第21話 先に、海歌に言う
「海歌、話がある。昨日、協会で」
ギターケースを肩から下ろす前に、あたしの口が動いていた。
冗談は付けなかった。付けたら、また逃げる。
昨日の夕方に送った「調べる話」のメッセージは、既読が付いたきりで返事がない。
それでも来た。調べるなら次からはわたしにも言って、と部室で海歌に言われたばかりだ。
海歌は窓の前の、マイクスタンドの横に立っていた。今日も床の「うみか」のテープから半歩ずれている。
1学年上の幼なじみの大鼓は、奥のドラムセットから離れて、あたしがいつも座るアンプの横に立っていた。聞くための立ち位置だ。
ホワイトボードの隅の、文化祭までの日数は「213」に減っていた。
日数の横には、顧問の先生の角ばった字で『文化祭 ステージ出演の申し込み 5月16日まで』と書き足してある。ボードの脇のクリップに挟んであるのが、申し込み用紙だろう。
海歌が一度、そこで目を止めた。ステージの話になると、海歌の目は正直だ。
あたしはケースを下ろしてアンプに腰かけ、ポケットから小さな紙を出した。
「昨日、1人で潜ったあと、協会の休憩所で調査員の人に会った。ルーペさんって名乗ってた」
紙は膝の上に置いた。指先は、思ったより震えていない。
「闇サイトで売られた呪いの品を追ってる人。協会の鑑定の記録をたどって、海歌の真珠に行き着いたんだって」
海歌の首で、チョーカーの真珠が西日を返した。
「持ち主から話を聞きたいって。今月の23日に、また協会に来る」
海歌が胸の前に手のひらを立てた。人を止めるときの、あの手だ。
[会わないで]
声の出ない海歌が文を打ち、スマートフォンが読み上げる声だ。今日の声は、アニメのマスコットみたいに甲高い。
頼みごとには聞こえない声なのに、手のひらは下りない。
[ルーペって名前、もうあやしいじゃん? なんちゃって]
甲高い声が西日の部室で場違いに跳ねた。
海歌は笑った顔のまま、指先でチョーカーの真珠に触れている。
会いたくない理由は打たなかった。平気なふりだということくらい、幼稚園からの付き合いのあたしには分かる。
「会うべきだと思う」
大鼓が短く言った。
「でも、海歌の真珠だ。決めるのは海歌だ」
それだけ言って、大鼓は口を閉じた。
あたしは、自分の声で歌うときだけ外す首のピックをつまんで、離した。
「会う」
海歌は立てたままの手のひらを、ぴくりと揺らした。下ろしはしない。
もう片方の手の親指が、画面の隅へ動いた。読み上げの声を選ぶ所だ。マスコットの声を、もっとふざけた声に替えるつもりだったのかもしれない。
親指はそこで止まって、何も押さなかった。次のボケが、海歌の指から出てこない。
「チョーカーを壊す物のこと、ルーペさんなら何か知ってるかもしれない。怖いからって見送るのは、無理」
言いながら、喉の奥が熱くなった。黙って調べたのを謝って2日で、また海歌を困らせている。我ながら、ひどい幼なじみだ。
「海歌にも、来てほしい」
立てていた手のひらを、海歌はゆっくり下ろしていく。いいよ、の合図でないことだけは、見れば分かった。
アンプの小さなノイズだけが、しばらく鳴っていた。
返事は来ない。来ないと分かっていたのに、待ってしまう。
やがて海歌が短く打った。
[練習]
海歌は手のひらを胸の高さに上げた。歌を教えるときの、高さの合図だ。
断られても、教える側からは降りないらしい。こういう切り替えの速さだけは、昔から海歌に勝てない。
「低い声のほう、やりたい」
あたしはギターを膝に載せて、いちばん低い弦を鳴らした。
昨日の配信では、キーを5つ下げた所までは声になって、6つ目は息だった。
「第10層の中ボスの大猿、大コウモリのボスより、ずっとでかいんだって。協会のサイトに載ってた。魔石も、もっと低いよね」
