第22話 胸を叩く音
どん、と低い音が、通路の奥から石の壁を伝ってきた。
第10層の中間ボス、大猿が胸を叩く音だ。協会のサイトには、こんなに響くとは書いてなかった。
前を歩いていた大鼓が足を止めた。通路の先の暗がりが、中間ボスの広間の入口だ。
大猿に挑むと決めてから3日、放課後は毎日、海歌に低い声の練習を見てもらった。
昨日の部室で一度だけ、これまででいちばん下まで声が下りた。
まぐれじゃない。たぶん。
今日は土曜で、大鼓と2人で初めて第9層を抜け、ここまで下りてきている。
今夜21時には、顔を出さない歌い手のミナモが、また生配信で歌う。ミナモが歌うのに使うのは、声が出なくなった海歌の声だ。
今夜もまた、あの声を黙って聞くだけの夜になる。21時が来る前に、海歌の呪いのチョーカーを壊す物が出るという深い層へ、少しでも近づいておきたい。
「今日いける。昨日の感じ、まだ喉に残ってるし。ここ越えたら、そのまま下も見られるじゃん」
自分でも分かるくらい、速い声だった。
大鼓が振り向く。1つ上の幼なじみで、去年の春まで、あたしたちのバンドでドラムを叩いていた。
頭ひとつ以上高い所から、動かない顔があたしを見下ろした。
「いけるか」
聞かれたのは一度だけだ。あたしがうなずくと、大鼓は「分かった」とだけ言って、前を向いた。
あたしが1人で大コウモリのボスに挑んで、腕をかまれた夜も、さっきみたいな速い声でしゃべっていた気がして、首を振る。
大鼓は後ろのポケットから、スティックを2本抜いた。左手に持ったほうは、真ん中に縦のひびが入っている。買い替えればいいのに、大鼓は折れるまで使う気だ。
入口の手前で、貯めてきたスキルptを全部、《共鳴》に使う。ギターで魔石を揺らして鳴らし、同じ高さを自分の声で歌えば魔石が割れる、あたしのスキルだ。
天の声が、《共鳴》が上がったと告げて鳴りやむ。
伸びたのは、揺らした相手を止めておける時間と、ギターの音が届く距離だけだ。声は1つも伸びない。
大猿の胸の魔石を割れば勝ち。割れるかどうかは、あたしの声しだいだ。
ドローンを飛ばして、配信をつける。題は、〔下北沢ダンジョン〕第10層、中ボスに挑みます。
中ボスの3文字が効いたのか、見ている人はすぐに60人を超えた。
視聴者は、大鼓をドラムの人と呼ぶ。
『中ボスきた』
『ドラムの人もいる』
『今日は歌う?』
『中ボス戦はじめて見る』
見に来てくれるのはありがたいのに、今日は少し多すぎる。
片耳のイヤホンが鳴った。土曜の部活で部室にいる海歌が文を打ち、スマートフォンが読み上げる声だ。今日の声は駅のアナウンスみたいに落ち着いている。
[部室で見てる。音、ちゃんと届いてる]
腕に巻いたスマートフォンの画面の端に、配信を切るボタンがある。
気づくと、あたしはそこに親指を掛けていた。
押せば、この先であたしがどんな声を出しても、誰にも聞かれない。
60人の中にはきっと、中学の音楽の時間に「男子みたい」と笑った子と同じような誰かもいる。
もう片方の手は、カーディガンの袖ごと口元へ上がっていた。歌を人に聞かれそうになると、いつもこうなる。
こういうときだけ、あたしの手は仕事が早い。
あたしは親指を、配信を切るボタンから離した。
親指を離した手で、自分の声で歌うときにだけ使う首のピックを、紐から外して握る。
ピックの角が手のひらに食いこんだ。
すぐ前に大鼓が立っている。小さいころから、あたしの声をいちばん近くで聞いてきた人だ。
大鼓は振り向かなかった。
「前は俺がやる。心音は後ろだ」
それだけ言って、スティックを持った手で太ももを4つ叩く。曲の頭の前に、ドラムが数えるあの4つだ。昔、バンドでいつも聞いていた速さだった。
入口をくぐる。広間は体育館ほどの広さの、横に平たい洞だった。
天井が低くて、手を伸ばせば届きそうに見える。床に崩れた岩がいくつも転がっている。
投げる物には困らない広間だ。うれしくない。
奥に、大きな背中がうずくまっていた。
中ほどまで踏みこんだところで、その背中が起き上がる。立つと、頭が天井をこすりそうだった。
『でか』
『ゴリラじゃん』
サイトの絵より、ずっと大きい。描いた人、遠慮したでしょ。
大鼓が前へ出て、大猿の目の前に立った。あたしはその数歩後ろの、入口に近い側で、ギターを構える。
黒い毛の腕が、大鼓の頭の上で持ち上がる。大鼓は下がらない。
大鼓のスティックが大猿の腕を叩いた。続けて膝。合間に自分の太ももを鳴らし、4つ数えてはまた頭から刻んでいく。
