第23話 いちばん低い声
膝をついた大鼓の右手が、スティックで太ももを叩き直した。
トン、と軽い音がする。叩き始めの、いちばん軽い音だ。
あたしへ飛んだ岩を左の肩で受けて、大鼓はあたしのすぐ前で膝をついている。広間の中ほどでは身をかがめた大猿が、床の次の岩に手を掛けていた。
大鼓の顔は、短い黒髪の下でこんなときでも動かない。前を向いたまま、痛みでかすれた低い声で言う。
「心音。数える。入ってこい」
太ももを叩く音に合わせて、大鼓が数える。
「ワン、ツー、スリー、フォー」
裂けた袖から手首まで血が伝っているのに、4つはきっちり同じ間で並んでいた。
1人で歌い切ればいい、なんて思ったのは、どこの誰だっけ。
あたしが1人で張り上げた声が、岩を呼んだのに。
『ドラムの人!』
『血出てる』
『また岩つかんでる』
『逃げて』
息を吸って、声を出そうとした。
なのに耳の奥には、さっきの胸を叩く音がまだ低く残っていて、自分の声がどの高さから出るのかがつかめない。
ギターを抱えた腕まで、自分のものじゃないみたいに固い。
迷っているうちに大鼓の最初の4つが過ぎて、大猿の太い指が床の岩に食いこんだ。
次の4つが終わる前に、岩が飛んでくる。
大鼓は数えるのをやめない。
「ワン、ツー、スリー、フォー」
肩で息をしながら、右手のスティックで太ももを叩き続ける。
岩をつかみかけた大猿の手が、そこで止まった。
太い肩がゆらり、ゆらりと揺れ始める。大鼓の数えと同じ揺れ方だ。大猿は岩を放して体を起こし、大鼓が次に1つ目を数えたところで、両手を自分の胸に落とした。
大猿の胸がドンと鳴った。
膝をついた大鼓の太ももと、大猿の胸が、同じ4つを叩いている。
大鼓は大猿を見ないまま、前だけを向いて数え続けている。大猿のほうも真顔のまま、4つ目を叩き終えた両手を、1つ目でまた胸に戻した。
トン、と太ももが鳴ると、すぐにドン、と胸が鳴る。大猿の黒い顔も、大鼓に負けないくらい動かない。
『猿がドラミングしてる』
『猿とセッション始まった』
『猿もドラム担当かよ』
『2人とも真顔なの何』
『岩どこいった』
いや、なんで一緒に叩いてんの。
ついさっき、名前も知らない誰かが『今の胸、ドラムと重なった』と書いていた。あの1件はたまたまじゃなかったんだ。
膝をついても揺れない大鼓のビートを、すぐ目の前で聞かされ続けて、大猿のほうがつられた。
胸を叩いている間、大猿の両手はふさがっている。岩は飛んでこない。
真顔で叩き続ける大鼓と猿の後ろで、あたしだけが顔を引きつらせている。
『ドラムの人、気づいてなくて草』
『前しか見てない』
『猿、ちょっと楽しそう』
ただ、胸の音は前より大きかった。ドン、と鳴るたびに、低い天井と石の壁から同じ音が何重にも返ってくる。
さっき、あたしの声を消したのと同じ音だ。それが今度は止まずに、4つごとに鳴り続けている。
前にも一度、ゴブリンソルジャーの群れの中で、大鼓のビートが崩れたことがあった。あのときは、あたしが低い声で4つ数えて立て直した。
群れがどれだけ騒いでいても、数える自分の声だけは聞こえていた。
外の音が多すぎるなら、減らせばいい。
ネックから左手を離すと、ギターが肩の紐でお腹の前に下がった。弾くのは右手のピックで1回だけでいい。
左の手のひらを、ぶかぶかのカーディガンの袖ごと左の耳に押し当てた。歌の話になると、いつも口元を隠してしまう袖だ。
広間の音が壁一枚ぶん遠のく。胸の音も天井から返る音も、厚い布の向こうへ下がっていく。代わりに、自分の息と喉の奥の声が、頭の内側から聞こえてきた。
聞くのは、大鼓の数えと自分の声だけでいい。
あのときと、数える側が入れ替わっただけだ。
大鼓の数えに、あたしも同じ4つを、自分の低い声で重ねて数えた。
「ワン、ツー、スリー、フォー」
かすれて低いあたしの声が、耳の内側で聞こえる。
どの高さにいるのかが、今度はちゃんと分かる。
右手に握ったままの首のピックで、低い弦を1回鳴らした。腰のアンプから出た音が、天井の低い広間をまっすぐ渡っていく。
大猿の胸の奥で魔石が光って鳴り、胸を叩く形のまま、大きな体がぴたりと止まる。
でも大猿は、魔石が割れるまで止まっていてはくれない。
大鼓のスティックは大猿に届かないから、叩く音は軽いまま硬くならない。硬い音なら短く済むはずの声を、そのぶんあたしが長く保つことになる。
大鼓が次の4つを数え始める。
あたしはその4つに声を重ねて、数えるのをそのまま節にした。キーを7つ下げた高さに、1つ目から3つ目までを同じ高さで並べる。
お腹の底で息を支えて、あたしは4つ目を長く伸ばした。
「ワン、ツー、スリー、フォー――」
大猿の体がまた動き出して、顔がこっちを向く。
片手が胸から離れた。
その手が床の岩へ伸びていく。
あの手が岩に届けば、大鼓ごと潰れる。
声は止めない。
袖を耳に押しつけたまま、息の底から低い声を押し出し続ける。
上がりそうになる肩を下ろす。
膝をついた大鼓の背中が、すぐ前にある。