海歌がまばたきをする。
「レベルが上がったら、勝手に下まで出るようになったりしないかな」
海歌はボケなかった。先生の、まっすぐな顔で打つ。
[声の幅は、練習でしか広がらない]
近道はないらしい。知ってたけど。
海歌は唇を軽く閉じて、ぶるるる、と震わせてみせた。喉を温めるリップロールだ。ただし、声はない。
無音でやられると、真顔で馬のまねをしている人にしか見えない。
口の端がゆるみかけて、すぐに戻った。まだ笑えるほど、空気は軽くない。
あたしも唇を閉じ、声を乗せて震わせた。低い所から高い所へ、高い所から低い所へ、何往復か滑らせるうちに、喉の奥がぬるくなってくる。
海歌は、シールだらけの歌詞のノートを「泡にならない」のページで開き、ホワイトボードの下の縁に立てかけた。
歌詞の横の余白に、消しゴムで消した鉛筆の跡がうっすら残っている。
あたしが手のひらへ目を戻すとき、海歌の指がノートの端を押さえ直して、その余白にかかった。
[キーを3つ下げて]
歌い出しの音を3つ下げて鳴らし、自分の低い声でその音を伸ばす。海歌は手のひらを、その高さで止めた。
アンプの横で、大鼓が太ももを指で叩いてビートを数え始めた。
海歌が手のひらを少し下げる。あたしはギターの音を1つ下げ、声で追った。
キーを4つ下げても、5つ下げても、まだ声になる。
次の1つで、音の芯が抜けて、また息ばかりになる。
悔しくて、喉の奥をぐっと押し下げた。
[いまの、のど]
すぐに止められた。
海歌があたしの両肩に手を置いて、上からそっと押さえる。いつの間にか、肩が耳のほうへ上がっていた。
それから海歌は、自分の口の前で手のひらをゆっくり下ろしてみせた。はあ、と声のないため息をつく形で。
肩の力を抜いて、5つ下げた音から鳴らし直した。ため息の続きに声を乗せると、さっきより太い芯が残る。
これなら、あと1つ下まで行けるかもしれない。
海歌がマイクスタンドの横に戻って、手のひらを上げた。
そして、下げていく。
胸の高さを過ぎる。
みぞおちを過ぎる。
海歌の歌で、こんなに低い所を聞いたことは一度もない。
手のひらは、まだ下がる。海歌は膝を折って、床に近い所で手のひらを平らにした。
あたしは6つ目の音を、いちばん低い弦で鳴らした。
ため息のように、息を下ろす。
声が出た。
短く、かすれて。それでも、昨日は息だった6つ目に、声が乗った。
大鼓が、太ももを数える指を一拍だけ止めた。
小さいころのあたしの低い声を、かっこいいと言ったのは大鼓だ。
海歌は、手のひらをそこで止めた。
すぐには打たない。
かすれた声が部室から消えるまで、海歌はあたしを見ていた。ボケる前の、口の端だけ上げて待つ笑い方ではない。顔じゅうの力がほどけている。
教えた低さに声が届いて、先生としてうれしいのだろう。
目が合うと、海歌は急いで画面の上に親指を走らせた。
[もっと下]
マスコットみたいな、甲高い声。
さっき[会わないで]と言ったのと、同じ声だ。
あたしは返事の代わりに、もう一度、いちばん低い弦を鳴らした。
練習のあと、ギターをケースにしまった。
子どものころの話だし。かっこいい声なら、中学で男子みたいって笑われたりしない。
あたしはケースの留め金をぱちんと閉めた。
◇
部室棟の廊下は、もう薄暗かった。
先に部室を出た海歌が、窓ぎわでスマートフォンを打っている。今日のあたしが隣を歩いたら、海歌は困るだけだ。
「下で待ってる」
あたしはそれだけ声をかけて、海歌の横を通った。
海歌の画面のいちばん上に、ハコブネの「灯子さん」という名前が見えた。打っている中身までは見えない。
階段へ向かうあたしの後ろで、ぽこん、と小さな送信の音がした。
あたしは振り返らずに、階段を下りた。




