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第6話 檻の馬車

 檻の鍵なら、開けられる。


 問題は、その先だった。


 チリは膝を抱え、揺れる鉄格子の隙間から外を見ていた。


 車輪が石を踏むたび、檻の馬車が大きく揺れる。


 床には薄汚れた藁が敷かれていた。乾いた血と排泄物の臭いが染みついている。


 檻の中にいるのは、チリを含めて四人。


 片方の角が途中から折れた鹿族。


 腕に汚れた布を巻いた熊族。


 両手を後ろで縛られた兎族。


 そして、鼠族のチリだ。


 全員の首に、隷属の首輪がある。


 チリは毛の中に隠した細い針金へ触れた。


 荷台へ押し込まれる直前、地面から拾ったものだ。


 檻の錠前は古い。馬車が止まり、落ち着いて手を動かせるなら開けられる。


 だが、開けたところで逃げられない。


 檻から逃げ出そうと考えただけで、首輪が熱を持つ。


 ニンゲンに捕まった直後、それを知らずに走ろうとした。


 喉を絞められ、意識を失うまで地面を掻いた。


 二度目は試していない。


 失敗すると分かっていることを繰り返すほど、チリは勇敢ではなかった。


 御者台に一人。


 馬車の左右に二人ずつ。


 ニンゲンは五人いる。


 姿が見えなくても、話し声と足音で分かった。


 右後ろを歩く兵士は、ときどき酒の入った革袋を口へ運ぶ。


 左前の兵士は、馬車が揺れるたびに腰の鍵束を確かめる。


 檻の鍵を持っているのは、そいつだ。


 道は少し前から上り坂になっている。


 馬車は少なくとも三度、右へ曲がった。


 森へ入ってから、すれ違った馬車はない。


 逃げられなくても、覚えておく。


 どこへ運ばれるのか。


 何人のニンゲンがいるのか。


 鍵を持っているのは誰か。


 知らないままでは、機会が来ても気づけない。


 もっとも、機会など来ない可能性の方が高かった。


「商館には、いつ着くんスか」


 チリは鉄格子へ顔を寄せた。


 右後ろの兵士がこちらを見る。


「商品が口を利くな」


 槍の柄が鉄格子を叩いた。


 硬い音に、兎族の身体が跳ねる。


 熊族は動かなかった。


 腕に巻いた布には、また血がにじんでいる。


「夕方までには着く」


 御者が前を向いたまま答えた。


「着いたら値をつけられる。鼠は安いだろうがな」


 兵士たちが笑った。


 チリは視線を下げた。


 怒った顔を見せても得はない。


 怯えていると思わせておけばいい。


 実際、怖いことに変わりはなかった。


 奴隷商館へ着けば、今より警備が増える。


 檻も頑丈になる。


 身体を調べられれば、隠した針金も見つかる。


 そこから先は、今より悪くなる。


 馬車が大きく揺れた。


 直後、急に速度が落ちる。


「止めろ」


 左前の兵士が言った。


 御者が手綱を引く。


 馬が足を止め、車輪が土を削った。


 チリは鉄格子から前方を覗いた。


 道を塞ぐように、太い木が倒れている。


 葉が青い。


 根元ではなく、幹の途中で折られていた。


 風で倒れた木ではない。


「誰かが置いたんじゃないっスか」


 チリが呟く。


「黙っていろ」


 左前の兵士が槍を持ち直した。


 それでも、すぐには木へ近づかなかった。


 森の中を見回している。


「獣か?」


「獣が木を運ぶかよ」


「なら盗賊だ。御者、馬車を戻せ」


 御者が手綱を動かそうとする。


 その前に、森から石が飛んできた。


 石は御者台の横へ当たり、乾いた音を立てた。


 馬が驚いて身をよじる。


「いるぞ!」


 兵士が叫んだ。


 左前の兵士が、倒木へ背を向けて馬車の横へ下がる。


 その背後から、灰色の影が飛び出した。


 狼族だった。


 首輪はない。


 狼族の爪が兵士の肩を捉え、そのまま地面へ引き倒す。


 兵士が槍を振ろうとする。


 狼族は腕を押さえ、喉へ噛みついた。


 短い悲鳴が上がる。


「狼だ!」


 残る兵士たちが武器を抜いた。


 森の両側から、さらに狼族が現れる。


 一人ではない。


 二人。


 三人。


 チリは反射的に数えた。


 女の狼族を先頭に、全部で六人。


 全員、首輪をつけていない。


「どうして……」


 チリの声は、馬車の騒音に消えた。


 御者が馬を走らせようとした。


 別の狼族が御者台へ飛びつく。


 御者の身体が地面へ落ちた。


 その狼族もすぐに後を追う。


 右側の兵士が檻へ背をつけ、槍を構えた。


 背の広い狼族が正面からぶつかる。


 槍先が肩をかすめたが、狼族は止まらなかった。


 兵士を抱えるようにして、道の端へ押し倒す。


 反対側でも、二人の兵士が狼族と戦っていた。


 馬が暴れ、檻が激しく揺れる。


 鹿族が壁へ肩をぶつけた。


 熊族は傷ついた腕を庇いながら、兎族が倒れないよう身体を支える。


