第5話 首輪のない夜
鉱山の門の内側に、二十三個の首輪が積まれていた。
どれも、つい数刻前まで狼族の喉を締めていたものだ。
契約印の刻まれた留め具。
毛の奥へ食い込んでいた鉄の輪。
ルナは首輪の山から目を離し、鉱山全体を見渡した。
門には見張りを置いた。
詰所と倉庫にも狼族を配置している。
動けない者は、奪い取った毛布を敷いて休ませていた。タダノの治療を受けた者は、順番に立ち上がり始めている。
ニンゲンから命令されなくても、狼族たちは動いていた。
食料を運ぶ者。
武器を集める者。
倒れたニンゲンを一か所へ移す者。
誰も首輪で強制されてはいない。
それぞれが必要な仕事を選び、互いに声をかけ合っていた。
「ルナ」
背後からタダノに呼ばれた。
振り返ると、タダノがルナの肩を見ている。
騎士の剣に裂かれた傷だった。
出血は止まりかけているが、腕を動かすたびに痛む。
「ほかの者の治療は終わったのか」
「うん。傷は全部塞いだよ。動けない子は、毛布のところで休んでる」
「なら、倉庫の整理を手伝え。食料と使える道具を分けている」
「その前に、傷を治すね」
タダノが手を伸ばす。
ルナは反射的に半歩下がった。
その手が止まる。
「嫌なら触らないよ」
タダノは追ってこなかった。
命令もしない。
無理に押さえつけることもなく、ルナが決めるのを待っている。
ルナはタダノの手を見た。
首輪を外した手。
傷ついた狼族を治した手。
騎士の剣を止め、何度刺されても離さなかった手でもある。
完全に信用したわけではない。
タダノが何者なのかも、まだ分かっていない。
それでも、ルナは傷ついた肩を差し出した。
「早くしろ。まだ仕事が残っている」
「うん」
タダノの手が傷へ触れる。
痛みが急速に引いていく。
開いていた傷が塞がり、血も止まった。
ルナは肩を回した。
わずかな違和感さえ残っていない。
「終わったよ」
「便利な力だな」
「ガチケモを治せるから、僕も気に入ってる」
タダノは当然のことのように答えた。
その力をニンゲンへ使うつもりがないことは、坑道ですでに見ている。
ルナはそれ以上尋ねなかった。
「弔いを始める」
その言葉に、タダノは首を傾けた。
「弔い?」
「ここで死んだ同胞を送る」
タダノは鉱山の奥を見た。
狼族が倒れるたび、ニンゲンは遺体を坑道の外へ運び出した。どこへ捨てたのかさえ教えなかった。
墓はない。
遺体も残っていない。
それでも、狼族は死んだ者たちを忘れてはいなかった。
「僕もいていい?」
ルナは少し考えた。
「余計なことをしないならな」
「分かった」
鉱山の中央に火が作られた。
詰所から運び出した薪を組み、油の染みた布で火をつける。
動ける狼族たちが、その周囲へ集まった。
見張りの者は持ち場を離れない。
眠っている者も起こさなかった。
ラウガが火の前へ立った。
「ここへ連れてこられてから、多くの同胞が死んだ」
誰も声を挟まない。
「石に潰された者。傷を治されず、動けなくなった者。食事を減らされ、朝を迎えられなかった者もいる」
ラウガは、覚えている名を一頭ずつ口にした。
名が呼ばれるたび、群れの中から短い声が返る。
紙には残されなかった名。
文官に数字として処理された者たちの名。
狼族は、そのすべてを覚えていた。
ルナも父のことを思い出した。
ニンゲンと戦い、群れを逃がすために残った父。
父が守ろうとした群れは、多くを失った。
山へ戻ることもできず、首輪をつけられ、この鉱山まで連れてこられた。
それでも、今は自分たちの意思でここに立っている。
父が戻ってくることはない。
死んだ同胞も帰らない。
だが、彼らから奪われたものを、これ以上ニンゲンへ渡すつもりはなかった。
