第9話 燃える奴隷商館
商館主が走った。
ルナたちへ背を向け、扉の開いた檻の建物へ逃げ込む。
「逃がすな!」
ボルグが追おうとする。
その横を、燃えた木箱が崩れた。
火の粉が中庭へ広がる。
「先に解放した者を外へ出せ!」
ルナはボルグを止めた。
商館主一人を追うために、救い出した者たちを炎の中へ残すわけにはいかない。
「歩ける者は裏門へ行け! 動けない者へ肩を貸せ!」
狼族たちが動き出す。
タダノは火傷の消えた腕を確かめようともせず、倒れかけた山羊族へ駆け寄った。
「大丈夫?」
山羊族は爆発に驚いて座り込んでいたが、大きな傷はない。
タダノはその身体を支え、裏門へ向かう。
檻の建物から、鉄格子の扉が閉まる音がした。
商館主は、空になった檻の中へ逃げ込んでいた。
腰から大きな鍵を外す。
鉄格子の隙間から腕を伸ばし、外側の錠前へ鍵を差し込んだ。
かちり。
鍵が回る。
商館主は鉄格子を掴み、外にいるルナたちを睨んだ。
「これで入れまい!」
鉄格子が、商館主とガチケモたちを隔てている。
商館主は荒い息を繰り返していた。
それでも、檻へ入ったことで安心したらしい。
「警報は鳴った! すぐに兵士が来る!」
商館主は鍵を引き抜こうとした。
だが、タダノが炎の中から立ち上がる姿を見た直後だった。
手の震えが止まっていない。
鍵が指から滑った。
鉄格子の外へ落ち、石床の上で跳ねる。
「あっ」
商館主が鉄格子の隙間から腕を伸ばした。
指先は鍵へ届かない。
もう少しで触れそうになる。
その前に、小さな手が鍵を拾い上げた。
チリだった。
「返せ!」
商館主が鉄格子へ身体を押しつける。
「その鍵を返せ!」
チリは鍵を握り、商館主の腕が届かない場所まで下がった。
「返さないっス」
「私はこの商館の主だぞ! お前は私の商品だ! 命令を――」
「もう、首輪はないっス」
チリは大きな鍵を見た。
それから、もう一度錠前へ近づく。
商館主は鉄格子の隙間から両腕を突き出した。
「来るな! 鍵を渡せ!」
チリは伸びてくる手を避け、鍵を錠前へ差し込んだ。
「扉を開けなければ、お前だけは罰しない! 食事も、寝床も、今までよりましにしてやる!」
かちり。
錠前が開いた。
「やめろ!」
商館主は内側から扉へしがみついた。
チリが檻の前を離れる。
その後ろから、棍棒を持った猪族が進み出た。
猪族は鉄格子を掴み、力任せに引いた。
商館主の身体を引きずりながら、扉が開いていく。
犬族も、短い剣を手に檻の前へ立った。
「待て。金ならある」
商館主の背中が鉄格子へ当たった。
もう下がれない。
「好きなだけ持っていけ。だから――」
棍棒が振り下ろされた。
商館主が床へ倒れる。
立ち上がろうとしたところへ、犬族が踏み込んだ。
商館主の声は、そこで途切れた。
ルナは止めなかった。
タダノも振り返らなかった。
裏門の近くで、歩けない猫族を抱え上げている。
チリは檻の中を長く見なかった。
鍵を握ったまま、ルナのところへ戻る。
「終わったっス」
「なら、外へ出ろ」
倉庫から大きな音がした。
火を受けた壁が崩れ、棚に並んでいた壺が床へ落ちる。
中に入っていた油へ火が移った。
炎が一段高くなる。
倉庫の屋根から事務棟へ、火の粉が降り始めた。
「火を消すのは無理っスね」
「ああ。商館は捨てる」
ルナは中庭を見回した。
檻の馬車から救い出した四人。
商館の檻から救い出した九人。
十三人のうち、すでに十人が裏門の外へ出ている。
残っているのは、猪族と犬族、そして足を痛めた猫族だ。
「ボルグ、猪族と犬族を連れていけ」
「分かった」
「タダノは猫族を運べ」
「うん」
タダノが猫族を抱え上げる。
猫族は抵抗せず、その肩へ腕を回した。
ボルグは猪族から棍棒を受け取り、裏門を指す。
「行くぞ」
猪族は倒れた商館主を一度だけ見た。
それから犬族と一緒に檻を出た。
商館主を倒したことで、身体の疲労が消えたわけではない。
数歩進んだところで、猪族の足が揺れた。
ボルグがその腕を支える。
「まだ倒れるな」
「分かっている」
狼族たちが、救い出した者を順番に外へ運んでいく。
正門は閉じたままだ。
鐘を聞いたニンゲンが来るとしても、まだ時間はある。
だが、火の方が早い。
事務棟の鎧戸にも炎が移り始めている。
チリが事務棟を見た。
すぐには裏門へ向かわない。
「どうした」
「書類が残ってるっス」
「今から取りに戻る気か」