 チリは鉄格子を掴んだ。


 狼族は馬車を襲っている。


 だが、檻を狙っているのか、積まれている商品を狙っているのかは分からない。


 首輪がないからといって、味方とは限らなかった。


 狼族の後ろから、もう一人が現れた。


 毛並みがない。


 耳も尾もない。


 形だけなら、ニンゲンだった。


 武器は持っていない。


 その者は倒れた兵士にも御者にも目を向けず、まっすぐ檻へ走ってくる。


 チリは息を呑んだ。


 やはり、ニンゲンが率いているのか。


「ガチケモがいる!」


 ニンゲンの形をした者が叫んだ。


 聞いたことのない言葉だった。


 その目は、檻の中へ向いている。


 怒っているようには見えない。


 むしろ、見つけたことを喜んでいた。


 だが、チリにはその方が不気味だった。


「近づくな!」


 最後まで立っていた兵士が、そちらへ槍を向けた。


 ニンゲンの形をした者は止まらない。


 槍が突き出された。


 穂先が脇腹へ深く刺さる。


 チリの目の前で、薄い服に血が広がった。


「タダノ!」


 女の狼族が叫ぶ。


 タダノと呼ばれた者は、倒れなかった。


 槍を刺されたまま一歩進み、檻の鉄格子へ手をかける。


「首輪、外すからね」


 その視線は、チリたちの首に向いていた。


 兵士が槍を引き抜く。


 傷口から血が流れた。


 だが、それはすぐに止まった。


 裂けたはずの脇腹が、元の形へ戻っていく。


 兵士の顔が引きつる。


「何だ、お前……」


 兵士はもう一度槍を構えようとした。


 女の狼族が横から飛び込む。


 兵士の腕を掴み、槍ごと地面へ倒した。


 そのまま喉へ爪を入れる。


 兵士の声が止まった。


 チリはタダノから目を離せなかった。


 脇腹に傷はない。


 服に穴と血の跡だけが残っている。


 タダノは、自分を刺した兵士を見ようともしなかった。


 鉄格子の向こうから、チリへ手を伸ばす。


「少し近くに来られる?」


 チリは後ろへ下がった。


「何をする気っスか」


「首輪を外す」


「鍵は、あっちの兵士が持ってるっス」


「鍵はいらないよ」


 タダノは当然のように答えた。


 女の狼族が立ち上がる。


 口元についた血を拭い、道の左右を確認した。


「ニンゲンは残っているか」


 背の広い狼族が答える。


「いや。五人とも倒した」


「森を見ろ。伏兵がいないか確かめろ」


 四人の狼族が周囲へ散る。


 女の狼族と、背の広い狼族だけが馬車のそばに残った。


 チリはもう一度数えた。


 御者を含め、護衛は五人。


 動いている者はいない。


 狼族は六人。


 それに、タダノと呼ばれた得体の知れない者が一人。


「その首輪も外せるのか」


 女の狼族がタダノへ尋ねた。


「うん」


 タダノの返事に迷いはなかった。


「全部外すよ」


 チリは女の狼族を見た。


 止める様子はない。


 騙している可能性はある。


 別の場所へ売るために、所有者だけを変えるつもりかもしれない。


 それでも、今のまま檻へ残っていれば、奴隷商館へ運ばれるだけだ。


 チリはゆっくりと鉄格子へ近づいた。


「噛まれるかもしれないっスよ」


「大丈夫」


 タダノは少し笑った。


「狼にも噛まれたことがあるから」


 何が大丈夫なのか分からなかった。


 チリはいつでも離れられるよう身構えたまま、首元を鉄格子へ寄せる。


 タダノの指が首輪へ触れた。


 契約印が光ることはなかった。


 鍵の音もしない。


 かちり。


 小さな音がした。


 首輪が二つに開く。


 鉄の輪が藁の上へ落ちた。


 チリは動けなかった。


 喉に手を当てる。


 毛の下には、長く締めつけられていた跡が残っている。


 だが、鉄がない。


 息を吸っても痛くない。


 逃げ道を考えても、首は締まらない。


「外れたよ」


 タダノが言った。


 チリは返事をせず、毛の中に隠していた針金を取り出した。


 檻の錠前の前へ座る。


 手が震えていた。


 恐怖のせいだけではない。


 もう、首輪に止められない。


 針金を鍵穴へ入れる。


 中の金具を探る。


 一度目は滑った。


 二度目で奥へ届く。


 三度目に手首を返すと、錠前の中から小さな手応えが返ってきた。


「開いたっス」


 扉を押す。


 鉄の軋む音とともに、檻が開いた。


 タダノの目が輝いた。


「すごい!」


「これくらいなら、できるっス」


 チリは針金を握ったまま、檻の外へ出た。


 自分の意思で檻を出る。


 ただそれだけのことに、脚が震えた。


 タダノはチリを追わず、すぐに檻の中へ入った。


 鹿族の前へしゃがむ。


「次、外すね」


 鹿族は警戒しながらも、拒まなかった。


 かちり。


 首輪が落ちる。


 次は熊族。


 その次は兎族。


