第40話 土曜の21時
土曜の夜も、あたしは海歌と窓越しの練習をしていた。
路地を挟んだ向かいの2階で、海歌が手のひらを上げ下げする。あたしは窓ぎわの床でギターを抱えて、その高さに低い声を合わせる。手のひらの高さが、あたしの歌う音の高さだ。
今夜は、その手のひらがいつもより少し上まで上がり、あたしの声も追いかけて届いた。草原の戦いで張り上げて裏返った高さの、ほんの少し下だ。
声は裏返らなかった。ちょっと勝った気がする。
海歌が窓枠に置いたスマートフォンを打つ。今日の読み上げは、天気予報のお兄さんみたいなさわやかな声だ。
[三浦さんの声、本日の最高地点を更新しました]
「天気みたいに言わないで」
海歌は得意そうに、手のひらをもう1段上げかけた。
そこで21時になって、手のひらが止まった。
止まった手のひらは高さを教えるのをやめて、首のチョーカーへ下りていく。
土曜の21時は、ミナモという、顔を出さずに海歌の声で歌う歌い手が、生配信で歌い始める時間だ。
チョーカーの真珠に指を当てたまま、海歌が片手で打つ。
[真珠、あったかい]
ミナモが歌っている間だけ、海歌のチョーカーの真珠は肌より少し温かくなる。今週も始まった。
あたしはギターを膝から下ろして、スマートフォンでミナモの配信を開いた。
水面に映った女の子を後ろから描いたイラストが出て、その向こうから歌が流れてくる。
澄んだ高い声が、サビの前でほんの少し溜めてから、まっすぐ伸びた。
「……やっぱり」
今週も海歌の声だ。
その声の持ち主は、路地の向こうで、声を1つも出せずに立っている。
『今日も声きれい』
『この声で一週間がんばれる』
ほめられているのは、ミナモということになっている。
スマートフォンを持つ指に、力が入りすぎて白くなった。
腹が立つのと胸のあたりが痛いのと、どっちが先なのか分からない。
窓の向こうで、海歌が笑った。声は出ないから、肩だけが揺れる。
チョーカーから離れた親指が、画面の上で動いた。
[今日のわたし、調子いいねえ]
[サビの伸び、自分でほめてあげたい]
「……うん」
出てきたのは、それだけだった。笑うところなのに、口が動かない。
あたしは配信の音を消した。音のない画面の中で、イラストの後ろ姿はまだ歌っている。
[今日はここまで。おやすみ]
海歌はカーテンを引いた。
おやすみを返しそびれたのは、あたしのほうだった。
◇
次の日の昼すぎ、自分の部屋の窓から路地を見下ろすと、灯子さんが歩いてくるのが見えた。
ライブハウスのハコブネで海歌の世話を焼いてくれた年上のミュージシャンで、海歌にあのチョーカーを贈った人だ。
黒のハイネックに、低い所で1つに結んだ長い黒髪。肩にはステッカーだらけのギターケースを掛けて、片手に洋菓子屋の紙袋を提げている。
海歌が新入生のことを知らせたら、お祝いを持っていくと返事をくれていた。紙袋の中身はそれだろう。
灯子さんはチャイムを押して、海歌の家の玄関へ入っていく。
海歌と灯子さんが2人きりになると思うと、じっとしていられなかった。
気づいたら、あたしはカーディガンを引っかけて階段を下りていた。
路地を渡るのに、10秒もかからない。
チャイムを押すと、玄関を開けたのは海歌だった。目を丸くして、スマートフォンを打つ。
[心音? どしたの]
「いや、窓から灯子さん見えたから。あいさつだけ」
海歌はうなずいて、スリッパを1足そろえてくれた。
2階に上がると、海歌の部屋は戸が開いたままだった。
灯子さんは床のクッションに座っていて、脇に紙袋とギターケースを置いている。
あたしが戸口に立つと、灯子さんは顔を上げて、少し首をかしげた。
