手でいつもより速く打った。
[お気持ちはうれしいのですが]
[ラブレターは、受け取れません]
[なんちゃって]
海歌は画面をこっちに向けたまま、ぺこりと頭を下げてみせた。駅員さんがお客さんに謝るときの角度だ。
昨日は付かなかった「なんちゃって」が、今朝はちゃんと付いた。付いたのに、少しも笑えない。
「いや、なんでラブレ」
いつもなら「ちゃんと読め」くらいは返すのに、その先が喉の奥に引っこんで出てこなかった。
海歌はスマートフォンをカーディガンのポケットにしまった。空いた手も、そのまま両方ともポケットに入る。
くるっと背中を向けて、海歌は学校へ続く坂を先に上がっていった。
差し出した用紙は受け取られずに、あたしの手に残った。
朝の風に端の揺れる用紙を鞄のファイルに挟んで、あたしは少し遅れて坂を上がった。
◇
その夜、ベッドに座って、アンプにつないでいないギターでバンドの持ち歌の「泡にならない」の前奏を弾いた。
海歌の声に合わせて、あたしが作った曲だ。作ったくせに、自分の声で歌ったことは一度もない。
前奏の終わりの、歌が入る所で左手が止まった。
歌い出しの最初の1音を、指がどうしても押さえにいかない。
弦を押さえ直して、曲の高さを決めるキーを1つ下げた。押さえる指を、どれもフレット1つ分ずつ下へずらすだけだ。
前奏を頭から弾き、歌が入る所からは、歌のメロディを弦で1音ずつなぞっていく。
声は出さない。出したらどうなるかは、頭の中で当ててみるだけにする。
元のキーだと、サビの終わりに伸ばす音は、あたしの声では裏声に逃げるしかない高さになる。第12層の草原で魔物の群れに張り上げたとき、裏返ってコメント欄に笑われた声より、まだ上だ。
1つ下げても2つ下げても、その音はまだ喉の上のほうで引っかかる。頭の中で当てるだけなのに、首の筋までつられて固くなる。
3つ目で少し楽になり、4つ目で引っかかりがほとんど消えた。
もう1つ下げて弾いたとき、サビの終わりの音が、あたしの低い声がいちばん楽に出る所にすとんと収まった。肩から力が抜けて、弦を押さえる指まで軽くなる。
キーを5つ下げた高さだ。思っていたより、ずっと低い。
作った本人が、自分の曲のキーを今ごろ探している。作曲者としてどうなんだ、それは。
その音を弦の上で伸ばしたまま、息だけを吸ってみる。海歌に教わったとおり、お腹がふくらむのが分かる。
声にはしないで、吸った息をそのまま静かに吐いた。
左手の指が押さえる場所に迷わなくなるまで、同じ高さで前奏からサビの終わりまでを弾き直す。
この高さなら、あたしの声でも最後まで出る気がする。気がするだけで、まだ試してはいないけど。
ノートの端を破って、その高さで押さえる指の形を書きつけた。
スマートフォンを取って、海歌に打つ。
朝はごめん、と打ちかけて、消した。謝ったら、また冗談で返される気がする。
明日の放課後は部室に早めに来て。
送ったのは、それだけだ。ほかに何か書こうとしたのに、1文字も足せなかった。
少しして、海歌から、読み上げの声を録った短い音声が届いた。
[了解]
ボケも「なんちゃって」も付いていない。昨日までの海歌なら、ここで何か1つはふざけていた。
録られた声をもう一度だけ再生して、窓の外を見た。路地の向かいの2階は明かりがついているのに、窓越しの練習で毎晩歌う高さを教えてくれた海歌の手のひらは、今夜も上がらない。




