第3話 戻る牙
槍の穂先がタダノの背へ届く直前、ルナは柄をつかんだ。
兵士が驚いて振り返る。
「な――」
ルナは槍を引き寄せた。
体勢を崩した兵士の胸へ肩からぶつかり、そのまま石壁へ叩きつける。
兵士の手から槍が離れた。
ルナは間を置かず、鎧に守られていない喉へ爪を走らせた。
血が石壁に散る。
兵士は傷口を押さえながら崩れ落ちた。
ルナは自分の首へ手を当てた。
何も起きない。
ニンゲンを攻撃した。
それでも、喉を締める鉄の輪はもうなかった。
「この獣が!」
別の兵士が槍を構えた。
ルナはその前に立つ。
背後では、タダノが倒れかけていた若い狼族の前へしゃがんでいた。
「これも外すね」
タダノが首輪へ手を伸ばす。
若い狼族は怯えた様子で身を引いた。
ニンゲンの姿をした者に、首元を触れられようとしている。恐れるのは当然だった。
「そいつに外させろ」
ルナは兵士から目を離さずに言った。
「私の首輪を外したのは、タダノだ」
若い狼族がルナを見る。
首輪の消えた喉を確かめ、逃げるのをやめた。
タダノの指が留め具へ触れる。
かちり。
二つ目の首輪が石床へ落ちた。
若い狼族は、しばらく動かなかった。
震える手で自分の首元を確かめる。
それから、何度も深く息を吸った。
「外れたよ」
タダノはそれだけ告げると、すぐに立ち上がった。
喜ぶ時間も、説明する時間も取らない。
次の首輪を探している。
「そいつを止めろ!」
監督官が兵士たちへ命じた。
「首輪を壊させるな! 王国の所有物を逃がすつもりだ!」
二人の兵士が前へ出る。
一本目の槍を、ルナが拾った槍で打ち払う。
もう一本が横から迫った。
首輪の外れた若い狼族が、タダノの前へ身体を入れた。
槍先が肩を裂く。
若い狼族が苦痛に顔を歪めた。
それでも退かなかった。
ルナは踏み込み、槍を持つ兵士の足を払った。
兵士が転倒する。
すぐに追撃しようとしたが、別の槍が進路を塞いだ。
兵士たちはまだ多い。
自由に動ける狼族は、ルナと若い狼族だけだった。
「大丈夫。見せて」
タダノが若い狼族の肩へ手を当てる。
流れていた血が止まった。
開いていた傷が、目の前で塞がっていく。
若い狼族は治った肩を動かし、驚いた顔でタダノを見た。
「もう平気だよ」
タダノは立ち上がり、また坑道の奥へ進む。
向かった先には、ラウガがいた。
片耳の裂けた老狼は、首輪をつけたままタダノを見返した。
タダノが手を伸ばしても、ラウガは動かなかった。
わずかに頭を下げ、首輪へ触れやすい姿勢を取る。
かちり。
鉄の輪が落ちた。
ラウガは曲がっていた背を伸ばし、深く息を吸った。
古傷の残る脚は、そのままだ。
片耳の裂け目も消えていない。
だが、喉を押さえていたものだけがなくなった。
ラウガは床の首輪ではなく、ルナを見た。
「命じろ」
ルナは息を詰めた。
「何を」
「群れを動かせ」
ラウガの声に迷いはなかった。
「タダノを守らなければ、残りの首輪は外れん。誰を前へ出し、誰を残すのか、お前が決めろ」
ルナは坑道を見渡した。
入口側には、監督官と兵士たちがいる。
奥には、まだ首輪をつけられた狼族たちがいた。
ルナと若い狼族、それにラウガだけが自由に動ける。
タダノは戦おうともせず、次の狼族へ向かっている。
ここで兵士を追えば、タダノを守れない。
監督官への怒りを優先すれば、首輪をつけられた仲間が残される。
ルナは槍を握り直した。
「首輪のある者は、壁際まで下がれ」
狼族たちがルナを見る。
「ニンゲンへ手を出すな。今は生き残れ。外れた者はタダノの周りを固めろ」
若い狼族がタダノの右へ立った。
