第30話 手のひらで止める
協会のロビーの隅で、あたしと海歌に気づいた大鼓は、何も言わずに入口の自動ドアのほうへ向き直った。
三角巾で左腕をつったまま、見なかったことにして帰る気らしい。
あたしはロビーの隅から出て、早足で大鼓の前に回った。
「『家の用事。今日は行けない』って、あれ何」
大鼓が足を止める。制服に重ねた深緑のパーカーの上で、三角巾の白がやけに目立つ。
「テストの日に、片手で潜って小さい魔石を売るのが、家の用事?」
「心音には関係ない」
大鼓はそれだけ言うと、あたしをよけて自動ドアへ歩き出した。
関係ないで片づけられるほど、あたしたちは浅い付き合いじゃない。
「なんで1人でって、あたしには怒ったくせに」
思ったより大きい声が出た。近くの長椅子の人が顔を上げたけど、もう止められない。
あたしは大鼓の背中を追って、もう一歩踏み出した。
「あんたも言わなかったじゃん」
大鼓が歩くのを一歩ぶんだけ遅らせた。それだけだった。次の一歩は、いつもの幅でロビーの床を踏む。
聞こえたのに止まらない。聞こえないより、そっちのほうがずっと腹が立つ。
自動ドアまで、あと5歩しかない。
あたしの横を、水色のカーディガンが走り抜けた。
海歌だ。長い髪を揺らして大鼓を追い越し、自動ドアの手前でくるりと振り返る。
海歌が大鼓の胸の前に手のひらを上げた。
スマートフォンを握ったもう片方の手は、下ろしたままだ。
海歌の手のひらの前で、大鼓が止まった。
声の出ない海歌を、大鼓は押しのけたりしない。海歌の後ろで、自動ドアが半分だけ開いて、また閉じる。
あたしは、海歌の3歩後ろで突っ立っていた。去年の春に大鼓がバンドを抜けたとき、あたしは理由を一度も聞かなかった。
◇
大鼓は自動ドアに背を向けて、さっき2,130円を受け取った買い取り窓口の隣の休憩所へ歩いた。
自動販売機の横の壁に、大鼓は背中をつけた。あたしと海歌はその前に並んで立つ。海歌の手のひらは、胸の前に上がったままだ。
大鼓は右手で太ももを叩きかけて、1つ目で止めた。落ち着かないときのいつもの癖なら、4つ叩いて数えるところだ。
大鼓は一度だけ、ロビーの向こうの自動ドアへ目をやった。黙っていれば、まだ歩いて帰れる距離だ。
それから大鼓は、海歌の手のひらに目を戻した。
「去年の春、父が仕事でけがをした」
大鼓は、そこで一度口を閉じた。
海歌は手のひらを下ろさずに待っている。遠くで、番号札の呼び出しの音が1つ鳴った。
「働けなくなった。だから、ドラムをやめた」
海歌は、上げた手のひらを一度だけ小さく震わせた。
「……なんで、言わなかったの」
あたしの声は、さっき大鼓の背中に怒鳴ったときの半分も出なかった。
「言えば、心音も海歌も気にする」
大鼓は一度だけ、ポケットから出ているスティックの頭に指を置いた。
「気にされたら、ドラムをやめられなかった」
大鼓の声はいつもどおり短かった。
「父は、どこにも雇われてない一人親方の職人だ。けがで休んでも、どこからも金は出ない」
「うん」
あたしには、相づちしか打てない。
「うちは、俺が一番上だ。だから、俺が稼ぐと決めた」
大鼓は、あたしでも海歌でもなく、自動販売機の明かりを見ていた。
「2月の家の用事は、大猿に腕を切られる前までは本当だ。父の病院の付き添いだった」
あたしは、三角巾の腕から目を離せなかった。
「そのあとは」
「同じ『家の用事』を送って、1人で潜ってた」
大鼓は三角巾の左腕を、少しだけ持ち上げてみせた。
「浅い層なら、片手でも稼げる。それで全部だ」
あたしの口から最初に出たのは、ひどい一言だった。
「ばかじゃん」
大鼓は、うなずきもしないし、言い返しもしない。
「気にするに決まってるし。今、めちゃくちゃ気にしてるし」
ほかにも言いたいことがあったはずなのに、出てきたのはそれだけだ。肝心なときほど、ツッコミしか出てこない。
売店の下級ポーションは、1本3万円する。
海歌が手のひらを上に向けて差し出すので、あたしは財布から1万円札と5千円札を抜いて乗せた。残りの半分は、海歌が自分の財布から出すつもりなんだろう。
海歌は売店へ、早足で向かった。大鼓は壁に背中をつけたまま、その後ろ姿を見ていた。出口のほうへはもう一歩も動かない。
