第18話 真珠が温かい
海歌の机に、あたしは自分のスマートフォンを立てかけた。
画面では、まだ始まっていないミナモの配信が、題の〔はじめて、生で歌います〕だけを出している。21時まで、あと4分。
ドアを叩いてから海歌が開けるまで少し間があって、開けた海歌は何も打たずに、あたしが通れるだけ体を引いてくれた。
大鼓にはメッセージを送って、路地から上がってもらっている。それから3人とも、まだ一言もしゃべっていない。
部屋の明かりは消えたままで、海歌はベッドの端に、あたしと大鼓はその前の床に並んで座っている。
明かりをつけようと言い出せる空気でもない。窓のカーテンも閉まったままで、路地の向こうのあたしの部屋の窓は見えなかった。
机の端の、灯子さんのお茶の缶が、画面の明かりを鈍く返している。
海歌は今、声を奪った呪いのチョーカーの真珠に、指先を当てている。配信の画面が開いてから、ずっとそうしていた。
いつもなら、こういう沈黙には真っ先にボケが飛んでくる。今日の海歌のスマートフォンは、膝の上で裏返しのままだ。
大鼓が太ももを指で叩いて、4つ数えている。数え終わると、また1から。
狭い部屋なので、大鼓の膝があたしの膝のすぐ横にある。それだけで、少し息がしやすかった。
21時ちょうどに、画面が切り替わった。
水面に映る女の子の後ろ姿。ミナモの、いつもの絵だ。
絵の下に、こんばんは、ミナモです、とミナモの挨拶が白い文字で出た。
挨拶なのに、ミナモの声はスピーカーから一言も出なかった。
『こんばんは!』
『初生配信おめ』
『え、文字?』
『声で挨拶してー』
コメントへの返事も文字で、ありがとう、うれしい、と短い言葉が絵の下に並んでいく。
同時接続数は始まって1分もしないうちに1万を超えて、まだ増えている。
あたしの配信の、200倍だ。
次々に増えるコメントの中に、地下へ降りる階段の写真のアイコンが混ざった。ハコブネの最前列の人だ。
『なんでしゃべらないの』
その一言に、ほかの書き込みがぱらぱらと続く。
『たしかに』
『しゃべらない設定?』
『声は歌までお預けか』
『焦らすねえ』
隣で大鼓が画面のほうへ少し身を乗り出した。
しゃべらないまま、歌まで行く気らしい。
歌い出せば、あたしには分かる。この2週間、何度も聞き比べてきた声だ。
画面ではミナモがまだ文字を出していて、次は1曲目です、の1行が出たところだった。
そのとき、真珠に当てた海歌の指先が、ぴたりと止まった。
海歌の肩が上がって、そのまま固まる。
画面はまだ文字のままだ。
数秒して、スピーカーから、海歌と同じ小さな息の音がした。
そのあとに、歌が来た。
ミナモが歌う声は、チョーカーの呪いで出なくなった海歌の声そのものだった。
澄んだ高い声が、あたしのスマートフォンの小さなスピーカーから、暗い部屋いっぱいに広がっていく。
サビへ入る前に、半拍だけ間があいた。ハコブネの小さいステージで、ギターを弾きながら、あたしが背中ごしに何百回も聞いてきた、海歌の間だ。
1か所だけ、息つぎが、投稿された新曲の同じ所よりわずかに遅れた。録音を流しているだけなら、ずれるはずがない。
今、どこかで誰かが、この声で歌っているんだ。
その声の持ち主は、あたしの目の前で、息を止めたまま座っている。
『生歌きた』
『鳥肌』
『生でこれは反則』
『サビ前の間すき』
『イヤホン推奨』
AIで作った声でも、今は生で歌えるのかもしれない。
海歌の指は真珠の上で止まったまま、動かなかった。
1曲目の終わりが近づいたころ、海歌の肩が下がって、指先が真珠から少し浮いた。
画面の歌が終わったのは、その数秒あとだ。
ミナモが聞いてくれてありがとうと文字で書いて、コメント欄は拍手の書き込みで埋まっていく。
その拍手の1つも、海歌のほうには向いていない。
2曲目の前、画面にはまだ曲紹介の文字しか出ていないのに、海歌の指先がまた止まった。
あたしは頭の中で数を数える。4つ目で、画面のミナモが歌い出した。
海歌の指は、ミナモが歌い出すより先に止まって、歌が終わるより先に離れる。
『2曲目もいい』
『声の伸びどうなってんの』
『毎日歌って』
書き込みの速さは、2曲目になっても落ちない。
あたしは画面じゃなくて、海歌の指先ばかり見ていた。
前にこの部屋で、ミナモの新曲と、海歌が去年ハコブネで歌ったライブの録音を、何往復も聞き比べていたときのことだ。
横から海歌がボケを打ってきた。真珠のほうが、自分より体温が高い気がする、と。
