第2話 まねなら歌える
膝の上まで、冷たい重さが這い上がってきた。
白い洞窟の行き止まりで、あたしの両脚にスライムが1匹まとわりついている。通路のほうにはもう2匹。半透明の体をのろのろ揺らして、帰り道をふさいでいる。
挟まれた。最悪だ。
斜め上では、海歌に借りた撮影用のドローンが、この情けない姿を律儀に撮っている。
腕に巻いたスマートフォンの画面に出ている配信の題は、〔下北沢ダンジョン〕初配信。同時接続数は1。
同時接続数の横で、ドローンの電池の残りが4割を切っていた。予備の電池はない。
思いきり蹴った。
足首までずぶりと沈んで、靴ごと持っていかれそうになる。
いや、なんで蹴ると吸いつくの。
両手で引きはがそうとしたら、指まで沈んだ。手首まで冷たい。慌てて抜くと、スライムは何事もなかったみたいに、また少し上へずれてくる。
土曜の朝から、歌わずに済む道を探して第1層をうろうろした結果がこれだ。スライムのいない方へ曲がって曲がって、奥へ奥へ進んだら、行き止まりだった。
自業自得って、たぶんこういうときに使う。
武器もヘルメットもない。制服とカーディガンの下は、今朝、売店で買ったいちばん安い防刃ベストだけ。ゆうべゲートを通ったときにもらった《歌魔法》の、眠りの歌と、声をぶつける拡声のほかに、使える手は1つもない。
どこかで水の落ちる音が、洞窟じゅうに響く。静かすぎて、自分の息までうるさい。
冷たさが腰まで来た。
重い。脚が前に出ない。踏んばろうとした膝がかくんと折れる。
尻もちをついた。
ぬれた石の冷たさが、スカート越しにしみてくる。通路の2匹が、ぬるりとこっちへ寄ってきた。
このままだと、全部に乗られる。
歌うしかない。分かってる。
口を開けて、閉じた。
もう一度開けて、喉のところで声が止まる。
あたしの声は人に聞かせる声じゃない。だから人前では一度も歌ってこなかった。画面の向こうには海歌しかいないのに、喉が勝手に閉まる。
スライムがおなかの上まで乗ってきた。あたしは海歌の持ち歌を歌い出した。
ただし、海歌のまねで。
喉の上のほうから、細く高く出す。歌い出しの前に小さく息を吸う、海歌の癖までまねた。あたしの低くかすれた声は、奥に押しこんでおく。
まねなら、歌っているのはあたしじゃない。だから歌える。ずるいのは知ってる。
天井の低い洞窟は声をよく響かせた。
海歌が付けたこのチャンネルの名前は、「シモキタ地下ライブ」だ。ライブじゃないって言ったのに、結局歌っている。
空気が波打った。
洞窟の空気が水面みたいに揺れて、スライムの体にも同じ波が広がる。おなかの上の1匹が、ずるりと脚のほうへずり落ちた。通路の2匹も、少し先で丸くなる。
眠った。
光りもしないし、音も立たない。魔法のくせに地味すぎる。
でも、効いた。
腕の画面で、電池の残りが3割に減る。
部室の海歌が打った文が、読み上げの声になって、数秒遅れで片耳のイヤホンに届いた。
[電池、ない。急いで]
電池が切れたら配信も切れて、海歌はあたしが無事かどうかも分からなくなる。
息継ぎで、歌が一瞬途切れた。
脚の上のスライムがぴくりと震えて、また這い上がりかける。
慌てて次の節に入ると、丸くなった。
やめたら、起きる。
頭の奥がじわじわ重くなってきた。歌っている間ずっと、何かを少しずつ持っていかれている感じがする。たぶん、これが MP の減るだるさだ。
長くは歌っていられない。倒すなら、今しかない。
倒れたまま、ぶかぶかの袖で床を押して上半身を起こし、脚の上の1匹に顔を寄せた。半透明の体の真ん中に、小さな魔石が透けて見える。
小さく静かに繰り返していた眠らせる節を、ここでやめる。やめれば、通路の2匹も目を覚ます。分かってて、やめる。
息を深く吸いこんだ。
次はサビの、いちばん高い一節。それを目の前の1匹にだけ向けて、海歌のまねの声のまま張り上げる。
声をぶつける拡声の歌を、ありったけの大声で。
空気が、眠らせたときと同じように波打った。でも今度の波は太くて、目の前の1匹にだけまっすぐぶつかる。
ゼリーの体が内側から大きくうねった。
うねりが真ん中まで届いて、透けて見える魔石がぶるぶる揺れる。
ぷるぷるの体が、もう形を保てない。
スライムが、弾けた。
「当たった!」
光の粒が白い天井へ散っていく。
四方の壁から、今の声が返ってきた。細くて、高くて、海歌によく似た声。
あたしの声じゃない。
その返ってくる声の向こうで、通路の2匹がぶるりと震える。
やっぱり起きた。2匹が、ぬるぬると伸びて寄ってくる。
歌い直そうとして、喉がつかえた。さっきの大声で、喉の奥がひりつく。出たのは、かすれた息だけ。
