第7話 商館への潜入
街道から護衛たちの死体が消えた。
狼族が茂みの奥へ運び、血のついた土には乾いた砂をかぶせている。
チリは檻の馬車の横に座り、受け取った水を少しずつ飲んでいた。
首輪はもうない。
何度確かめても、喉に残っているのは擦れた痛みだけだった。
タダノは熊族の腕へ手を当てている。
深く裂けていた傷は塞がったが、熊族の顔には疲労が残っていた。
「傷は治ったよ。でも、無理はしないでね」
タダノが手を離す。
続いて鹿族と兎族の傷も確かめていく。
ルナは、護衛から奪った書類をチリの前へ広げた。
「商館へ入れると言ったな」
「たぶんっスけど」
チリは引き渡し用の書類を指した。
「この馬車を運んでたのは、商館の雇われじゃないっス。捕まえた奴を売りに行く、外の連中っスね」
「商館の者は、護衛の顔を知らないのか」
「全員までは知らないはずっス。商館の印と書類があって、檻の中に売り物がいれば、門までは開くと思うっス」
自分たちを売り物と呼び、チリは少しだけ言葉を詰まらせた。
ルナは書類から檻の馬車へ視線を移す。
「問題は、中に入ってからだ」
「受け入れの時に首輪を調べられるっス。外れてるって分かったら、すぐ騒ぎになるっスよ」
「正門を通るまで隠せればいい」
ルナは周囲にいる狼族を見た。
「私たちは馬車と距離を取って進む。タダノとお前たちが先に中へ入れ。内側から別の入口を開けられるか」
チリは商館の書類をめくった。
荷車用の正門。
奴隷を収容する建物。
受け渡しを行う中庭。
書かれているのはそれだけで、商館全体の構造までは分からない。
「入ってみないと、何とも言えないっス」
「できないなら、別の方法を考える」
「鍵があるなら開けられるっス。なくても、時間をもらえれば何とかするっスよ」
口にしてから、チリは商館のある方角を見た。
あそこへ向かえば、また檻の中へ入らなければならない。
今度は首輪がない。
それでも、見つかれば殺される。
指先が震え始めた。
「怖いなら残っていい」
ルナが言った。
「無理に戻れとは命じない」
「怖いに決まってるっス」
チリはすぐに答えた。
「でも、商館にはほかにも捕まってる奴がいるんスよね」
「書類が正しければな」
「なら、行くっス」
チリは震える手を握った。
「檻の鍵を開けるくらいなら、私にもできるっスから」
鹿族が二頭の会話を聞いていた。
「俺たちは、どうすればいい」
「本来なら安全な場所へ移したい」
ルナは鹿族たちを順番に見た。
「だが、商館へ入るには、檻の中が空では不自然だ」
「また捕まったふりをしろということか」
「ああ。ただし、強制はしない。ここで待つ者には、狼族を一頭残す」
鹿族は、開いたまま床に置かれている首輪を見た。
熊族と兎族も互いに顔を見合わせる。
「商館には、俺たちと同じ者がいるんだろう」
鹿族が言った。
「その可能性は高い」
「なら、行く」
熊族も静かにうなずいた。
兎族はしばらく迷っていたが、最後には檻の中へ戻った。
「置いていかれた奴がどうなるか、知っているから」
ルナは三頭の返事を受け、チリへ視線を戻す。
「首輪をつけているように見せられるか」
「やってみるっス」
チリは四つの首輪を調べた。
留め具は壊れていない。
鍵を使った形跡もないまま、きれいに開いている。
「どうやって外したんスか、これ」
「触ったら外れたよ」
タダノが答えた。
「そういう説明になってない答えが、一番困るんスけど……」
チリは荷台に残っていた革紐を細く裂いた。
首輪の内側へ通し、開いた留め具を固定する。
強く引けば、すぐに外れる程度の結び方だった。
近くで触られれば見破られる。
門の外から眺めるだけなら、首輪をつけているように見える。
「受け入れのニンゲンが触る前に、騒ぎを起こす必要があるっス」
「正門を通り、私たちを中へ入れればいい」
ルナが答える。
「その後は戦う」
「簡単に言うっスね」
