第35話 ひとりのドラムソロ
アンプにつないでいないギターで、「泡にならない」の前奏を弾いている。
金曜の夜、自分の部屋でベッドに座っている。窓越しの練習が終わって、路地の向かいにある幼なじみの海歌の部屋は、もう暗い。
海歌にボーカルを頼まれた2月の朝に、途中でやめた曲だ。2月から一度も弾いていなかったのに、指は迷わない。
枕もとのスマートフォンの画面の端に、カレンダーの予定が1つ見えている。5月16日の、文化祭のステージに出る申し込みの締め切りだ。締め切りまでに、海歌に返事をすると約束した。
前奏の終わりの、歌が入る手前で、左手が止まった。
海歌の声は、首の真珠のチョーカーに奪われたままだ。奪われた声で歌っているのは、顔を出さない歌い手のミナモだった。
海歌の歌い方をまねて歌えば、あたしも人の声を借りて歌うミナモと同じになる。
自分の低い声で歌えば、海歌がずっと歌ってきた歌を、あたしが横から取ってしまう。
鳴りかけた弦を手のひらで押さえた。弾くのは得意な手のくせに、ここで止まるのだけは毎回うまい。
海歌の声でもあたしの声でもないなら、「泡にならない」は誰の声で歌えばいいんだろう。
答えは出ないまま、ギターをベッドの脇に立てかけた。
◇
次の日、土曜の朝に、あたしと大鼓は下北沢ダンジョンの第11層の広場を奥へ歩いていた。
白い石の洞窟で、高い天井から水の滴る音がする。大鼓の後ろのポケットでは、スティックが2本揺れていた。片方には縦のひびが入ったままだ。
買い替えなよと何度言っても、返事は毎回「まだ叩ける」だった。
春休みに2人で潜れたのは、何日かだけだった。
「1日でいくら家に入れられるか、先に確かめる」
大鼓がそう決めたので、その何日かも、広場の手前でホブゴブリンを倒して回った。その分、2人ともレベルは21のままだ。
倒し方は決まっている。ギターの一音で胸の魔石の高さを探し、同じ高さをあたしの声で歌えば、魔石が割れる。
新学期が始まって、今日は初めて第12層への階段を目指す。協会のサイトにある層の案内では、階段は第11層の奥の、広い洞の先だ。広場の奥に通路は2本あって、洞へ抜けるのはそのうちの1本だけらしい。
「下の層ほど、魔石は高い」
「知ってる。一緒に読んだじゃん」
あたしが下りたいのは、魔石の値段のためじゃない。海歌のチョーカーを壊せる物は、深い層で出ることが多いと聞いた。
5月16日より前に海歌の声が戻れば、申し込み用紙のボーカルの欄は、海歌の名前のままで済む。
そんなにうまくいかないことくらい、分かってはいる。
腕のスマートフォンで配信を始めた。題は、〔下北沢ダンジョン〕第12層まで行ってみる、にした。
土曜は部活の日なので、海歌は部室で配信を見ている。海歌の打ったコメントは、読み上げの声になって、あたしの片耳のイヤホンに届く。
『今日は12層?』
『ギターボーカルさん来た』
洞へ抜けるほうの通路へ入ると、すぐに細長い一本道になった。
その両側の壁ぎわに、大猿が座りこんでいた。
ゴリラほどの体で、岩を投げてくる猿だ。2月に第10層で倒した中ボスと同じ大猿が、ここでは9頭も並んでいる。真ん中には、人がやっと通れる幅だけが空いていた。
右を見ても左を見ても、大猿ばかりだ。
案内によると、大猿の群れの居場所は日によって変わる。
よりによって今日は、階段へ抜けるほうの1本にいた。
『ゴリラ多くない?』
『9頭いるぞ』
あたしはギターを構えた。
いちばん手前の大猿の胸へ、ギターの一音を当てる。
腰のアンプから音が出た瞬間、その大猿が足もとの岩をつかんだ。
岩が飛んできた。
頭のすぐ横の壁で岩が砕けて、かけらが頬に当たる。
あれが1つでも当たれば大けがだ。
9頭の頭が一斉にこっちを向いた。
『岩投げた!』
『今の当たってたら終わり』
『全員こっち見てる』
自分から、ここにいますと手を挙げたようなものだった。
ここで眠りの歌を歌っても、群れが眠りこむ前に9頭分の岩が飛んでくる。2人で殴りかかっても、9頭を倒し切る前に潰れるのはこっちだ。
群れがどくのを待とうにも、いつ動くかは誰にも分からない。ドローンの電池は、1回で2時間しかもたない。
これは詰んだ。
「俺が叩く」
大鼓があたしの前に出た。
宙にドラムを出して叩く技の、《グルーヴ》だ。腰の高さに浮かんだドラムが、大鼓をぐるりと囲んだ。
スティックがスネアを叩き始める。
叩き始めの大きな音へ、手前の大猿が2頭、続けて岩を投げた。
大鼓は叩く手を止めない。最初の岩は肩の横を抜けて、後ろの壁で砕けた。
