第2話 ニンゲンの形をした異物
「ガチケモ……?」
ルナは聞き慣れない言葉を繰り返した。
狼族を指しているらしい。だが、群れの名でもなければ、ニンゲンが使う「獣人」という呼び名でもない。
白い光の中から現れた者は、嬉しそうにうなずいた。
「うん。すごい。本当にいる」
何がすごいのか、ルナには分からなかった。
ニンゲンは狼族を見れば、まず身体を見る。
どれだけ働けるか。
いくらで売れるか。
逆らう力が残っているか。
目の前の者には、そうした値踏みがなかった。ただ狼族がここにいることを喜んでいる。
だからこそ、理解できなかった。
「誰だ」
兵士が槍を向けた。
「どこから入った。ここは王国が管理する鉱山だぞ」
見慣れない者は、兵士を一度見ただけだった。
返事はない。
監督官が兵士の前へ出る。その視線は、見慣れない服と消えかけた光の跡を行き来していた。
怒鳴りつける前に、相手の身分を確かめようとしている。
「失礼ですが、どちらの御方でしょうか」
その問いも無視された。
見慣れない者は立ち上がり、ルナへ向かって歩き出した。
「止まれ」
ルナはいつでも動けるよう身構えた。
首輪がわずかに喉へ食い込む。
それでも、相手は止まらない。
ルナではなく、その首元を見ていた。
毛の奥へ食い込んだ鉄の輪。
擦れて固くなった皮膚。
留め具に刻まれた契約印。
さきほどまで浮かべていた笑みが消えた。
「これ、痛いよね」
ルナは答えなかった。
そんなことを尋ねるニンゲンはいなかった。
痛むかどうかなど、監督官たちには関係がない。命令に従わせられれば、それでよいのだ。
見慣れない者が手を伸ばす。
「外すね」
「近づくな」
「すぐ終わるから」
「ニンゲンが首輪を外すものか」
ルナは一歩下がった。
「外したあとで、今度はお前の命令を聞けとでも言うつもりか」
見慣れない者は足を止めた。
少し考えるようにルナを見てから、首を横に振る。
「何も聞かなくていいよ」
「信じると思うか」
「信じなくてもいい。でも、それは外す」
会話が通じているようで、通じていない。
ルナが拒んでいることは分かっているはずなのに、首輪を残すという選択だけはないらしい。
監督官が二人の間へ割り込もうとした。
「お待ちください。それは王国認可の隷属具です。所有者の許可なく触れれば、罪に問われます」
見慣れない者が監督官を見る。
狼族へ向けていた表情は、そこにはなかった。
「どいて」
「ですから、これは鉱山の所有物で――」
「邪魔」
怒鳴りもしなければ、睨みつけもしない。
ただ、首輪へ近づくための進路を塞ぐものとして扱っていた。
監督官の顔が引きつる。
「この者を押さえろ」
兵士たちはすぐには動かなかった。
白い光の中から現れた正体不明の者。
見慣れない衣服。
武器も持たず、狼族に近づこうとしている。
敵なのか、身分の高い者なのか、それすら判断できていない。
その迷いを無視し、見慣れない者は監督官の横を通り過ぎた。
ルナとの距離が縮まる。
「来るな」
警告しても、足は止まらない。
細い腕が、ルナの首元へ伸びてくる。
ルナはその腕へ噛みついた。
布を突き破り、牙が肉へ入る。
血の味が口へ広がった。
これで首輪が反応する。
そう思った。
だが、何も起きなかった。
喉は締まらない。
息も止まらない。
ルナは牙に力を込めた。
それでも首輪は動かなかった。
目の前にいるのは、どう見てもニンゲンの姿をしている。
ニンゲンへ危害を加えれば、首輪がルナを止めるはずだった。
見慣れない者は眉を寄せたが、腕を引かなかった。
殴り返しもしない。
助けを求めることもない。
噛まれていない方の手だけを、ゆっくりと首輪へ近づけてくる。
「大丈夫。怒ってないから」
ルナは牙を離さなかった。
「何をする気だ」
「外すよ」
「やめろ」
「これは、ない方がいい」
指が首輪へ触れた。
「それに触るな!」
監督官の声が坑道に響いた。
兵士たちがようやく動き出す。
だが、見慣れない者の指はすでに留め具へかかっていた。
鍵は使っていない。
契約印へ触れてもいない。
それでも、小さな音がした。
かちり。
鉄の輪が開いた。
ルナの首から重みが消える。
隷属の首輪は、泥に覆われた石床へ落ちた。
ルナは牙を離した。
大きく息を吸う。
喉を押し潰すものはない。
もう一度吸っても、鉄の輪は締まらない。
首元へ手を当てる。
残っているのは、毛の下の擦れ跡だけだった。
「そんな……」
文官が羽根ペンを落とした。
「鍵も契約印も使っていない……」
監督官は床に落ちた首輪を見つめていた。
何が起きたのか理解できていない。
やがて顔を上げ、ルナへ命じる。
「伏せろ!」
ルナは立ったまま、監督官を見返した。
痛みは来ない。
「伏せろと言っている!」
何も起きなかった。
監督官が腰の鍵束へ手を伸ばす。
どの鍵を使っても、床に転がっている首輪をルナの喉へ戻すことはできない。
ルナは見慣れない者へ視線を戻した。
噛みついた腕から、まだ血が流れている。
だが、傷の縁がすでに閉じ始めていた。
牙で開けた穴が縮まり、流れていた血も止まる。
傷跡さえ残らない。
破れた服と付着した血だけが、噛みついたことを示していた。
「お前は何だ」
ルナは尋ねた。
見慣れない者は、自分の腕を確かめようともせずに答える。
「タダノ」
「それが名前か」
「うん。タダノ」
ニンゲンの名にしては聞き慣れない。
そもそも、本当の名なのかどうかも分からない。
それでも、目の前の異物を呼ぶ音は決まった。
タダノはルナの首から落ちた鉄の輪を一度見た。
すぐに、その先へ目を向ける。
そこには、先ほど倒れかけていた若い狼族がいた。
まだ首輪をつけられている。
タダノは迷わず、そちらへ歩き出した。
「待て!」
監督官が叫ぶ。
「それ以上、首輪に触れさせるな! 捕らえろ!」
兵士が槍を構えた。
狙われていることにも気づかず、タダノは若い狼族の前へしゃがもうとしている。
槍の穂先が、その背へ向けられた。
ルナは床を蹴った。
今度は、首輪に止められなかった。