あのときは、真珠に体温はないとツッコんで、それきりにした。
次の歌の前に、真珠を自分の指で触って確かめればいい。
2曲目が終わると、あたしは床から立って、海歌の隣に座った。ベッドが少し沈む。
自分の首を指でさしてから、海歌の真珠をさす。触っていい? と、口の形だけで聞いた。
海歌はしばらくあたしの顔を見て、それからうなずき、真珠から指先をどけた。
人差し指の先を真珠に当てる。中指はそのすぐ横の、海歌の首の肌に。
中指の下で、海歌の脈が速い。
真珠と肌は同じ温度だった。
海歌は画面ではなく、あたしの指を見ている。
画面ではミナモが、次の曲に入る前の文字を並べていた。文字が1行増えても、まだ歌わない。
あたしの人差し指の先だけが、ほんの少し温かくなった。
気のせいだと言われたら、そうかもと思うくらいの温かさだ。
指を離さずに、待った。海歌も、首に当たったあたしの指を振り払わなかった。
指先が温かくなって数秒たってから、画面から小さな息の音がした。
ミナモが歌い出す。
指先の温かさは消えなかった。
1番が終わり、2番が始まる。中指の下の肌より、人差し指の下の真珠のほうが、まだ少しだけ温かい。
間のあとにサビが来て、またサビが来る。そのあいだ、ずっと。
最後の音が伸びはじめたところで、指先の温かさが引いた。
画面の歌が止まったのは、数秒あとだった。
ミナモが文字でお礼を書き、もう1曲、と続ける。コメント欄が、拍手の絵文字で埋まっていく。
人差し指の先がまた温かくなっていく。画面は、まだ文字のままだ。
海歌の指も、真珠の温かさも、いつも画面の歌より数秒先だ。
「昔の録音じゃない」
この部屋で、今日初めて出した声だった。低くて、かすれていた。
「AIで作った声でもない」
海歌がゆっくりあたしを見る。
「今、流れてる。海歌の声が、この真珠から、ミナモに」
海歌の目が、あたしの指と画面のあいだを一度だけ行き来する。
唇が何か言いかけて開き、そのまま音にならずに閉じた。
画面から、小さな息の音がした。
海歌の声で、ミナモが歌い出す。
『ミナモの声好き』
『生で聞くと別格』
『この声だけで生きていける』
『透明すぎる』
『ミナモの声、国宝』
大鼓の、太ももを叩いていた指が止まった。
止まった指が、太ももの上でゆっくり丸まっていく。大鼓が何かを殴りたいときの手を、あたしは初めて見た。
『この声に出会えてよかった』
『声で泣いたの初めて』
『声が良すぎる』
『天使って実在したんだ』
海歌が、膝の上で伏せていたスマートフォンを、画面が上になるように返した。
親指が動く。いつもの、ボケを打つときの速さだ。打ちかけの文の頭に、ねえねえ、が見えた。
そこで、親指が止まる。
しばらく画面の上に浮いたまま動かない。それから消すほうを押したまま、打った文を端から消していく。ねえねえ、のあとにも、文はまだ何行か続いている。
海歌は、ボケを1行も送らなかった。
海歌はスマートフォンを放すと、真珠に当てていたあたしの指を押しのけて、両手で首の真珠を押さえる。
指のすきまから真珠が見えなくなるほど、強く握りこんでいる。こぼれていくものを、手でせき止めようとするみたいに。
歌は止まらない。
画面の中で、海歌の声がサビへ上がっていく。
海歌が顔を伏せる。長い髪が前に落ちて、顔が見えなくなった。
口が勝手に、いつもの軽い声で「てかさ」と言いかけた。続きは、どうせくだらない冗談だ。
その続きを、喉の奥へ飲みこむ。
何も言わずに、真珠を押さえる海歌の両手に、自分の手を重ねた。
海歌の手は冷たい。その指のすきまで、あたしの指先がまた真珠に触れる。
真珠だけが、温かかった。
重ねた手の下で、海歌の肩が一度だけ跳ねる。あたしは手をどけなかった。
大鼓が立ち上がって、ドアの前まで行き、こっちに背を向けて座る。
海歌の顔のほうは、一度も見ない。
明かりは、机のスマートフォンだけだ。水面に映る女の子の絵と、せり上がっていくコメントの光が、重ねた2人の手を白く照らしている。
それから2曲、ミナモは歌った。
最後の歌のあと、コメントへのお礼が何行か続いて、絵の下に最後の文字が出る。
今日はありがとう。来週の土曜の夜も、また歌います。
同時接続数は、最後まで1万2千前後のままだった。
『やった』
『来週も絶対来る』
『アーカイブ残して』
『毎週ミナモの声聞ける世界』
『おやすみミナモ』
重ねた手の下で、真珠が海歌の肌の温度に戻っていく。