ゴリラより大きい猿の前で、真顔で自分の太ももを叩く人。絵だけ見たら、変なのは大鼓のほうだ。
払いに来た腕を、大鼓は半歩ずれてよけ、よけたついでにその肘を叩いた。
叩くたびに大鼓のビートが乗ってきて、軽かった音が少しずつ硬くなっていく。硬くなるほど、魔石を割るあたしの声は短くて済む。そのビートに乗ると、あたしの声も強くなるからだ。
『ドラムの人、今日も叩いてる』
『音が重くなってきた』
叩かれた大猿が大鼓を見下ろして、胸を短く鳴らした。どん、どん。
大猿が鳴らした胸の音が1つ、大鼓の数える1つ目と、ぴたりと重なった。
『今の胸、ドラムと重なった』
知らない誰かの書き込みだった。目の端で読み流す。今はそれどころじゃない。
『吟遊詩人、ゴリラに歌うの?』
いつも戦いだけ見に来る、ダンジョン目当ての視聴者だ。
「歌うよ。あとゴリラじゃなくて猿」
言い返して、首のピックでいちばん低い弦を鳴らした。
大猿の胸の奥で魔石が光って、低く鳴る。
大猿は腕を振り上げたまま固まった。
前の群れの相手なら、もう動き出している頃だ。それでも、まだ固まっている。貯めてきたスキルptの分は、ちゃんと効いていた。
鳴っている高さを、耳でなぞる。カラオケの機械で、持ち歌のキーを7つ下げた高さだ。
「……キー、マイナス7。昨日、届いたとこじゃん」
出せた高さなら、もう一度出せる。
あたしは歌い出した。
歌詞はない。部室で、海歌の手のひらを追ったときの、声だけの節だ。
低くかすれた声が出た。
目を開けていても、胸の高さからゆっくり下りていく海歌の手のひらが見える。
肩は上げない。息は、海歌の手が当たっていたわき腹から、細く長く出す。
部室で何度も通った高さまで、1つずつ下りていく。下りるたびに、魔石の光が強くなった。
『低い』
『光が強くなった』
『いけるいける』
『ガチで下りてる』
自分の声が、低い天井の下でちゃんと聞こえている。
あと少しで届く。
固まっていた大猿の腕が下りた。
両手で胸を叩く。
どん。
低い天井で返った音が壁で返り、また天井から落ちてくる。何重にも重なって、広間じゅうが太鼓の胴の中になった。
あたしの耳から、あたしの声が消えた。
口は開いて、喉も震えている。なのに、高さが分からない。キーを7つ下げた所から、声が上ずっていくのだけが喉で分かる。
魔石は光っているのに割れない。
海歌の読み上げだけは、イヤホンからはっきり届いた。
[もっと下]
下げたくても、今の声がどこにあるのか分からない。
『割れない』
『え、光ってるのに』
『胸叩くのやば』
『声、上ずってる』
大猿は止まらずに胸を叩き続けている。
その音に引っぱられて、大鼓のビートが揺れた。いつもは少しもずれない音が、胸の音のほうへ寄っていく。
大鼓の音がずれるのを、あたしは初めて聞いた。
大鼓は数え直そうとして、振り上げた手を宙で止めた。
硬かった音が消える。次に太ももを叩いた音は、叩き始めの、軽い音に戻っていた。
『ドラムの人止まった』
『え、ビート消えた』
1人で歌い切ればいい。
大鼓のビートがなくても、大コウモリのボスは1人で割った。あたしは止まった手から目を離して、喉から声を押し出した。
喉が熱い。それでもまだ出る。
大猿の体は大鼓に向いたままだった。
その腕だけが床の岩をつかんで、投げた。
岩は声を張っているあたしのほうへ飛んでくる。
目の前に大鼓が割りこんだ。
大猿の前から、数歩の間を一度に跳んできていた。
岩は鈍い音を立てて大鼓の左の肩に当たり、床へ転がる。
大鼓が膝をついた。左手から落ちたスティックが、床を転がっていく。真ん中にひびの入っているほうだ。
裂けたパーカーの袖から、血が手首へ伝っていく。
いつの間にか、あたしの声は止まっていた。
イヤホンから、海歌の読み上げが大鼓を呼んだ。
[だいちゃん]
[だいちゃん!]
『岩きた』
『ドラムの人!』
『肩に当たった』
『やばいやばいやばい』
『逃げて』
あたしは流れていく文字を見ているだけで、足が床から動かない。
叩いてくる相手がいなくなった大猿が、広間の中ほどから一歩、こっちへ踏み出した。
身をかがめて、床の次の岩へ手を伸ばす。
背中のすぐ後ろの入口まで、動けない大鼓を引きずって走るより、あの腕のほうが速い。
次に投げられたら、膝をついた大鼓ごと当たる。
大猿の指が岩に掛かった。
あたしのすぐ前では、大鼓がまだ膝をついている。
あたしはギターを抱えて口を開けたまま、声を出せずにいる。




