第28話 5月16日までに
向かいの窓から、海歌のスマートフォンが、海歌の打った文を渋いおじさんの声で読み上げてきた。
[おはようございます、三浦様。こちらは、向かいの家のモーニングコールでございます]
「いや、頼んでないし」
[なんちゃって]
「てか、その声どこで見つけてくんの」
[読み上げの声48種類の中から、厳選いたしました]
2月24日の振替休日の朝、向かいの窓が開く音がしたので、あたしも自分の部屋の窓を開けた。
路地を挟んだ向かいの2階で、海歌が2枚ある窓ガラスの片方を開けて、スマートフォンを掲げている。腰まである長い髪は、まだ寝ぐせのままだ。窓と窓のあいだは、自転車1台がやっと通れる路地の幅しかない。
声の出ない海歌は、いつもこうして話す。今日の声は、ホテルのフロントにいそうな感じだ。
厳選した結果がこれなら、残りの47種類が気になる。
渋くて低い声なら、あたしの地声でも間に合う。ちっともうれしくないけど。
ゆうべ、海歌はこの窓越しに手のひらを上げた。窓越しの歌の練習を始める合図で、手のひらの高さが、あたしの歌う音の高さになる。
あたしは、その手のひらに合わせて歌わなかった。
帰り道に、どうしたの、と打たれたのにも、まだ答えていない。
海歌は、ゆうべのことを1文字も打ってこない。たぶん、気まずくなる前に、ボケで先に埋めておくつもりだ。
こういうのは、幼稚園のころから海歌のほうがうまい。
海歌はスマートフォンを窓枠に置いて、胸の高さに手のひらを上げた。
ゆうべと同じ高さだ。今朝は、断る理由が見つからない。
あたしはベッドの脇からギターを取って、窓ぎわの床に座った。
考えるより先に、左手で「泡にならない」の前奏を押さえていた。海歌が詞を書いて、海歌の高い声で歌ってきた、あたしたちのバンドの持ち歌だ。
何年この前奏を弾いてきたと思ってんだ、この手は。いや、あたしの手だけど。
窓の向こうで、海歌が手のひらを少し上げた。「泡にならない」の歌い出しの高さだ。
息を吸いかけて、止めた。歌い出しの前の小さい吸い方まで、勝手に海歌のをまねている。
あたしは前奏をやめて、首から紐で下げたピックを外した。紐から外すのは、自分の声で歌うときだけだ。
そのピックで弾き始めたのは、別の曲だった。低い声の歌手が歌う、古いゆっくりした曲だ。元のキーのままで、あたしの声の高さにちょうど合う。
窓を開けたままだから、路地を誰かが通れば、人に聞かせたくないあたしの低い声が丸聞こえになる。
それでも、低い声のまま歌い出した。
海歌は手のひらを上げたまま、一拍動かなかった。それから、その手のひらを、あたしの声の高さまで下ろしてくる。
よかった。ゆうべ返せなかった分は、これでちゃらだ。
最後の和音を鳴らし終えると、海歌はほっとした顔で、肩からすとんと力を抜いた。
大猿と戦った日の録画を部室で見たときと、同じ顔だ。
なんでほっとしてんの、とまた聞きかけて、やめた。どうせまた[なんでだろ]で終わる。
海歌は手のひらを下ろして、部屋の奥へ引っこんでいく。
「おーい。練習を始めたの、そっちなんだけど」
返事はない。
次のボケの小道具でも取りに行ったんだろう。たぶん鼻眼鏡あたりだ。
海歌は紙を1枚持って、窓ぎわへ戻ってきた。
その紙を、閉めてあるほうの窓ガラスに、内側からぴたりと押し当てる。
ボケの小道具にしては地味すぎる。
「なに、文化祭の申し込み? 締め切り、まだずっと先じゃん」
海歌は返事を打たない。
路地を挟んだくらいの近さなら、海歌の字は読める。部室で海歌が書くのを、あたしも横で見ていた用紙だ。
ボーカルの欄には「有村海歌」とある。
海歌は人差し指で、その名前を2回たたいた。
それから海歌は指を名前から離して、路地越しにあたしへ向けた。空いたほうの手で、窓枠のスマートフォンを取る。
[ボーカル、心音が歌って]
モーニングコールと同じ、渋いおじさんの声だった。
用紙の名前のすぐ前に、「三」の字を書きかけて消した跡がある。部室で海歌があたしの名字の「三浦」を書きかけて、やめた所だ。
あたしは次の読み上げを待った。
ボケのあとにいつも付く[なんちゃって]が、いつまでたっても来ない。
すぐには息が吸えなかった。
「どうもー。男子みたいな声のボーカル、三浦でーす」
気づいたら、あたしは声をわざと低く落としていた。マイクを握るふりをした右手を、口もとへ持っていく。
「ほら、文化祭の客席、絶対ざわつくって。あのボーカル男子? って」
海歌は笑わなかった。
用紙も窓ガラスから下ろさない。用紙の端を押さえた指先が、白くなっている。
ガラスの向こうから、海歌はまっすぐこっちを見ていた。
「……え。笑ってくんないの」
中学の音楽の時間に歌って、男子みたいと笑われた日から、歌の話はこの冗談で流してきた。誰かが笑えば、それで終わる話だった。
まずい。
冗談が通じないと、あたしには次の手がない。
外したままのピックが、手の中で汗ですべる。
あたしは窓枠に手をついて、路地のほうへ少しだけ身を乗り出した。
「5月16日の締め切りまでに、ちゃんと答えるから」
海歌は用紙を押さえたまま、目を見開いた。
言い終えてから、あたしはもう一言だけ足した。
「今ここで答えたら、また変な声でごまかしそうだし」
自分で言っておいて、耳が痛い。
用紙の端を押さえていた海歌の指先に、少しだけ色が戻った。
海歌は窓ガラスから用紙をはがして胸に抱え、一度だけ大きくうなずいた。
海歌は親指で短く画面を打つ。
[待ってる]
渋いおじさんの声のまま、読み上げはそれだけ言った。
ホテルのフロントのおじさんに、締め切りつきの宿題を出された気分だ。
海歌は窓を閉めた。カーテンは開けたままにしてある。
ゆうべ閉まったカーテンを見て一晩すごしたのより、だいぶましだ。
あたしも窓を閉めて、歌うときに外した首のピックを紐に戻した。
戻したピックを指でつまんだまま、反対の手でスマートフォンのカレンダーを開く。
5月のページの16日に予定を1つ入れて、題は打たずに、空欄のまま保存した。
歌うとも、歌わないとも、まだ決めていない。
5月16日までは81日あった。