ラウガが最後の名を呼び終える。
しばらく、薪のはぜる音だけが続いた。
やがてラウガが空へ向かって声を上げた。
長く、低い遠吠えだった。
ボルグが続く。
火を囲んでいた狼族たちも、一頭ずつ声を重ねた。
弔いの遠吠えが、鉱山の壁に反響する。
坑道の奥へ届き、門を越え、夜の森へ流れていく。
ルナも声を重ねた。
誰にも止められない声だった。
首輪は締まらない。
息が途切れることもない。
遠吠えが静まるまで、タダノは何も言わなかった。
狼族と同じ場所に座り、火を見ていた。
「ルナ」
弔いが終わると、ラウガが木箱を持ってきた。
「監督官の住居から見つかった」
蓋を開ける。
中には、厚く切られた塩漬け肉が入っていた。
脂の乗った、質の良い肉だった。
鉱山で狼族に与えられていたのは、硬く乾いた肉の切れ端ばかりだ。
監督官たちは、それを食料不足のためだと言っていた。
実際には、自分たちの分を別に隠していた。
ボルグが木箱を見下ろす。
「これを食いながら、俺たちの分を減らしていたのか」
「もう奴らの肉ではない」
ルナは答えた。
「私たちが奪い返した」
狼族には、戦いや狩りのあと、功績を挙げた者へ良い肉を分ける習わしがある。
獲物へ最後の一撃を与えた者だけではない。
仲間を守った者。
敵の進路を塞いだ者。
群れが勝つために働いた者へ、功に応じて肉を渡す。
ラウガが一本の短剣をルナへ差し出した。
「お前が分けろ」
「私が?」
「群れを動かしたのはお前だ」
ルナは短剣を受け取った。
木箱の肉を切り分け、最初の一切れを若い狼族へ渡す。
「傷を負っても、タダノの前を離れなかった」
若い狼族は両手で肉を受け取った。
次はボルグだった。
「兵士を押さえ、道を守った」
ボルグが肉を受け取る。
騎士から奪った長剣は、その傍らに置かれていた。
ルナはラウガにも肉を渡した。
「兵士と騎士を分断した。退路も狭めた」
「受け取ろう」
ラウガは静かに答えた。
最後に、ルナはタダノの前へ立った。
タダノは自分が呼ばれると思っていなかったらしい。座ったまま、ルナを見上げている。
「お前が騎士の剣を止めた」
「でも、倒したのはルナだよ」
「お前が止めなければ、私の攻撃は届かなかった」
ルナは切り分けた肉を差し出す。
「受け取れ」
タダノは肉とルナを交互に見た。
「僕がもらっていいの?」
「功を挙げた者へ渡す肉だ」
タダノは両手で受け取った。
「ありがとう」
ルナが短剣を置こうとすると、ラウガが手を差し出した。
「貸せ」
ラウガは残った肉を一切れ切り、ルナへ差し出した。
「お前の分だ」
「私は分ける側だ」
「群れを動かし、騎士へとどめを刺した者を外す習わしはない」
ルナは少し迷ってから、その肉を受け取った。
タダノも、自分へ渡された肉を拒まなかった。
狼族の習わしをおかしいとも、野蛮だとも言わない。
受け取った肉を見てから、タダノは火の周りにいる狼族たちへ視線を移した。
「これ、焼いてみんなで分けてもいい?」
「お前へ渡した肉だ。どうするかは自分で決めろ」
「じゃあ、みんなで食べたい。騎士を倒したのは、みんなだから」
ルナは返事をせず、ラウガを見た。
ラウガは小さく息を吐く。
「本人がそう望むなら、分ければいい」
肉へ鉄串を通し、火にかざす。
脂が落ち、炎が高くなる。
焼けた肉の匂いが、鉱山に広がった。
タダノへ渡された肉は小さく切り分けられ、火の周りにいる狼族へ配られた。
ほかの肉も焼かれ、見張りをしている者や、詰所で休んでいる者へ運ばれる。
タダノも自分の分を受け取り、一口食べた。
「おいしい」
ボルグがタダノの横へ座った。
