第25話 ボーカル、有村海歌
[ただいまより、Dランクに上がったお祝いの式を、とりおこないます]
「いや、上がったの1週間前だし」
部室に響いたのは、やたら重々しい男の人の声だった。
海歌の読み上げのアプリには声が48種類あって、今日選んだのは、卒業式の司会でしか聞かないような声だ。防音のかわりに古いカーペットを貼った部室の壁に、まったく似合っていない。
第10層の中間ボスの大猿は、あたしと大鼓の2人で倒した。
大鼓は今、左腕を三角巾でつって、アンプの横のパイプ椅子に座っている。式の主役の片方なのに、顔はいつもどおり少しも動かない。
中間ボスを倒してから、大鼓の腕のせいで、あたしたちは一度も潜っていない。式が遅れたのも、たぶん同じ理由だ。
海歌のチョーカーのことで、協会の調査員のルーペさんに聞いて返ってきた2通の返事も、あたしのスマートフォンに届いたままだ。
明日の祝日にルーペさんが下北沢の協会へ来ることは、3人とも口にしない。言えば、せっかくの式の空気が終わってしまう気がする。
[式を終わります。続いて、録画の見直しです]
海歌は自分のスマートフォンを部室のスピーカーにつなぎ、大猿と戦った日の配信の録画を開いた。
画面の隅に、配信サイトが『この配信を「音楽」のカテゴリにも追加しませんか?』とすすめる表示を出している。
「いや、猿と戦ってる回なんだけど」
「俺は叩いていた。音楽で合っている」
「猿の膝をね」
海歌は表示を指で払って、再生を押した。
録画の中のあたしが、広間の手前で首のピックを外す。ギターが鳴って、歌詞のない低い声がスピーカーから部室に流れた。画面の端では、まだ腕をつっていない大鼓が、大猿の前でスティックを構えている。
あの日の大鼓のほうが、今の大鼓より元気そうに見えるのが、なんだか変な感じだ。
低くても、これはあたしのいつもの声だ。
録画のあたしがその低い声のまま次の節へ入ったとたん、海歌の肩からすとんと力が抜けた。
録画はまだ、大猿の魔石が割れるずっと前の所だ。
「なんでほっとしてんの」
海歌の親指は画面の上で止まり、少し間があった。
[なんでだろ]
それだけだった。
海歌はすぐに録画を先へ送った。大猿が胸を叩き始めて、録画のあたしの声が上ずっていく。
そこで海歌は指先で画面をとんと叩いた。声が音程からずれた所を、海歌はいつもこうやって指で教える。
「分かってるって。胸の音がうるさくて、自分の声が聞こえなくなんの」
海歌はもういつものコーチの顔に戻っている。
◇
海歌が立ち上がり、マイクスタンドの横で、歌って、と手のひらを胸の前に上げた。
声の出ない海歌は、手のひらの高さで歌の高さを教える。
あたしはアンプに座り直して、「泡にならない」の前奏を弾いた。
歌は海歌の歌い方でなぞる。歌い出しの前の小さい息も、サビ前の半拍の溜めも、海歌のとおりに入れていく。中学のころからずっと後ろで聞いてきた歌い方だから、なぞるだけなら迷わない。
大鼓がつっていないほうの右手で膝を叩いて、4つずつ数え始めた。三角巾の中で、左の指までつられて動いている。
「左は禁止」
「動いていない」
「動いてた。指が」
「分かった。右だけにする」
最初から右だけの約束だったはずだ。
Aメロの終わりで、海歌が片手で画面を打った。
[大猿の日の声で]
手のひらがすっと下がりかける。録画と同じ低い声で歌え、という合図だ。
「これは海歌の歌だから」
それだけ言って、あたしは海歌の歌い方のまま、次の節に入った。
手のひらは下がりきる前に止まった。もう一度下げてくるかと思ったのに、海歌はそれきり、元の高さに手のひらを置いたままだ。
2番に入ったところで、海歌がマイクスタンドの首をつかんだ。
窓の前の床には、ボーカルの立つ所の印に、「うみか」と書いた黄色いテープが貼ってある。その上から、海歌はスタンドを持ち上げた。
