第4話 声のない歌と、真ん中に届かない針
ちいん、と海歌のスマートフォンが鳴った。水曜の配信の録画に残った、スライムの魔石の音だ。
あたしの膝の上で、チューナーの針が真ん中へ跳ねた。
海歌はそこで録画を止めた。今日の練習では、針の真ん中が魔石の高さになる。
「水曜の音、わざわざ切り取っといたの? 本気すぎでしょ」
海歌は答えないで、左の手のひらを胸の高さに上げた。
海歌の手のひらが上がると、あたしの声も上がる。下げられれば、声も下へ。
「手のひらの高さに声を合わせろって、あたしは犬か」
金曜の放課後の、軽音部の部室。アンプに座ったあたしの正面で、海歌が左の手のひらを宙に浮かせている。ツッコミでスライムを割ってから、2日がたった。
海歌の歌い方をまねて、手のひらの高さを出す。
チューナーの針は、真ん中のわずか手前で止まった。
海歌のスマートフォンが、打ってある言葉を読み上げた。
[もっと下]
「その声で真面目に言われると、笑いそうになるんだけど」
海歌は笑わない。手のひらは同じ高さで待っている。
下げても、上げ直しても、針は同じところで止まる。
「いや、なんでそこで止まるの」
ツッコんだ瞬間、針が真ん中に立った。
宙にあった海歌の手のひらがぴたりと止まる。
針はすぐに、また手前へ戻った。
「……今のは、たまたま。ツッコミで割れたスライムのもたまたまだからね」
海歌は手のひらを下ろした。
スマートフォンを握ったきり、何も打たない。
いつもなら、とっくに読み上げが飛んでくる間だ。
親指が一度だけ画面に下りて、止まる。それから、ゆっくり文字を打った。
[割れないのは、高さがほんのちょっとずれてるから]
それだけ打つのに、ずいぶんかかった。
「ずれって、どっちに?」
海歌は、膝の上のチューナーをちらっと見た。針はさっきの手前で止まったままだ。
[もうちょい下。たぶん]
「たぶんって。教える側の先生がそれ言う?」
海歌は答えずに、手のひらをまた胸の高さに上げた。
ずれなら、直せる。直せるなら、このまま海歌のまねで歌っていればいい。
あたしは少しだけほっとした。
海歌があたしの前にしゃがんで、両手をお腹とわき腹に当てた。
「ちょ、お腹さわんないで。くすぐったいって」
[吸って]
吸うと、お腹とわき腹がふくらんだ。ついでに肩まで上がったらしい。海歌が立ち上がって、両手であたしの肩を上から押さえる。
押さえられたまま吸い直して、ふくらみをすぐにはしぼませずに声を伸ばす。
さっきは途中で揺れて切れた声が、まっすぐ続いた。
こんなに伸びるのか。
「どう。海歌のまね、ちょっとはうまくなった?」
海歌は肩から手を離して、少し間をおいてから親指を立てた。
海歌は歌詞のノートを開いて、あたしの足元に置いた。表紙までシールで埋まった、いつものノートだ。いちばん上に、海歌の丸い字で曲名がある。
泡にならない。
あたしたちの持ち歌だ。詞を書いたのは海歌で、曲はあたしが作った。海歌の声に合わせて作ったから、元のキーは、あたしの声には高すぎる。
自分で作った曲に苦労させられるの、どうなんだろう。
[最初から通して]
海歌は窓の前のマイクスタンドへ歩いて、床の黄色いテープの上に立った。
歌の入りで、手を上げて合図をくれるつもりだろう。
アンプに座ったあたしから見えるのは、海歌の背中だ。波打つ長い髪と、その間からのぞく真珠のチョーカーの留め金。
この背中を見ながら弾くのが、あたしのいつもの場所だった。
今日はあたしが歌う番だ。海歌のまねで。
あたしは前奏を弾き始めた。
4小節。
歌の入りの、一拍前。
海歌の手が、肩から掛けたハンドマイクの布の袋へ行く。
海歌が、小さく息を吸った。
口が、歌い出しの形に開く。
マイクは鳴らない。
読み上げも鳴らない。
声のない歌を、海歌の口だけがなぞっていく。
あたしは、口だけで歌う海歌を見てしまった。
手は止めない。
コードを変えて、次の小節へ進む。声のない海歌の歌に、ギターだけを鳴らし続けた。
サビの手前で、海歌の口が閉じる。
海歌は振り向かずに、しばらく窓のほうを向いて立っていた。
それから、くるっとこっちを向いた。にこにこ笑って、親指を動かす。
[今日のお客さん、ノリ悪いねぇ]
「客、あたししかいないじゃん」
ツッコミの声が、自分でも分かるくらい小さかった。
あたしは入るはずだった歌を、1小節も歌っていない。海歌はそれには何も打たなかった。
少しして、休憩にする。
水を取りに立つと、奥の壁際のドラムセットが目に入った。あたしたちが使う日は、今はカバーをかぶったままだ。バスドラムの上に、あたしたちのバンド、貝殻ラジオの3人で撮った写真が立ててある。
長くは見ないで、ペットボトルだけ持ってアンプに戻った。
海歌はアンプの横の床に座って、動画のアプリを開いた。親指が、おすすめの動画を次々に流していく。
歌の動画だけを、慣れた手つきで飛ばす。
急上昇の一覧で、親指が一拍だけ止まった。
水面に映った女の子を後ろから描いた絵と、ミナモという歌い手の名前。その下に、『新曲、近日公開』の文字。
親指は、何もなかったように次へ動いた。
あたしは何も言わないで、水を一口飲んだ。
急に、海歌が体を起こした。画面をあたしの顔の前に突き出してくる。
バンドのアカウントの、投稿の画面だった。
『ボーカルはのどの休み中! ギターの心音が、明日もダンジョンで配信します。「シモキタ地下ライブ」で検索してね』
「軽っ」
「てか、明日もって決まってんの? あたし聞いてないんだけど」
[土曜だもん。みんなひまな日だよぉ]
「みんなって誰。視聴者、十何人だからね」
海歌はにこにこしたまま、投稿を押した。
「てか、検索してねって。それで誰か来る?」
言い終わる前に、海歌のスマートフォンが短く震えた。
返信だった。
『行きます。のど、お大事に』
その1行を読んだ海歌の笑顔が、一瞬だけ曇った。
すぐに、いつもの顔に戻る。あたしは、見なかったことにした。
返信の主のアイコンは、壁がチラシだらけの、地下へ降りる階段の写真だ。
海歌の目が丸くなった。親指がさっきまでと違う速さで動く。
[この人、いつも最前列にいた人!]
海歌が高校に入ったころから歌ってきたライブハウス、ハコブネの最前列だ。
明日、あたしは海歌のまねで歌う。
ハコブネの最前列の人が聞いている前で。
本日(10/18 (日)) 10話まで一時間ごとに投稿予定です。
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