「ほかにも捕らわれた同胞がいたら、お前も一緒に来るのか」
タダノは迷わずうなずいた。
「首輪をつけられたガチケモがいるなら行くよ」
「なら、置いてはいかん」
ボルグはそれだけ言い、自分の肉を食べ始めた。
タダノは少し遅れて、自分も受け入れられたのだと気づいたらしい。
嬉しそうに肉を口へ運んだ。
ルナは火を挟んで、その様子を見ていた。
タダノが何者なのかは分からない。
ニンゲンの姿をしている理由も、傷がすぐに治る理由も知らない。
だが、首輪を外せる。
傷ついた狼族を治せる。
敵の剣を止め、狼族の習わしに従って功の肉を受け取った。
少なくとも、次の戦いで置いていく相手ではなかった。
「ルナ」
倉庫を調べていた狼族が、一枚の木札を持ってきた。
荷車へ取りつける移送札だった。
表面には、檻をかたどった印が焼きつけられている。
ラウガが木札を受け取り、印を確かめた。
「この印には見覚えがある」
「どこで見た」
「俺たちが鉱山へ運ばれた時だ。荷車に同じ印がついていた」
ボルグも木札を見る。
「監督官たちの話を聞いたことがある。働けなくなった狼族を、東の街道にある奴隷商館へ送り返すと言っていた」
「送り返して、どうする」
「別の『獣人』と交換するつもりだったらしい」
ニンゲン側の呼び名を、ボルグは不快そうに口にした。
ルナは木札を受け取った。
文字は読めない。
だが、檻の印には新しい汚れが残っている。最近まで使われていた札だった。
「荷車は残っているか」
「門の脇に一台ある」
「道は分かるのか」
ラウガがうなずいた。
「東の街道なら分かる。鉱石を運ぶ荷車も、そこを通っていた」
タダノが立ち上がった。
「そこにガチケモがいるんだね」
「いる可能性は高い」
「じゃあ、行こう」
タダノは本当に、そのまま門へ向かおうとした。
ルナが腕を伸ばし、進路を塞ぐ。
「今から行くつもりか」
「早い方がいいよ」
「行き先しか分かっていない。商館の場所も、敵の数も、捕らわれている同胞の数も知らない」
タダノは門とルナを見比べた。
「まず鉱山の守りを固める。街道を調べる者も出す。動けない者を残して、全員で出ていくこともできない」
「でも、首輪をつけられてるかもしれない」
「分かっている」
ルナはタダノから目を離さなかった。
「だから、確実に連れ戻す準備をする」
タダノは少し考え、門へ向けていた足を戻した。
「分かった。何を手伝えばいい?」
「今夜は休め。お前の服も替えた方がいい」
タダノが自分の服を見下ろす。
騎士の剣と兵士の槍で裂かれ、乾いた血が広がっていた。
「これは着替えた方がいいね」
狼族の一頭が、詰所で見つけた衣服をタダノへ投げた。
タダノは受け取り、頭を下げる。
「ありがとう」
夜が深くなるにつれ、火の周りから狼族が減っていった。
見張りを交代し、残りは詰所や倉庫で身体を休める。
すぐに眠れない者もいた。
横になっても、何度も自分の首へ触れている。
物音がすれば目を開ける。
誰かが命令しに来るのではないか。
首輪が再び締まるのではないか。
身体に染みついた警戒は、一晩では消えない。
それでも、喉を締めるものはなかった。
誰にも起こされず、誰にも働けと命じられない。
狼族たちは、初めて首輪のない夜を迎えていた。
ルナは門の上から、東へ続く道を見た。
鉱山は奪い返した。
ここを守れば、休める場所になる。
食料と武器を蓄え、助けた同胞を連れて戻る場所にもできる。
だが、まだ檻の中にいる者がいる。
夜が明ければ、街道を調べる。
奴隷商館の場所を突き止める。
そして、そこにいる同胞の首輪を外す。
ルナは手の中の移送札を握った。
「次は、奴隷商館だ」