「あ、心音ちゃん。新入生の前で歌ったんだってね。ボーカル、よかったね」
やわらかい声だった。責める所なんて1つもない、ほめる声だ。
なのに、冗談で言っただけの、ボーカル、の所で、あたしの背中が固くなる。
「……あ、はい。ありがとうございます」
灯子さんは同じやわらかさのまま、両手を膝の上でそろえた。
「ごめんね。今日はね、海歌ちゃんと2人で話したいことがあって」
謝られた。帰って、とは一言も言われていない。
なのに、あたしはもう、戸口から1歩も中へ入れなくなっていた。
海歌を見る。海歌は明るい顔で、親指を動かした。
[心音、あとでね]
灯子さんは、チョーカーを古道具の市で見つけたと言っていた。
でも冒険者協会の調査員が調べたら、真珠はその前に闇サイトで売れていた。闇サイトで売れた品は、表の市にはまず出てこないそうだ。
どう考えても話が合わない。
それでも、海歌の前では言わないと決めた。灯子さんを慕っている海歌の前で灯子さんを疑えば、傷つくのは海歌のほうだ。
喉まで来ていたものを、あたしは飲みこんだ。
「はい。じゃあ、あたしはこれで」
自分の声がやけに行儀よく聞こえた。
あたしは自分の部屋に戻って、窓の前に座る。
帰ることになったのは仕方ない。でも、ここから見ているかどうかは、あたしが決めていい。
路地の向こうの窓は、2枚のガラスがどちらも閉まっていた。
ガラスの向こうで、灯子さんが海歌に何か話している。
声は1つも聞こえない。口の形で読めるほど、あたしは器用じゃない。
話しながら、灯子さんはハイネックの上から首元に指を当てた。
2月にあたしの部屋で、録画のあたしの歌が流れていたときも、灯子さんは同じ所に指を当てていた。
海歌は笑って、何度かうなずく。
窓を開けて呼べば、あたしの声なら向こうに届く。届くけど、呼ぶ理由がない。
灯子さんが帰ったのは、それから30分くらいあとだ。路地に出た灯子さんはあたしの窓を見上げて、小さく手を振っていった。
あたしの手は、振り返す形のまま半分しか上がらない。
灯子さんの背中が路地の角を曲がってから、向かいの窓を見た。
海歌が窓ぎわに立っていた。
片手を、首のチョーカーに当てている。
笑っていない。
そのまま少しも動かない。
ふだんの海歌なら、あたしの顔が見えた時点で、もう何かボケている。
あたしが窓の前にいても、チョーカーの上の手は離れない。
路地の幅は、自転車1台がやっと通れるくらいだ。この近さで、海歌があたしに気づかないはずがない。
1分待っても海歌は同じ形のままだった。
あんな海歌は見たことがない。
あたしは窓を開けた。
「海歌」
すぐには何も起きなかった。
少し遅れて、向かいの窓ガラスが片方だけ開いた。
チョーカーに当てたのとは反対の手で、海歌の親指が動く。
[灯子さんのお菓子、マドレーヌだった]
[心音の分は、わたしのおなかが責任をもって預かります]
いつもならここで突っ込む所だ。
口は開いたのに、何も出てこなかった。
[なんちゃって]
読み上げの声だけが、いつもどおり明るい。
打っている間、チョーカーの上の手は1度も離れなかった。
灯子さんと何を話したのかは、1文字も出てこない。
「灯子さん、何の――」
海歌はチョーカーから手を下ろして、窓を閉めた。
聞きかけたことの続きは、言えずじまいになった。
◇
その夜、練習の時間になっても、向かいの窓に手のひらは上がらなかった。明かりはついていて、カーテンも開いている。
あたしは自分の手のひらを窓ガラスの前に上げて、待った。いつもと逆だ。
手のひらは返ってこない。
少しして、向かいの部屋の明かりが消えた。