「この商館が、誰をどこへ売ったのか書かれてるはずっス」
チリは燃え始めた事務棟を見る。
脚は震えていた。
「全部燃えたら、ほかの檻を探せなくなるっスよ」
ルナは事務棟までの道を確認した。
中庭の木箱は燃えている。
だが、事務棟の入口まではまだ通れる。
「長くは待たない」
「分かってるっス」
「一人で行くな」
ルナは近くにいた狼族へ視線を向けた。
「チリを守れ。煙が増えたら、書類を置いて戻れ」
二人が事務棟へ走る。
ルナは残る狼族とともに、裏門へ向かう者たちを守った。
火の粉が毛並みへ落ちる。
腕で払い、周囲を見回す。
動いている兵士はいない。
商館主も檻の中で倒れている。
ニンゲン側で戦える者は残っていなかった。
タダノが猫族を裏門の外へ運び終えた。
すぐに中庭へ戻ってくる。
「ほかに怪我してるガチケモは?」
「外へ出した者を見ろ。ここには戻るな」
「ルナは?」
「私は最後に出る」
タダノは納得していない顔をした。
「行け」
「……分かった」
タダノが裏門を抜ける。
しばらくして、事務棟からチリたちが戻ってきた。
チリは大きな革袋を両腕で抱えている。
袋の口から、帳簿の端が見えていた。
同行した狼族も、紐でまとめられた紙を持っている。
「売買の帳簿が二冊と、移送札っス!」
チリが咳き込む。
「全部は無理だったっスけど、売った先が書いてありそうなものは持ってきたっス」
「十分だ。外へ出ろ」
事務棟の二階から、窓が割れる音がした。
炎が窓枠を越えて噴き出す。
屋根の上を火が走った。
チリと狼族が裏門へ向かう。
ルナもその後へ続こうとした。
その時、檻の建物の奥から声が聞こえた。
「開けてくれ!」
ニンゲンの声だった。
「火が来る! 誰か、ここから出してくれ!」
ルナは足を止める。
通路の奥にある管理室。
その先の扉から、いくつもの声が聞こえている。
商館に囚われていたニンゲン奴隷だ。
扉の小さな覗き窓から、何本もの腕が伸びている。
「頼む!」
「鍵を開けてくれ!」
チリも声に気づいた。
革袋を抱えたまま、管理室の扉を見る。
「事務棟の収容記録に、ニンゲン奴隷が十二人って書いてあったっス」
「鍵は開けられるか」
「管理者の鍵束があるっス。どれかは合うと思うっス」
チリの手には、商館主から拾った大きな鍵も残っている。
扉を開ける手段はある。
だが、炎はすでに檻の建物の屋根へ移っていた。
ここで鍵を試せば、その分だけ撤退が遅れる。
外には、歩くことも難しいガチケモたちがいる。
ルナはタダノを呼んだ。
「タダノ」
裏門の外にいたタダノが戻ってくる。
「何?」
「向こうに、ニンゲンが十二人残っている」
タダノは扉を見た。
中から助けを求める声が続いている。
「ガチケモは?」
「全員、外へ出した」
「なら、もう行こう」
迷いのない返事だった。
ルナはタダノから目を離さなかった。
「ニンゲンは助けないのか」
タダノは不思議そうにルナを見る。
「ガチケモじゃないのに、どうして助けるの?」
怒りはなかった。
嘲るような笑みもない。
本当に、助ける理由が分からない顔だった。
奥の扉が激しく叩かれる。
「出してくれ!」
「死にたくない!」
燃えた梁が落ちた。
裏門へ続く通路の近くで、火の粉が跳ねる。
ルナは外を見た。
首輪を外された十三人が、狼族に支えられている。
彼らを危険な場所へ留めておく理由はない。
「撤退する」
ルナは決めた。
「チリ、鍵は持っていけ。全員、裏門から離れろ」
「分かったっス」
チリは鍵を革袋へ入れた。
ニンゲン奴隷の檻は、開けられないまま残された。
ルナたちは裏門を抜ける。
最後にボルグが扉を閉めた。
商館から離れた直後、檻の建物の屋根が崩れ落ちた。
火の粉が夜空へ舞い上がる。
助けを求める声は、やがて炎の音に呑まれた。
ルナたちは森の中まで下がった。
狼族は六人。
檻の馬車から救い出した四人。
商館の中から救い出した九人。
十三人のガチケモが、新たに首輪を失っている。
深い傷はタダノが塞いだ。
だが、疲労と空腹で歩けない者は多い。
狼族たちは交代で肩を貸した。
チリは持ち出した革袋を胸元へ抱えている。
その中には、商館がガチケモを売った先の記録が残っていた。
背後で、奴隷商館が燃えている。
商品として扱われていたガチケモたちは、全員商館の外にいる。
「鉱山へ戻る」
救い出した十三人を連れ、ルナたちは炎を背に夜の森へ入った。