重たい足を床から少し浮かせたまま、アンプに座るあたしのほうへ運んでくる。スタンドからアンプまでは、1歩半しかない。
海歌がこっちへ1歩出た。
あたしの前まであと半歩の所で、海歌の手が止まった。
手を伸ばせば、マイクに届く近さだ。
あたしは歌を止めなかった。2番の歌詞が口から出ていくあいだも、目だけはずっとスタンドを追っていた。
海歌はスタンドの向きを変えて、窓のほうへ戻っていく。運んできたときより、ずっとゆっくりだ。
「うみか」のテープの上に、マイクスタンドがそっと置き直された。
置いたあとも、海歌の手はスタンドの首から離れない。
運んできたのも、戻したのも、同じ手だ。どっちが海歌の本気だったのか、歌いながら見ていても、あたしには分からなかった。
◇
最後の音を切ると、海歌はホワイトボードの前に立った。
ボードには、顧問の角ばった字で『文化祭 ステージ出演の申し込み 5月16日まで』と書いてある。
海歌は脇のクリップから申し込み用紙を1枚抜き、ボードに押し当ててシャーペンを走らせた。
バンド名の欄に、「貝殻ラジオ」。中学のころに3人で組んだ、あたしたちのバンドの名前だ。
ギターの欄に、「三浦心音」。
ボーカルの欄で、シャーペンが動き出した。上のギターの欄と同じ書き出しで、横に1本。
もう1本。
三浦の三の字だ。
そこで手が止まった。
海歌は筆箱から消しゴムを出して、2本の線を消した。消したあとの欄に、自分の名前を書く。
ボーカルは有村海歌のままだ。
ドラムの欄で、手がまた止まった。今度は何も書かないまま、シャーペンが紙から離れる。
海歌は用紙を上から順に、スマートフォンへ打ち込んだ。式の司会と同じ声が、部室に鳴る。
[文化祭の申し込み。バンド名、貝殻ラジオ。ギター、三浦心音]
[ボーカル、有村海歌]
[ドラム]
空いたドラムの欄の所で、読み上げは止まった。
ボーカルの欄に、消しゴムのかすが少し残っている。
あたしはそのかすから目を離せなかった。
海歌がボードの前で振り返る。消しゴムのかすの残る用紙を胸に当てて、もう片方の手のひらを上げる。
あたしはギターを鳴らし、サビの頭を海歌の歌い方で合わせた。上がった手のひらの高さに、声はちゃんと届いている。
大鼓の右手は、いつの間にか膝の上で動かなくなっていた。その目が海歌の胸の用紙の、空いたドラムの欄に落ちて、窓のほうへそれていく。
奥の壁ぎわの、カバーをかぶったドラムセットには、一度も目を向けない。前からそうだ。
ボードの隅の、文化祭までの日数の所に、西日が届いていた。残りは203日だ。
海歌はその数字を見上げて、指先で首の真珠のチョーカーに触れた。
今夜は土曜だから、21時になればミナモがまた生配信で歌う。使うのは海歌の声だ。
[協会のルーペさんの返事、もう1回見せて]
あたしはスマートフォンを渡した。
海歌は2通を、指で行ったり来たりしながら読み直した。何度読んでも、中身は変わらない。あたしもこの何日かで、同じ2通を何回も読んでいる。
胸に当てたままの用紙の端が、海歌の手の中でくしゃりと曲がった。
海歌はあたしのスマートフォンを返すと、アンプに座るあたしの横にしゃがんだ。こっちを見ないまま、自分のスマートフォンを打つ。
[調査員の人に、話していいよ。わたしも行く]
司会の声のまま、読み上げはそう言った。
調査員には会わないで、と打ったのは、海歌のほうだったのに。
「いいの?」
海歌は答えずに、手のひらを1段上げた。歌の続きを促すときと同じ高さだった。
あたしはカーディガンのポケットから、ルーペさんの連絡先の紙を出す。
文面はもう決まっていた。
パイプ椅子の大鼓が首を伸ばして、打ちかけの画面をのぞいた。いつの間にかまた膝を叩いていた右の指が、そこで止まる。
大鼓は何も言わなかった。
あたしはそのまま送った。
明日の祝日、海歌と2人で会えますか。




