第41話 ボーカルの欄、空けといた
文化祭のステージ出演の申し込み用紙は、ボーカルの欄だけが空っぽになっていた。
欄の上に、消しゴムのかすが少し残っている。
月曜の放課後の部室で、あたしはギターを抱えて、いつものアンプに腰かけたところだった。目の前の譜面台に、用紙が置いてあった。
窓の前では、仮入部の新入生がもう発声を始めている。仮入部は自由参加なのに、月曜まで来るなんて熱心な子だ。
新入生の横のマイクスタンドの足元には、海歌がボーカルで立つ位置の印に、油性ペンで「うみか」と書いた黄色いテープが貼ってある。
海歌は窓ぎわの椅子で、新入生の「あー」を聞いていた。こっちに気づいて、いつもの顔で小さく手を振る。
用紙の字は、見慣れた海歌のシャーペンの字だ。バンド名の「貝殻ラジオ」も、ギターの「三浦心音」も前のままで、ドラムの欄は前から空いている。
消えたのは、ボーカルの「有村海歌」だけだった。かすがまだ払われていないから、消したのは昨日の夜か今日だ。
顔を上げると、海歌が椅子を立って、あたしの横にしゃがむところだった。
新入生の「あー」が一段高くなる。海歌はスマートフォンの音量をいちばん下まで絞って、画面をあたしの膝の前に出した。
声の代わりに海歌が使う読み上げは、今日ははきはきしたお姉さんの声だった。音を絞っても、やけに元気だ。
しゃがんだまま、海歌は胸を張ってみせた。
[そう、あたしがボーカル。……って、心音が言ってたもんね]
先週、新入生に「ギターボーカルさんがボーカルなんですね」と言われて、あたしが胸を張って返した冗談だ。
張り方まで、そっくりまねされている。
まずい、と思った。笑うところなのに、海歌の目が笑いを待っていない。
[ボーカルの欄、空けといた]
[申し込みの5月16日まででいいから、心音が書いて]
ボケのあとにいつも付く、なんちゃって、が来ない。
冬の朝、この用紙を窓ガラスに押し当てて、ボーカル、心音が歌って、と打ったときも、海歌はそれを付けなかった。
用紙のボーカルの欄には、前に海歌が「三浦」の三の字を書きかけて消した跡も、薄く残っている。
「いや、あれは、その」
その先の冗談が出てこなかった。
いつもなら、考える前に口から出ているのに。
海歌は画面から目を上げずに、もう一度打った。
[声が戻らなくても、バンドは続けられるもんね]
明るいのは、機械の読み上げの声だけだ。
言い方が海歌じゃない。海歌なら「だよぉ」と語尾を伸ばすし、こんなにきれいにまとまった言い方はしない。
「それ、誰に言われたの」
[わたしの名言です。来年の日めくりカレンダーに載ります]
[なんちゃって]
答えになっていない。
海歌が立ち上がった。
窓の前まで行って、マイクスタンドに両手をかける。そこで一度、海歌の手が止まった。
あたしはギターのネックを握ったまま、何をする気なのか聞けなかった。
海歌がスタンドを持ち上げた。
スタンドの足が黄色いテープから離れた。
テープの「うみか」の字は、端のほうがかすれている。海歌が声を失ってから、その上に立ったのはスタンドだけだった。
海歌はスタンドを抱えて、まっすぐこっちへ戻ってくる。
前に一度、海歌はこのスタンドをあたしのほうへ運びかけて、窓の前へ戻したことがある。
今日は戻らなかった。
スタンドが、あたしの座ったアンプの前に置かれた。
海歌はねじをゆるめ、あたしの口の高さまで下げてから、もう一度締める。マイクの頭を指先でつまんで、向きをあたしの口に合わせた。
目の前にマイクスタンドが立っている。
窓の前のテープには、もう何も立っていない。
海歌は壁ぎわのパイプ椅子を引いて、テープから離れた所に座った。
座ってから、海歌は一度もテープのほうを見なかった。
読み上げの音量を戻して、新入生に向かって手のひらを胸の高さに上げる。
[この高さで、あー]
「え、教えてくれるんですか!」