「ラウガは左だ。荷車で通路を狭めろ。兵士を奥へ入れるな」
「分かった」
「兵士が下がっても深追いするな。首輪を外す方が先だ」
ラウガが荷車へ手をかけた。
古傷の残る脚で踏ん張り、鉱石を積んだ荷車を坑道の中央へ押し出す。
車輪が石に引っかかり、通路の半分を塞いだ。
兵士たちは横一列に並べなくなった。
一人ずつしか奥へ進めない。
タダノが次の狼族の首輪へ触れる。
かちり。
また一つ、鉄の輪が落ちた。
解放された狼族は、ルナの指示を待った。
「タダノの後ろへ。首輪のある者を守れ」
狼族がすぐに動く。
タダノはすでに、その隣へ手を伸ばしていた。
兵士が荷車を回り込もうとする。
ルナが前へ出て槍を払う。
若い狼族が横から鉱石を蹴り出した。
濡れた石の上へ鉱石が散らばり、兵士の足が止まる。
その隙に、ラウガが荷車をさらに押した。
兵士が壁との間に挟まれ、槍を振り回せなくなる。
ルナは槍の柄を兵士の顔へ打ち込んだ。
兵士が倒れる。
「次だ」
ルナが言う。
タダノの指が首輪へ触れた。
かちり。
今度は、ボルグの首輪が落ちた。
ボルグは二頭分の鉱石を背負ったまま、自分の喉を確かめた。
そして、背負っていた荷を床へ投げ下ろす。
重い音が坑道に響いた。
首輪は反応しない。
ボルグは肩を回し、ルナを見る。
「どこへ行けばいい」
「前だ。兵士をタダノへ近づけるな」
「分かった」
ボルグが荷車の横へ出る。
兵士が槍を突き出した。
ボルグは穂先を腕で払い、兵士の懐へ踏み込んだ。
広い背をぶつけられた兵士が、後ろの仲間ごと倒れる。
兵士たちの列が崩れた。
「押し返せ。追うな!」
ルナの声に、ボルグが足を止める。
倒れた兵士への追撃より、タダノの前を塞ぐことを選んだ。
監督官が入口へ後退する。
「上へ知らせろ!」
文官が書類を捨て、石段へ走った。
ルナは追おうとした。
だが、坑道の奥から槍を持った兵士が近づいている。
ここを離れれば、タダノへ通じる道が空く。
「深追いするな」
自分に言い聞かせるように、ルナは繰り返した。
「首輪を先に外す」
文官は石段の向こうへ消えた。
増援を呼ばれる。
それでも今は、一頭でも多く自由にする方が先だった。
タダノがさらに奥へ進む。
兵士の槍が、首輪を外されたばかりの狼族の脇腹を裂いた。
狼族が壁へ倒れ込む。
タダノはすぐに引き返した。
「傷を見せて」
血に濡れた脇腹へ手を当てる。
傷が塞がり、出血が止まった。
そのすぐ横では、先ほどルナに倒された兵士が息をしていた。
兵士は床を這い、タダノの服をつかもうとした。
「待て……。俺も、治せ……」
タダノは一度だけ兵士を見た。
「ガチケモじゃないから」
それだけ答え、治した狼族を立たせる。
兵士へ手を伸ばすことはなかった。
タダノはまた次の首輪へ向かう。
ルナは、その背中を見た。
狼族を傷つけた者だから見捨てたのではない。
憎んでいる様子もなかった。
タダノにとって、治す理由は「ガチケモ」であることだけらしい。
ニンゲンの姿をしていながら、ニンゲンを助けようとしない。
理解はできない。
だが今は、その異常な線引きが狼族を救っている。
「ルナ!」
ラウガの声で、ルナは入口側へ向き直った。
石段の上から、重い足音が近づいてくる。
兵士のものとは違う。
鉄靴が石段を踏むたび、坑道へ硬い音が響いた。
逃げかけていた兵士たちが足を止める。
怯えていた顔に、安堵が戻っていく。
「騎士様だ!」
誰かが叫んだ。
入口側の暗がりから、大きな影が下りてくる。
肩まで覆う金属の防具。
長い剣。
狼族を前にしても、歩みは変わらない。
鉱山の騎士が剣を抜き、坑道へ入った。




