第15話 灯子さんは、似てるねと言った
録音から、人の声って作れるんだろうか。
海歌の部屋の机で、あたしは海歌のノートパソコンをにらんでいた。画面には、海歌の昔の動画がずらっと並んでいる。ライブハウスのハコブネで撮ったものと、バンドのSNSに上げたものだ。
ダンジョンの配信で、大鼓のビートに乗せて持ち歌を歌ってから、2日。窓の外には、路地を挟んであたしの部屋の窓が見える。
片耳のイヤホンで、去年の秋にハコブネでやったライブを流す。サビの手前で止めて、今度は顔を出さない歌い手、ミナモの新曲の同じ所。さっきから、その2か所を何往復も聞き比べている。
海歌はサビの前で、半拍だけ歌わずに間をあけて、そこで小さく息を吸う。
新曲の歌も、4回聞いて4回とも、サビの前で半拍だけ間をあけて、そこで小さく息を吸った。
何年も海歌の後ろでギターを弾いてきた耳だ。この半拍は聞き間違えない。
ミナモの新曲の歌い方は、海歌のライブと同じだ。
机の端の、のどにいいお茶の缶に目が行く。ハコブネで海歌の面倒を見てくれている年上のミュージシャン、灯子さんの差し入れだ。
この缶をくれた人に聞かせたら、何て言うだろう。
[ねえねえ、休憩しよ]
背中で、海歌のスマートフォンが読み上げた。今日の声はやたら渋いおじさんで、休憩の誘いが居酒屋の呼びこみに聞こえる。
海歌はベッドに腰かけて、こっちに画面を向けていた。
「あと1曲」
[おやつあるよぉ。チョコのやつ]
「あと1曲だってば」
[ねえねえ、チョーカーの真珠、触るとたまにあったかいの。気のせいかなってくらい、ちょっとだけ]
[もしかして、わたしより真珠のほうが体温高いのかも]
海歌は、首のチョーカーの真珠を、指でつついてみせた。
「いや、真珠に体温ないから」
それだけ返して、あたしはイヤホンをはめ直した。
[聞き比べより、練習]
海歌がベッドから降りてきて、あたしの耳からイヤホンを抜いた。片手でノートパソコンを閉じ、もう片方の手のひらを、あたしの顔の前に上げる。
声の出ない海歌の、歌の教え方だ。手のひらの高さが、歌う音の高さになる。
逆らう理由はうまく見つからない。
「……1回だけね」
持ち歌の「泡にならない」を、海歌の歌い方で歌い出す。歌い出しの前の小さな息まで、ちゃんとまねた。
2番に入ったあたりで、廊下の床がきしんだ。階段を上がってきた足音が、ドアの前で止まる。
誰か、そこで聞いている。
海歌は手のひらを止めない。だから、あたしも止めなかった。
サビまで歌い切って口を閉じると、ドアが2回、軽く鳴った。
「ごめんね。ノックしようとしたら、歌が聞こえたから」
ドアから顔を出したのは、灯子さんだった。
長い黒髪を低い所で1つに結んで、今日も黒のハイネックを着ている。その襟の上から、指を首元に当てていた。
海歌は声の出ない口で「わあ」の形を作って、両手を振る。灯子さんが来ると、海歌はいつもこうだ。
灯子さんは部屋に入ってきて、ベッドに座り直した海歌の前の床に膝をついた。あたしは机の椅子から、2人を横に見る位置だ。
あたしはカーディガンの袖を口元に当てる。まねの声でも、聞かれていたと分かると顔が熱い。
灯子さんは、ハコブネで若いバンドの音を聞くと、「ひとつだけ言うとね」と前置きして、直す所を1つだけ言う人だ。
だから、あたしは袖の中で、その前置きを待った。
灯子さんは少し首をかしげて、あたしを見た。
「海歌ちゃんに、似てるね」
それだけ。
灯子さんは首元の指をゆるめて、膝に下ろした。肩の力も、すとんと抜ける。
直す所なんて1つも言わずにいてくれた。
[灯子さん、見てくださいよぉ。わたしのそっくりさんが歌ってるんです]
海歌は机からノートパソコンを取って膝にのせ、灯子さんのほうへ画面を向けた。ミナモの新曲の画面だ。水面に映る女の子を、後ろから描いた絵。
海歌の指が再生を押した。
歌い出しの前に、小さな息。
海歌の声が、海歌の部屋に流れた。
海歌はボケたときの笑顔のまま、画面ではなく自分の膝を見ている。
誰も笑わなかった。
最初の1行が終わったところで、海歌が停止を押す。
灯子さんは首をかしげたまま、画面を見ていた。耳を寄せるみたいな、いつもの聞き方だ。
一拍あった。
「最近は、AIで声も作れるっていうからね」
話すときの灯子さんの、やわらかい声のままだった。
「ひどいね。そういうの」
灯子さんは膝をついたまま、海歌の手をとった。空いたほうの手の指を、部屋に来たときと同じように、ハイネックの襟の上から首元に当てる。
ベッドに座る海歌の首には、真珠のチョーカー。その手を包む灯子さんの、首元の指。
海歌の声が出なくなって、灯子さんが初めて見舞いに来たときも、あの指はそこにあった。
灯子さんは長居しなかった。帰りぎわ、ドアの前で振り返る。
「金曜の夜ね、ハコブネで弾くの。気分転換においで。海歌ちゃんも、心音ちゃんも」
[わたしは、行けないです]
読み上げのあとで、海歌は肩を揺らして笑った。声のない笑い方だった。
いつもなら突っ込む所なのに、言葉が出てこない。
「……行けたら、行きます」
「うん。無理しないでね」
灯子さんはやわらかく笑って、ドアを閉めた。
階段を下りる足音が遠くなる。
海歌が、あたしの胸の前に手のひらを立てた。待って、の手だ。
[灯子さんもああ言ってるし]
[もう調べないで]
いつもボケのあとに海歌が打つ[なんちゃって]は、来なかった。渋いおじさんの声は、そこで切れたままだ。
海歌はあたしの顔から目をそらさない。ボケる前の、いたずらを隠した顔とは違う。
やめる気なんてないのに、あたしは首を縦に1回だけ振った。
うそをつくのに、声は要らなかった。
◇
路地を渡って自分の部屋に戻り、電気をつけないまま、ベッドに座る。
声を作った誰かは、元になった海歌の録音を持っているはずだ。
SNSの動画は、ライブなら客の声、練習ならあたしのギターが混ざっている。声だけを使うなら、ハコブネの機材で録った音のほうがずっときれいだ。
向かいの窓に、海歌の部屋の明かりがついている。
3日後の金曜の夜、ハコブネで録音のことを聞く。海歌には内緒で。