戻ってきた海歌は、小さな瓶を大鼓の前に差し出した。ガラスの中で、薄い緑の薬が揺れている。
「俺には要らない」
大鼓が右手で、瓶をそっと押し返す。顔はいつもどおり動かないのに、押し返す手つきだけがやけに丁寧だ。
「2人に、迷惑をかける」
この期に及んで、まだそれを言う。腕をつったままテストの日に潜っていたほうが、よっぽど迷惑だと思う。
海歌は瓶を差し出したまま、もう片方の手のひらを胸の前に上げた。自動ドアの前と同じ高さだ。大鼓はしばらく、瓶ではなく、その手のひらのほうを見ていた。
大鼓は、海歌の手からポーションの瓶を受け取った。
栓を開けて一息で飲み、首から三角巾を外す。包帯をほどくと、左腕の切り傷が、見ている間に端から閉じていった。肩の打ち身も痛まなくなったのか、大鼓は左の肩を一度ゆっくり上げ下げした。
高いだけのことはある。2週間以上も首から下げていた三角巾は、何だったんだろう。
数分で、腕には赤い線が1本残るだけになった。
大鼓は治った左手を握って開き、その手で太ももを4つ叩いた。
ばん、ばん、ばん、ばん。
腕をつってからの大鼓が鳴らしていたのは、右手で太ももを叩く小さな音だけだった。この強さの4つは、第10層の大猿に腕を切られてから初めてで、休憩所の外まで聞こえたと思う。
うるさい。今日だけは許す。
「じゃあ、これからは2人で潜るから」
大鼓が、自動販売機の明かりからあたしへ目を移した。
「片腕で1人で潜ってたの、あたし、まだ怒ってるからね」
「分かった」
「分かってない顔じゃん」
大鼓はいつ見ても、だいたいこの顔だ。
「春休みになったら、第11層に行く。1人で浅い所を回るより、2人で下りたほうが稼げるでしょ」
大鼓は黙っている。あたしはもう半歩前に出た。
「魔石は、あたしが歌で砕く」
ギターで魔石を震わせて同じ高さで歌えば、石はひびが入って割れる。
言い切ってから、声の大きさに気づいた。休憩所の椅子の人が2人、こっちを振り向く。歌の話を笑ってごまかしてきたあたしが、その声を人前で売りこんでいる。
相手が大鼓なら、この声を笑わない。それだけは昔から知っている。
「それに、海歌の声を取り戻せる物も、深い層のほうが出るって聞いたし。もっと下に行くなら、強くならないと」
隣の海歌は、黙って聞いていた。手のひらは、もう上がっていない。
「協会のサイトに、冒険者はLv20になると職業が変わるって書いてあった。今より強いほうの職業に。第11層なら、20まではすぐでしょ」
大鼓は真顔のまま少し黙ってから、口を開いた。
「第11層のホブゴブリンの魔石は、うずらの卵ぐらいある」
「うずら」
「うずらの卵だ。鶏の卵より小さい」
「知ってるし。そこじゃない」
「今日売ったのは、米粒だ」
大鼓は買い取り窓口のほうへ目をやった。
「1つで、今日の俺より高い」
自分の1日を魔石1つと並べて、顔色ひとつ変えない人を、あたしは初めて見た。
「行く」
さっき出口に目をやったときより、ずっと早い返事だった。
「やった。じゃあ、稼いだ分は全部、大鼓んちに入れていいし。あたしは別に――」
「半分ずつだ」
大鼓が、あたしの言葉の途中にかぶせてきた。
「でなければ、行かない」
「いや、でも、大鼓んちのほうが」
大鼓は治ったばかりの左手で、太ももを1つだけ叩いた。
「半分ずつだ。でなければ行かない」
一字も変えずに、もう一回言った。家の用事のメッセージと同じで、コピペかよ。
ポーション1本を受け取るのに、あれだけかかった人だ。お金を受け取るのは、もっと下手らしい。
隣で海歌が、口の端だけで笑った。
大鼓は一度だけ、地下へ降りる階段のほうを見た。
「テストの結果が出るまでは、潜らない。心音も、俺もだ」
「は?」
「成績が落ちたら、学校に潜るのを止められる。止められたら、稼げない」
あたしを叱ったときと同じ、年上の顔だった。
「いや、それ言うなら、大鼓だってテスト中に」
そこまで言って、やめた。言い返すネタだけは人より速く出るのに、今日は出したそばから引っこめてばかりいる。
大鼓は外した三角巾を丸めて、パーカーのポケットに押しこんだ。
「春休みは、心音と2人で第11層だ。2人で稼ぐ」




