第17話 カーテンが閉まった土曜日
向かいの海歌の部屋のカーテンが、11時を過ぎても閉まったままだった。
海歌は休みの日でも9時にはカーテンを開けて、路地を挟んだ窓から手を振ってくる。幼稚園のころから、たいていそうだ。
ゆうべ灯子さんに録音のことを聞かれて、何も答えられずに帰ってきた。
答えは一晩たっても、まだ出ていない。
自分の部屋の床でギターを膝にのせたまま、弦も鳴らさずに、向かいの窓の閉まったカーテンを見ていた。
スマートフォンが震えた。海歌からだ。
文字じゃなくて、海歌が読み上げのアプリにしゃべらせて録った、短い音声が1つ。
再生すると、駅の案内みたいにまっすぐな女の人の声が流れた。
[ゆうべ、灯子さんから連絡が来た。心音が、ハコブネでわたしの録音のこと聞いてたって]
いつもの海歌は、読み上げに打つ文でも語尾をだよぉと伸ばすのに、今日は伸びていない。「ねえねえ」もない。
海歌の部屋で「もう調べないで」と頼まれたとき、あたしはうなずいていた。そのうなずきがうそだったことまで、全部、海歌に知られた。
怒られる。たぶん、窓越しに。
カーテンが開いた。
海歌が窓を開けると、水色の毛先が窓枠にかかる。窓枠の向こうの海歌は、笑っていなかった。
それだけで、考えていた言い訳の順番が全部飛んだ。
あたしも窓を開けた。2月の冷たい空気が、路地から部屋に流れこんでくる。
海歌はスマートフォンをこっちに向けて、親指を動かす。まっすぐな声が路地を渡ってきた。
[調べないでって言ったよね]
謝る言葉を探すより先に、口が勝手に動いていた。
「いや、調べたっていうか。探偵ごっこ? ほら、名探偵ここね、みたいな」
言いながら、海歌のボケを待っている。名探偵なら虫めがね持ってきなよぉ、とか。海歌がボケて、あたしが突っ込めば、いつもの朝に戻れるはずだった。
海歌の親指が動く。
[ちがう。ごっこじゃない]
ボケは来なかった。
海歌の手のひらは胸の前で止まっている。
「海歌、あのさ」
海歌がカーテンを引いた。
水色の毛先が布の向こうに消えて、窓の閉まる音が少し遅れて路地に響く。
あたしは窓を開けたまま立っていた。カーテンは開かない。1分たっても、5分たっても。
◇
昼すぎ、下北沢ダンジョンの地下の第8層。
天井の低い白い通路で、大鼓がゴブリンの群れの真ん中に立っている。スティックで1匹叩くたびに、叩かれた1匹が大鼓のほうを向く。真顔のまま、今日も変な戦い方だ。
あたしはその背中のすぐ後ろで、ギターを構えていた。同時接続数は50前後。
いつもなら、ここで片耳のイヤホンに海歌の指示が読み上げの声で届き、同じ文字がコメント欄にも流れる。
『今日、「もっと下」の人いなくない?』
『休みかな』
あたしに聞かれても困る。
群れに向けて、眠りの歌を乗せる。海歌の歌い方をまねた、高い声で。
その歌が、ビートより先へ勝手に速くなっていく。
イヤホンは黙ったままだ。黙っているのに、あたしは1小節ごとにそっちへ耳を澄ませて、澄ませるたびに歌が前へ出る。
怖いと速くなるのは分かっている。分かっていて止まらないなら、分かっていないのと同じだ。
大鼓の手が太ももを強く叩いた。元の速さを、4つ叩いて聞かせている。
ばん、ばん、ばん、ばん。
さっきより硬い4つの音に歌を合わせ直すと、速くなっていた歌が元の速さに戻る。
ゴブリンが1匹ずつ膝を折って、眠りに落ちていった。あの4つがなかったら、たぶん群れごと起こしている。
歌をやめて弦を鳴らし、光った胸の魔石へ、同じ音の高さで一言。大鼓のビートに合わせて落とした。