新入生の声が跳ねた。ギターボーカルさんがボーカルだと思っている子には、先輩に教わるのは素直にうれしいことなんだろう。
手のひらの高さに、新入生が「あー」を合わせる。海歌の手のひらは、声が届くのを待ってから、少しずつ上がっていった。
[もうちょい上]
「はいっ」
[そこ。いいね]
「やった、海歌先輩にほめられました」
[息、もっと吸って]
「はいっ」
[つぎ、もっと上]
「はい、がんばります!」
「海歌先輩の手、すっごく分かりやすいです! 声が勝手についていきます」
窓越しの練習で、毎晩あたしに向けられていたのと同じ手のひらだ。その手のひらが、今はあたしでなく、新入生の声を引っぱり上げている。
新入生が息つぎのついでに、こっちを振り向いた。
「あ、マイク、ギターボーカルさんの前になったんですね。ボーカルっぽいです!」
あたしは返事の代わりに、弦を1本だけ鳴らした。
西日が入って、マイクスタンドの影があたしの足元まで伸びている。
ギターを抱えたまま、あたしはその影から目を上げられなかった。
何度か高さを上げ下げしたあとで、新入生が手を下ろした。
「海歌先輩、のどはいつ治るんですか?」
まっすぐな聞き方だった。
[のどは長期休暇中です。南の島に行ってます]
「えー、いいなあ。おみやげ待ってます」
新入生が声を立てて笑う。
あたしは黙っていた。
何も立っていないテープを見て、目の前のマイクスタンドを見る。
春休みには幼なじみの大鼓に、ボーカルのとこは飾り、と言った。先週は新入生の前で、あたしがボーカル、と言った。
新入生の「あー」に合わせていた海歌の手のひらが、一度だけ、あたしの抱えたギターのほうを向いた。
手のひらはすぐ新入生のほうへ戻ったけど、見間違いじゃない。あたしはちゃんと見た。
[先に帰るね]
「お疲れさまでした!」
海歌はマイクの布の袋を肩から斜めに掛けて、部室を出ていった。
戸が閉まる音がして、部室には新入生の発声だけが残る。
少しして、あたしはギターを壁に立てかけた。さっきの言葉を誰に言われたのか、やっぱり聞きたい。それに、海歌を1人で帰らせたくなかった。
「ごめん、ちょっと出てくる。続けてて」
「はい」
部室棟の廊下に出て角を曲がりかけたところで、足が止まった。
廊下の窓ぎわで、海歌が片手でチョーカーを押さえたまま、肩を小さく震わせていた。泣き声は聞こえない。泣くときも、海歌の声は出ない。
あたしは角に立ったまま、前に出られなかった。海歌は、平気なふりをしている所を人に見られたくない。幼稚園からの付き合いで、それだけは知っている。
海歌は手の甲で顔をこすって、何もなかったみたいに階段のほうへ歩いていった。聞きに出たのに、あたしは何も聞けずに部室へ戻った。
部室には、もう誰もいない。新入生も帰ったらしい。
あたしはアンプに腰かけた。目の前には、海歌の置いたマイクスタンドがある。
マイクは、さっき海歌が合わせた向きのまま、あたしの口のほうを向いている。
海歌がボーカルの欄から名前を消したわけの一つは、たぶんあたしの冗談だ。
譜面台から申し込み用紙を取って、ペンを出した。
ホワイトボードの隅の、文化祭までの日数の横に、顧問の角ばった字で『文化祭 ステージ出演の申し込み 5月16日まで』と書いてある。締め切りまで、あと25日だ。
空いたボーカルの欄に、ペンを近づける。
ペン先は、欄の上で止まったまま、紙に届かなかった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。続きが気になったら、ブックマークしてもらえると更新の通知が届きます。
並行して『弱虫ダンジョン配信者の僕、宿った本物の殺人ピエロに体を貸したら『演技うますぎ』とバズった』も連載しています。同じ作者名のページから読めます。
次回から「終わりの音」が始まります。