大猿の指が岩の角に触れかける。
袖の向こうから、かすれた大鼓の数えが届く。
「ワン」
大鼓が次に1つ目を数えたところで、岩の手前まで伸びていた手が揺れて、また胸へ落ちかけた。
魔石の光が白く強くなる。
あたしの声は、キーを7つ下げた高さから動かない。
息が尽きかける。
それでも伸ばし続ける。
魔石が割れた。
大猿が膝をつき、前のめりに床へ倒れた。
大きな体が、光の粒になってほどけていく。
あとに、ひびの入った大きな魔石が1つ残った。
【レベルアップ。Lv15からLv17になりました】
最後まで、自分の声が聞こえていた。喉の奥が熱くて、伸ばしたあとの震えがまだ残っている。
袖を耳から離すと、広間の音が一度に戻ってくる。天井から返ってくるのは、自分の荒い息と、腕のスマートフォンが震える音だけだった。
『え、今の声で割った?』
『割れたああああ』
『膝ついても数えてたぞドラムの人』
『猿まで叩いてたの最高』
『低音かっこよすぎ』
『鳥肌立った』
『今日来てよかった』
見ている人が100人を超えた。
コメントの欄の流れが速すぎて、1件ずつ読む前に上へ消えていく。
『最後の伸ばし何秒あった?』
『ドラムの人の腕大丈夫か』
『切り抜き決定』
『ドラムの人の数える声、渋すぎ』
『猿の胸のとこ何回でも見れる』
『2人ともかっこいい』
割れた直後の騒ぎがひと山越えて、コメントの流れが少しゆっくりになる。そこへ流れてきた1件に、すぐ3件が乗った。
『てか声おっさんで草』
『それな』
『目つぶったら男』
『おっさんボイス』
その下に続く書き込みはなくて、4件はいちばん下に残ったままになった。
さっきまで笑われていたのは、胸を叩く猿だった。今笑われているのは、あたしの声だ。
中学の音楽室で笑った子たちと、言っていることは変わらない。
気づくと、あたしは袖で口元を隠しかけていた。
イヤホンからは、海歌の読み上げも届かない。
あたしは上がりかけた袖を、自分で下ろした。
「戦うときは、これからもこの声で歌う」
口の中で言いながら、外していた首のピックを、首の紐に通し直した。
大鼓のところへ駆け寄って、横にしゃがんだ。
「大鼓、腕」
「問題ない」
言葉どおりの顔で、大鼓が言う。左の袖は肘まで赤い。叩こうとした左手の指は、太ももの上で弱くしか動かなかった。
いや、その腕で問題ないは無理があるし。
ポケットのハンカチを出して、大鼓の左腕をきつく巻いた。白いハンカチが、巻いたそばから赤くなる。大鼓は顔をしかめもしないで、巻かれていく自分の腕を黙って見ている。
巻きながら聞いた。
「なんで大猿の前を離れたの。あたしのほうに来たら、大鼓が当たるに決まってるじゃん」
「心音の声が、まだ途中だった」
「途中って。血、出てたんだよ」
「出てた。今も出てる」
「そういう話じゃないし」
大鼓は真顔のまま、太ももの上で右手の指を4回動かした。落ち着かないときの、昔からの癖だ。
あたしはそれ以上何も言い返せなくて、床に落ちていた左のスティックを拾って渡した。真ん中にひびの入った1本だ。大鼓は右手で受け取って、後ろのポケットに差した。
大猿のいた所に残った魔石を拾い上げる。握った拳ほどの大きさで、表面をひびが斜めに走っていた。これまで割ってきたどの魔石より大きくて、色も少し澄んでいる。
ドローンを呼び戻して、配信を切った。
広間の奥、下の層へ続く階段の脇の床に、白い線で描いた大きな円がある。
ダンジョンの入口の近くにも、同じ白い線の円がある。歩けば2時間かかるその円までを、一瞬で行き来できるという。中間ボスを倒した人だけが乗れると、協会のサイトに1行だけ書いてあった。
大鼓の右腕を肩で支えて、2人で円の中へ入った。支えているほうが先に倒れそうだ。
次の瞬間、足の下の白い線はそのままで、周りの壁だけが変わっていた。通路の先で、協会のゲートの列が明るく光っている。
転移陣だ。
◇
夕方、協会の建物の1階に上がると、大鼓は売店の職員に傷薬を塗ってもらい、包帯を巻いてもらった。
左腕は三角巾で首からつっている。骨は折れていないらしい。
「しばらくは、左手で強く叩いたりしないでくださいね」
「分かりました」
大鼓はそれだけ答えて、つった腕を見下ろした。膝の上に置いた右手の指が、いつもの癖で4つ数えかけて、左の分を待つように止まる。
買い取り窓口に、ひびの入った大きな魔石を出す。
「第10層の中ボスの魔石ですね。お二人の冒険者証も、お預かりします」
職員が端末で魔石と2人の冒険者証を照らし合わせ、しばらくして、新しい冒険者証を2枚、窓口に並べた。
Dランクに上がった。
手に取ると、思ったより軽い。Eの字がDになっただけの、同じ大きさのカードだ。
大鼓は自分の分を右手だけで受け取り、つった左腕の上に載せて、しばらく黙って見ていた。それから、真顔でそのカードをあたしに見せた。
「心音。これで、行きも帰りも2時間歩かなくていい」
いや。
「先に腕の心配して」