続けて来た岩を、大鼓は右のスティックで打ち返した。
スティックで岩を打ち返すドラマーなんて、聞いたことがない。
乾いた木の音に、裂けるような音が混じる。打ち返したのは、ひびの入っていたほうのスティックだった。
縦のひびが、さっきより長く伸びている。
あのスティックで次の岩まで受けられるとは、あたしには思えない。
『打ち返した!?』
『野球かよ』
『ドラムの人何者』
大鼓はひびの伸びたスティックのまま、同じビートを叩き続けた。
何小節か続いたころ、いちばん手前の大猿が、ビートに合わせて胸を叩き出した。
隣の1頭が続き、その隣も続く。
9頭分の胸の音が、大鼓のビートにそろった。両手が胸でふさがって、頭の上を飛んでいた岩が、やっと止まる。
あたしは、止めていた息を吐いた。
『ゴリラがノッてる』
『全員ドラミングしてる』
息を吐いたら、別のことが頭に浮かんだ。
あたしは大鼓の背中に、小声で言った。
「ねえ。今なら1頭ずつ割れる」
近くで高さを鳴らして歌えば、9頭とも順に割れる。
岩を呼んだ失敗の一音も、声で割って見せれば帳消しになる。
大鼓は叩く手を止めないまま、両側の群れと通路の奥を見比べた。
少しのあいだ、ビートだけが通路に続いた。
「割らない。通る」
大鼓は自分でそう言って、前を向いた。
「心音のギターと声が足されたら、俺のビートが崩れる。崩れたら、群れは胸を叩くのをやめる。また岩が来る」
「……うん」
「ギターも声も止めてくれ」
ちょっとかっこいいのが、腹立つ。
大鼓は叩きながら歩き出した。宙のドラムは、その歩幅のまま付いていく。
あたしは弦に手のひらを当てて、鳴らないように押さえた。口も結んで、大鼓の背中のすぐ後ろを歩く。
両側の壁ぎわで、9頭の大猿が大鼓と同じビートで胸を叩いている。その真ん中を、真顔の大鼓がドラムを叩きながら進んでいく。
いや、なんで全員、大鼓と同じノリで胸叩いてんの。
喉まで出かかったツッコミを、あたしは歯の裏で止めた。
『ドラムの人のソロ始まった』
『9頭ともリズム感いいな』
『ギターボーカルさん無言』
『この絵面なに』
通路の半ばまで来たときだった。
左の壁ぎわで、いちばん大きい大猿の胸の音が速くなった。
大鼓のビートとは合わない、自分の叩き方だ。
すぐ隣の大猿が、そっちの速さへ引っぱられた。その隣も引っぱられる。胸の音が2つに分かれて、通路の壁にばらばらに響いた。
引っぱられた1頭の手が胸から離れて、足もとの岩へ伸びていく。
『隣のゴリラまでつられてる』
『音ずれてる』
『やばいって』
2月の第10層の広間でも、大猿の胸の音に、大鼓のビートが引っぱられて止まった。あの日の大鼓は、飛んできた岩を肩に受けて膝をついた。
止めて、と言いかけて口を閉じる。
大鼓は一度だけ、速い音のほうへ顔を向けた。
それから前へ向き直って、自分のビートを叩く。
スネアの音が、一打ごとに硬く大きくなっていく。膝で鳴らすバスドラムが、あたしの足の裏まで響いた。
通路でいちばん大きい音は、もう大鼓のドラムだった。
『ドラムの人の音でかくなった』
『負けるな』
岩へ伸びていた手が止まった。
その手が胸へ戻って、大鼓のビートで叩き出す。
隣の1頭が戻った。その隣も戻った。
分かれていた胸の音が、1頭ずつ大鼓のビートへ寄ってくる。
最後まで残った速い音が、少しずつ遅くなった。
いちばん大きい大猿が、大鼓のビートで胸を叩いた。
イヤホンに届いた部室の海歌の読み上げが、子どものころの呼び方で大鼓を呼んだ。
[だいちゃん]
『戻った!』
『ゴリラ全員そろった』
『ソロで群れ黙らせた』
『ドラムの人かっこよすぎ』
『鳥肌立った』
あたしたちは胸を叩く群れの間をそのまま抜けて、通路の出口まで来た。
大鼓は振り返らずに叩き続けた。後ろの胸の音が聞こえなくなってから、やっと手を止めて、宙のドラムを消す。
大鼓は肩で大きく息をしている。
「ソロ、長すぎでしょ」
『ソロ何分あった?』
『ドラムの人おつかれ』
ギターも歌もなしで、大鼓のドラムだけを長く聞いたのは、3人のバンドを大鼓が抜けてから初めてだった。
そう思ったけど、口には出さなかった。
あたしが今日鳴らしたのは、岩を呼んだ一音だけだ。
通路の先は、天井の見えない広い洞へ開いていた。
その上のほうから、長い遠ぼえが響いた。
遠ぼえは洞の壁に跳ね返って、なかなか消えない。
『今の何の声』
『階段の手前、なんかいるぞ』
ほえたのが1匹だけなら、まだいい。
別の方角から、それに答える遠ぼえが返ってきた。