「簡単だとは思っていない」
ルナは商館の方角を見た。
「それでも、外から正面攻撃するより、檻へ近づける」
タダノが檻の馬車へ乗ろうとした。
ルナがその腕を止める。
「お前は御者台だ」
「僕が馬を動かすの?」
「ニンゲンの姿で御者台へ座れるのは、お前だけだ」
「馬車なんて動かしたことないよ」
「馬は道を覚えてるっス」
チリが鉄格子の隙間から言った。
「手綱を強く引かなければ、街道に沿って進むっス。止める時だけ引いてください」
「分かった。やってみる」
「あと、商館で私たちをガチケモって呼ばないでほしいっス」
「どうして?」
「そんな呼び方をするニンゲンはいないからっスよ」
タダノは少し考えた。
「じゃあ、何て呼べばいい?」
「何も呼ばなくていいっス。聞かれたら、荷は四頭って答えてください」
「分かった」
「本当に分かってるんスかね……」
タダノは死んだ御者の外套を着た。
大きさは合っていないが、離れて見れば不自然さは少ない。
服に残っていた血は、街道で襲われたという説明に使える。
腰に武器を下げるよう勧められたが、タダノは受け取らなかった。
「使わないから、いらない」
ルナは一度だけタダノを見たが、無理に持たせなかった。
「商館の者に聞かれたら、護衛は狼族に襲われて死んだと答えろ」
「本当のことだね」
「私たちが近くにいることまでは言うな」
「それも分かった」
チリたち四頭は、再び檻の中へ入った。
扉は閉めるが、鍵はかけない。
チリが内側から金具を引けば、すぐに開けられる。
ルナたちは街道から離れ、森の中を進むことになった。
馬車を見失わず、商館の見張りからは見つからない距離を保つ。
「門を開けられなければ、無理に動くな」
ルナがチリへ言った。
「私たちが別の入口を探す」
「分かったっス」
「タダノもだ。ガチケモを見つけても、すぐに駆け寄るな」
タダノは答えなかった。
「返事をしろ」
「……分かった」
わずかに間があった。
チリは不安になった。
だが、タダノがガチケモを放置できないことは、すでに分かっている。
馬車が動き出した。
タダノが御者台で手綱を持つ。
馬は少し迷ったあと、東街道を進み始めた。
ルナたちの姿は、すぐに森の中へ消えた。
◇
日が傾き始めた頃、街道の先に高い塀が見えた。
太い木材を組み、上部へ鉄の杭を取りつけた塀だった。
中央には、荷車が二台並んで通れるほどの門がある。
門の上には、檻をかたどった印が掲げられていた。
鉱山に残されていた移送札と同じ印。
奴隷商館だった。
塀の向こうから、ニンゲンの声が聞こえる。
馬の声。
荷車の車輪。
金属を打つ音。
それに混じって、短い悲鳴も聞こえた。
檻の中で、兎族が身体を固くした。
「着いたのか」
「そうみたいっス」
チリは鉄格子の隙間から門を見た。
見張りは二人。
どちらも槍を持っている。
タダノが馬車を門の前で止めた。
「止まれ!」
見張りの一人が近づいてくる。
「どこの荷だ」
タダノは黙ったまま、書類を差し出した。
見張りが受け取り、商館の印を確認する。
それから御者台の血と、タダノの外套を見た。
「護衛はどうした」
「狼族に襲われた」
タダノが答える。
「僕以外は死んだ」
見張りの表情が変わった。
「狼族だと?」
「六頭くらいいた」
チリは荷台の中で頭を抱えそうになった。
数まで正確に答える必要はない。
「追われていないだろうな」
「分からない」
「分からないでは困る。なぜそのまま来た」
タダノは少し考えた。
「荷を届ければ、金をもらえるって聞いたから」
チリが教えたとおりの答えだった。
見張りは疑うようにタダノを見た。
もう一人が檻の中を数える。
「鹿、熊、兎、それに鼠。四頭いる」
見張りが書類と数を照合した。
「護衛が全滅して、荷だけ無事か」
「僕が守った」
間違いではない。
だが、タダノが言うと別の意味に聞こえる。
「お前一人で?」
「うん」