冷たい体が、靴の先に触れた。もう一度、吸う。今度は細く高く、海歌のまねで。
靴の先で、2匹がまた丸くなった。
歌ったまま、脚の上に残った小指の先ほどの魔石を拾って立ち上がる。2匹の横を、踏まないようにそろそろとすり抜けた。
頭はどんどん重くなる。行き止まりが見えなくなるまで、一節も止めずに歌い続けた。
広い通路まで戻って、やっと歌をやめる。口を閉じたとたん、膝ががくがくし始めた。
「……倒した。あたし、倒したじゃん」
手の中の魔石を握ったまま、スマートフォンを見る。数字は、いつのまにか3になっていた。
『え、倒した』
『吟遊詩人が歌で倒してて草』
『最後ちょっと危なかったな』
『歌って殴るの斬新すぎる』
ダンジョンの名前で検索して来たらしい、知らない人たちのコメントだ。
スライム1匹。冒険者証を取った人なら、たいてい最初の日に倒している相手だ。
『初討伐おめ』
[すごい]
数秒遅れて届いた海歌の読み上げの[すごい]が、どのコメントより大きく聞こえた。
『吟遊詩人ソロとか普通やらんでしょ』
『で、なんで配信してんの』
さっき「草」って書いた人だ。
「心配性の友達に頼まれたんで。生きてるとこ見せろって」
ドローンに向かって、ピースしておいた。
『雑で草』
雑な理由でいい。知らない人に、海歌のチョーカーのことまで話す気はない。
配信を切ると、水の滴る音だけが残る。
配信を切ってから思い出したのは、今朝のことだ。海歌はついて行くと打ってきた。叫べないし助けも呼べないじゃん、とあたしが止めると、海歌はあっさり笑ってドローンを差し出し、安全か見せて、と打った。
◇
午後、海歌の部屋。窓の外には、路地を挟んで、あたしの部屋の窓が見える。
海歌はベッドに腰かけて、首の真珠のチョーカーを指でいじっている。あたしは窓ぎわの床に座り、その向かいで正座しているのは、灯子さんだ。
ライブハウスの楽屋で、海歌にこのチョーカーをくれた年上のミュージシャン。海歌から知らせを受けて、昼すぎに飛んできてくれたらしい。
灯子さんは、首まで隠れる黒のハイネックを着ている。暖房の効いた部屋の中でも、首元はきっちり隠れたままだ。
「ごめんね、海歌ちゃん。本当に、ごめん」
灯子さんは床に両手をついて、額が床につきそうなくらい頭を下げた。
「このチョーカー、古道具の市で見つけたの。真珠がきれいで、海歌ちゃんに似合うと思って。まさか、そんな物だなんて」
言い訳より先に謝って、顔を上げたら、ちゃんと海歌の目を見ている。大人がまともに謝るところを、久しぶりに見た気がする。
海歌がスマートフォンを打つ。読み上げの声が、部屋に響いた。
[灯子さんは悪くないです。知らなかったんだし]
[それに、この声もけっこう未来っぽくて気に入ってます]
いや、気に入るな。
灯子さんがまた謝りかけると、海歌は両手をぶんぶん振って止めた。ベッドの上で、ほら元気、というふうに力こぶまで作ってみせる。
今朝、ドローンを差し出したときと同じ顔で、海歌は笑っている。
[あとね、心音がきのう冒険者になったんです。きょう初配信もしたんですよぉ]
海歌はなぜか、自分のことみたいに胸を張った。
「心音ちゃんが? すごいね。心音ちゃんのギター、ダンジョンで鳴らしたら、モンスターも聞きほれちゃうかもね」
いや、ギターは部屋に置いてきたし。ダンジョンで鳴ったのは、海歌のまねをしたあたしの歌だけだし。
「ねえ、海歌ちゃん。鑑定でさ、ほかに何か出なかった?」
灯子さんの指が、ハイネックの上から自分の首元に触れた。喉の、少し下のあたりだ。
海歌がまた打って、画面を灯子さんに向ける。
[出たのは、名前と、どういう物かだけです。壊す条件は、読めないって]
灯子さんは、差し出された画面の文字を見なかった。目を伏せて、読み上げの声が鳴るスマートフォンのほうへ、耳を寄せるみたいに首をかしげている。
首元に当てた指が、ほんの一瞬ゆるんだ。息をついたみたいに見えた。
「そっか。とにかく今は無理しないで、ゆっくり休んでね。のどにいいお茶、今度持ってくるから」
やわらかい声のまま、話はもう、海歌の体のことへ移っている。
あれ、と思った。
海歌を見る。灯子さんの横顔を見上げて、海歌はうれしそうに笑っていた。
灯子さんの指は、まだ首元に触れたままだ。
海歌の体より先に、なんで鑑定に何が出たかを聞くんですか。その一言を、あたしは海歌の笑顔の前で飲みこんだ。
本日(10/18 (日)) 10話まで一時間ごとに投稿予定です。
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