 四つの首輪が、汚れた藁の上へ並んだ。


 兎族は縛られた手を前へ回す。


 女の狼族がニンゲンから奪った短剣で縄を切った。


 熊族は檻から降りようとしたが、傷ついた腕を庇って膝をついた。


 タダノがすぐにそちらを見る。


「その傷も治すから、待ってて」


 女の狼族は、檻から降りた四人を見回した。


「種族は違っても、ここでニンゲンへ返す理由はない。動けない者がいれば肩を貸せ」


 チリは、すぐには動かなかった。


「私たちを、売らないんスか」


 女の狼族は眉を寄せた。


「売らない。お前たちは、もう自由だ」


 チリは口を開きかけたまま、女の狼族を見つめた。


「うん。ガチケモは自由なのが一番だよ」


 タダノが当然のように言った。


 チリがそちらを向く。


「さっきから言ってる、そのガチケモって何なんスか」


「君たちみたいな、すごく尊い存在のことだよ」


「……よく分からないっス」


 女の狼族にも、その言葉の意味は分からないようだった。


 ただ、タダノが狼族とほかの種族を分けていないことだけは、チリにも伝わった。


 森へ入っていた狼族たちが戻ってくる。


「伏兵はいない」


「道の先にも気配はない」


 報告を受け、女の狼族がうなずいた。


 それからチリへ視線を戻す。


「私はルナ。狼族のルナだ」


 背の広い狼族を示す。


「こっちはボルグ。あれはタダノだ」


「チリっス」


 チリは答えた。


「鼠族のチリっス」


「この馬車はどこへ向かっていた」


「奴隷商館っス。夕方までには着くって、御者が言ってたっス」


 ルナの目が細くなる。


「場所は分かるか」


「道は覚えてるっス。でも、商館に入ったことはないっスよ」


「それでいい」


 ルナは倒れた兵士たちを見る。


「持っているものを調べろ。商館へ入るための札か、書類があるはずだ」


 狼族たちが動き始める。


 チリも、左前を歩いていた兵士のそばへ向かった。


 腰の鍵束は必要ない。


 檻はもう開いている。


 目当ては、肩から下げていた革鞄だ。


 留め具を外し、中身を地面へ広げる。


 紙が数枚。


 木札が二枚。


 封蝋のついた短い書状。


「読めるのか」


 ルナが隣へ来た。


「簡単なものなら読めるっス」


 チリは紙を一枚ずつ確認した。


 売り手の名。


 受け渡す数。


 種族。


 傷の有無。


 値段を下げる条件。


 チリたちは名前ではなく、商品として書かれていた。


「これが商館への納入書っス。鼠族一、鹿族一、熊族一、兎族一」


 紙の下には、檻を模した印が押されている。


 ルナが腰の袋から木札を出した。


 鉱山で見つけたものらしい。


「この印と同じか」


 チリは見比べた。


「同じっスね。こっちの札にも、東街道の商館って書いてあるっス」


 別の紙を開く。


 そこには今回の四人とは異なる種族と、いくつもの数字が並んでいた。


「商館には、ほかにも捕まってる者がいるみたいっス」


「何人だ」


「ここには正確な数まで書いてないっス。ただ、在庫の欄に何種類も記録があるっス」


 ルナは紙を受け取った。


 文字を読めなくても、並んだ印の多さは分かる。


「この先か」


「そうっス」


 チリは檻の馬車を見る。


 馬は落ち着きを取り戻している。


 車輪も壊れていない。


 御者と兵士は死んだが、荷台と書類は残っている。


「この馬車、商館へ入る予定だったんスよね」


「ああ」


「なら、そのまま持っていけばいいんじゃないっスか」


 ルナがチリを見る。


「どういうことだ」


「納入書も、商館の印もあるっス。私たちが檻に入っていれば、遠くから見ただけじゃ襲われたとは分からないっスよ」


 ボルグが檻を見た。


「もう一度、入るのか」


「首輪はないっス」


 チリは開いたままの扉へ目を向ける。


「今度は、自分で出られるっスよ」


 怖くないわけではない。


 あの檻へ戻ることを考えると、喉の奥が固くなる。


 それでも、商館にはまだ捕らわれている者がいる。


 鍵がある。


 書類がある。


 そして、首輪を外せるタダノがいる。


 使えるものを使わずに捨てる理由はなかった。


 ルナは少しの間、馬車と東へ続く道を見比べた。


「その案を使う」


 決断は早かった。


「死体を道から隠す。血の跡も消せ。馬車に積める武器と書類は全部持っていく」


 狼族たちが動き出す。


 タダノは熊族の傷を見たまま、その場を離れなかった。


 チリは手の中の針金を見下ろす。


 今までは、自分一人が逃げるための道具だった。


 だが、これから向かう場所には、もっと多くの檻がある。


 奴隷商館へ運ばれるはずだった檻の馬車。


 それが今度は、商館へ入り込むための道になった。

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