見張り二人が顔を見合わせた。
チリの背中に冷たい汗が流れた。
説明を重ねるほど怪しまれる。
見張りの一人が槍を持ち直した。
「外套を取れ。怪我を確認する」
タダノは動かなかった。
「早くしろ」
その時、商館の内側から声が飛んできた。
「何を止めている!」
帳面を持った男が門へ近づいてくる。
「日が落ちる前に荷を入れろ。確認は中でやる」
「ですが、護衛が狼族に殺されたと」
「なら、なおさら門の外へ置いておくな。狼どもに商品を奪われるぞ」
見張りが不満そうに下がった。
門の閂が外される。
重い扉が、ゆっくりと内側へ開いた。
タダノが馬を進ませる。
檻の馬車は、奴隷商館の中へ入った。
門が背後で閉じる。
チリは荷台から商館の内部を見た。
正面には事務所らしい二階建ての建物。
右側には倉庫と馬小屋。
左側には、鉄格子の窓が並ぶ長い建物があった。
中から、いくつもの気配がする。
鹿族が小さな声を漏らした。
「あそこにもいる」
窓の奥に、毛で覆われた腕が見えた。
壁際へ座らされている者。
首輪をつけられ、床へ鎖でつながれている者。
チリが見える範囲だけでも、七頭はいる。
タダノも檻の建物を見ていた。
御者台から身を乗り出しかけている。
「まだっス」
チリは小声で止めた。
「今動いたら、外の狼族が入れないっス」
タダノは檻の建物を見たまま、どうにか御者台へ座り直した。
馬車は中庭の奥で止められた。
「ここで待て」
帳面を持った男が言う。
「商館主を呼んでくる。荷には触るな」
男は事務所へ向かった。
門の見張りとは別に、中庭には三人の護衛がいる。
二人は倉庫の前。
一人は檻の建物の入口。
まだチリたちへ近づいていない。
「今しかないっス」
チリは檻の扉へ手をかけた。
内側の金具を外す。
扉が音を立てないよう、ゆっくりと開いた。
「ここで待っててください」
鹿族たちへ告げる。
「門を開けてくるっス」
「一人で行くのか」
「人数が増えたら見つかるっスよ」
チリは馬車の陰へ下りた。
地面へ伏せ、車輪の横を通る。
倉庫の前にいる護衛は、事務所の方を見ていた。
小柄なチリなら、荷箱と馬車の陰へ身体を隠せる。
倉庫の壁まで移動する。
そこから馬小屋の裏へ回った。
正門を内側から開けるのは難しい。
見張りが二人いる。
だが、商館の右奥に、もう一つ小さな扉が見えた。
使用人や荷運びの者が使う出入口らしい。
扉の前に見張りはいない。
チリは壁沿いに進んだ。
扉には閂と錠がある。
錠を調べる。
街道の檻より少し複雑だが、開けられない構造ではない。
チリは毛の中へ隠していた針金を取り出した。
鍵穴へ差し込む。
手が震えていた。
背後で声がするたび、動きを止める。
見つかれば、逃げ切れない。
それでも針金を抜かなかった。
右へ一度。
奥の金具を押す。
浅く戻し、下の留め具を持ち上げる。
かすかな音がした。
錠が開く。
チリはすぐに閂を外した。
扉を少しだけ開く。
外には森が広がっていた。
灰銀の狼族が、木々の間で待っている。
ルナと目が合った。
チリは扉を大きく開いた。
「開いたっス」
ルナが最初に敷地へ入る。
続いてボルグと四頭の狼族が入った。
全員が音を立てず、扉の内側へ身を寄せる。
「よくやった」
ルナが小声で言った。
「中の様子は」
「中庭に護衛が三人。正門に二人。檻の建物には、少なくとも七頭いるっス」
「ほかの入口は」
「正面に一つ。窓は全部、鉄格子つきっス」
ルナは中庭を確認した。
タダノは御者台に座ったまま、檻の建物を見ている。
今にも飛び出しそうだった。
「ボルグは中庭の護衛を押さえろ。二頭は正門へ回れ。残りは私と檻へ向かう」
狼族たちがうなずく。
「チリは扉と檻の鍵を開けろ。タダノには首輪を外させる」
「分かったっス」
ルナは檻の並ぶ建物を見た。
ニンゲンの商品として閉じ込められている者たち。
その全員を、ここから連れ出す。
「始めるぞ」




