第39話 仮入部の日
「失礼します。ギターボーカルさんですよね」
部室の戸を開けるなり、1年生の女子があたしを見てそう言った。
配信のコメント欄で付いた呼び名で、1年生があたしを呼んだのだ。吟遊詩人から進化した、今のあたしの職業の名前でもある。
水曜の放課後で、仮入部の期間の3日目だ。あたしはいつものアンプに腰かけていて、海歌は窓ぎわの、マイクスタンドのそばの椅子にいる。
マイクスタンドは、海歌の立ち位置に貼った「うみか」の黄色いテープの上に立ったままだ。
「いや、ギターボーカルってダンジョンの職業の名前だからね。その呼び方で部室に入ってくる人、初めて見たんだけど」
おとといの仮入部には、あたしたちのバンドの曜日に来る1年生はいなかった。来たのはこの子が最初の1人になる。
新入生は窓ぎわの海歌にも気づいて、まっすぐ頭を下げた。
「海歌先輩ですよね。のどの休み中の、ボーカルの」
あたしたちのバンド、貝殻ラジオの SNS には、ボーカルはのどの休み中、と出してある。本当は、チョーカーに声を取られて出ない。
海歌は、打った文をスマートフォンに読み上げさせて答えた。
[はい。のどは現在、有給休暇を消化中です]
「のどに有給あるんだ」
「あるんですね」
新入生はスマートフォンを出して、画面をあたしに向けた。
この前の日曜の、第12層の草原の切り抜きだ。題は〔草原で野外フェスを始めたギターボーカルさん〕。
「え、再生6万? 日曜に見たときは2万だったのに」
「昨日の夜、5万でした。毎日見てるので」
数字のほうが、あたしより先に有名になっている。
画面の中で、草原じゅうからホブゴブリンが押し寄せてきて、雄叫びを上げる。下の自動の字幕には『歓声』と出ていた。
「いや、それホブゴブリンの雄叫びだから」
新入生は画面を消して、両手でスマートフォンを持ち直した。
「切り抜きの説明の欄から、貝殻ラジオの SNS に飛んだんです。そしたら、同じ高校の軽音部だって書いてあって」
「それで来たの?」
「はい。歌を習いたくて、軽音部に来ました。ギターボーカルさんみたいな声で歌いたいです」
顔が熱くなった。知らない人にこの声をほめられたのは、初めてだ。
くすぐったいけど悪い気はしない。
あたしはカーディガンの袖を口元に持っていった。
「それで、あの。生で聞かせてもらえませんか」
来た。歌ってと言われたら冗談でそらすのが、中学からのあたしのやり方だ。
断る冗談を頭の中で探す。今日はなかなか見つからない。
とりあえず、呼び名の話に逃げた。
「だから、ギターボーカルは職業の名前なんだって。履歴書に書くやつ。歌う人って意味じゃないの」
「でも、歌ってましたよね。切り抜きで」
引かない。まっすぐな敬語で、まっすぐ見てくる。
あたしは窓ぎわの海歌を見た。
海歌はスマートフォンを膝に置いて、空いた手のひらを胸の高さに上げてみせた。毎晩、向かいの家の窓から歌の高さを教えてくれる手のひらだ。
あたしはギターのシールドをアンプに差して、首の紐からピックを外した。自分の声で歌うときだけ使うピックだ。
知らない人の前で、ダンジョンの外で歌うのは初めてだった。
弾き始めたのは、毎晩窓越しに歌ってきた、低い声の歌手の古いゆっくりした曲だ。
前奏の4小節で、腰の下のアンプが鳴る。
歌い出しで、喉がいつもの低い所に下りた。
かすれた声が、部室の古いカーペットに吸われていく。
新入生は戸の前に立ったまま動かない。スマートフォンを握った手が、胸の前で止まっている。
窓ぎわで、海歌の手のひらがあたしの声に合わせて上がり、下がる。
西日が入って、マイクスタンドの影が床に長く伸びていた。
あたしは最後の和音まで、自分の声のまま歌いきった。
弦の響きが消える。
新入生はしばらく口を開けたままだった。
「……すごい。低い所でかすれるの、切り抜きだと聞こえなかったです。あそこがいちばん好きです」
新入生は自分の胸の真ん中を手で押さえた。
窓ぎわの海歌は、手のひらを上げたまま笑っている。下ろすのを忘れているみたいだ。
かすれは、あたしの声でいちばん嫌いな所だ。返す冗談が出てこない。
「あの、もう1曲いいですか。海歌先輩が歌ってた『泡にならない』も聞きたいです。昔の貝殻ラジオのライブ動画で見て」
左手が、前奏の最初の形のまま止まった。
あの歌を海歌の歌い方で歌えば、チョーカーに取られた海歌の声で歌うミナモと同じになる。ミナモは顔を出さない歌い手だ。
自分の声で歌えば、今度は海歌の歌を、あたしが取ってしまう。
どっちの声で歌っても、あの歌はまだ歌えない。
「あれは門外不出。貝殻ラジオの秘伝だから、仮入部の子には早いの」
「えー……」
新入生は残念そうに眉を下げる。それ以上は頼んでこない。
あたしは止まっていた左手を動かして、別の曲の速いリフを弾いた。歌は付けない。ギターの話なら、冗談はいらない。
弾き終わると、新入生は拍手をしてから、窓ぎわの海歌とあたしを見比べた。
「じゃあ、海歌先輩がのどを休んでいる間は、ギターボーカルさんがボーカルなんですね」
休んでるんじゃない、出ないの、と言いかける。
口の中で止めた。それを言えば、海歌の声が出ない話を、この子の前で始めることになる。
ギターボーカルさんがボーカル。その並びが、思ったより耳に残る。
海歌のほうは見なかった。
あたしは立ち上がって、胸を張った。袖から出た指先で、自分を指す。
「そう。何を隠そう、あたしがボーカル」
大げさに言った。本気にする人なんかいない言い方のつもりだった。
新入生の顔がぱっと明るくなる。
「やっぱり! ボーカルの先輩に教わりたいです。金曜も来ていいですか」
あたしは海歌のほうを向いた。
いつもなら、ここで海歌のボケが来る。
来ない。
海歌は笑ったままだった。あたしへのボケは打たずに、スマートフォンを膝の上に下ろす。
画面をメッセージに切り替えて、誰かへの文を親指だけで打ち始めた。
新入生は、笑い声の続きみたいな顔で、あたしの返事を待っていた。
「……うん。また、おいで」
まずい、と思った。何がまずいのか、自分でもまだ分からない。
新入生は頭を下げて帰っていく。
さっきのは冗談だから、と言いかけて、あたしはピックを紐に通し直した。言い直すほうが、本気だったみたいになる気がした。
アンプを離れて、海歌の隣の椅子に座る。
しばらくして、海歌の親指が止まる。
宛先は、海歌が慕っている年上のミュージシャンの、灯子さんだった。
画面には、海歌がさっきから打っていた、あたしのことを書いた文が並んでいた。
灯子さん、聞いてくださいよぉ。1年生の子が、心音の歌を聞いて部室に来てくれました。
心音、あたしがボーカル、って言いました。
さっき口から出たばかりの冗談が、海歌の字になっている。
海歌はそのまま送信を押した。
あたしは何も言わなかった。
すぐに、海歌のスマートフォンが短く震える。
よかったね、海歌ちゃん。日曜に、お祝いを持っていくね。
灯子さんから返事が届いた。