「はい」
ぱきん、と割れる。ビートに乗れば、一言で足りる。
「次」
低い声が白い壁に返るたびに魔石が割れていき、最後の1匹が光の粒になった。
【レベルアップ。Lv11からLv12になりました】
頭の内側で、あたしにだけ聞こえる声がそう告げた。
1人で大コウモリのボスを倒してレベルが上がった日は、協会で待っていた海歌が、読み上げで[おめでとう]と一言くれた。
片耳のイヤホンに指を当てて、待つ。
イヤホンは、鳴らない。
少し離れた所で、大鼓が太ももを叩く手を止めた。叩く音が消えると、洞窟には水の落ちる音しか残らない。
『あ、Lv12』
『おめでとう』
指を下ろしかけたとき、ハコブネの最前列の人の、地下へ降りる階段のアイコンがコメント欄に流れてきた。海歌がライブで歌っていたころからの、古いファンだ。
貼られていたのは、告知のリンクだった。
『ミナモ、今夜21時に初の生配信』
リンクの先の題は〔はじめて、生で歌います〕。
『ミナモって、顔出さない歌い手?』
『録った歌しか出してなかったのに』
よりによって、今夜。
どうやって出している声なのか、生なら分かるかもしれない。21時まで、あと7時間しかない。
配信を切って地上に出ると、協会の建物の前で大鼓が足を止めた。通りの向かいでは、ハコブネの入口の狭い階段が地下へ口を開けている。
「何があった」
「別に。なんでもない」
「分かった」
大鼓は本当に、それ以上聞かない。
黙っていられなくなった。
「……なんでもなくない」
大鼓がこっちを見下ろす。
「ミナモの声、海歌の声なの。似てるとかじゃなくて、海歌の声そのもの。誰かが、海歌の昔の録音から作ったんだと思う」
大鼓は黙って聞いている。
「それ、海歌に黙って調べてて、今朝ばれた」
口に出してみると、言い訳は1つも残っていなかった。
大鼓は、しばらく何も言わない。
「なら今夜、3人で見る」
「は?」
「ミナモの配信だ。海歌も入れて、3人で」
言い終わるより先に、大鼓はスマートフォンを出していた。
短く打って、画面をあたしに向ける。
海歌へ。今夜21時、ミナモの配信を3人で見る。
送信の音がして、2人で黙って画面を見ていた。協会の前の信号が青から赤へ2回変わるくらい待っても、返事は来ない。
今夜、海歌の部屋のドアは閉まったままかもしれない。
◇
20時50分。
自分の部屋の窓から、向かいのカーテンを見ている。明かりはついていて、ベッドの端に座る海歌の影が布に映っていた。
大鼓のメッセージにも、まだ返事はない。
路地を見下ろすと、街灯の下で大鼓も、太ももを指で叩きながら海歌の窓を見上げて、返事を待っていた。
返事を待てばいい。21時を過ぎても来なければ、この部屋で1人で見ればいい。
どっちを選んでも、海歌に断られずに済む。
断られずに済む道は、海歌の隣へも行けない道だ。
スマートフォンを握って、立ち上がった。
階段を下りて路地に出ると、大鼓がこっちを向く。
「あたしが行く」
「分かった。俺はここにいる」
大鼓は街灯の下から動かなかった。
路地を渡る。10歩もない。
海歌の家の玄関で靴を脱ぎ、幼稚園のころから何百回も上った階段を、1段ずつ上る。
2階の、路地に面した部屋の前に立った。
ここで断られたら、明日の朝もカーテンは閉まったままだ。何百回も叩いたドアなのに、手が上がらない。
あたしは、自分の手でドアを叩いた。
2回。
ドアの向こうで、ベッドのきしむ音がした。
手の中のスマートフォンは、20時54分。




