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第29話 人を拒む海

 奴隷船が、最初の渦へ引かれた。


 船首が右へ曲がる。


 レグルが反対へ舵を切っても、流れの方が強い。


「左の帆を上げろ!」


 船員たちが縄を引く。


 風を受けた帆が、船を渦の外へ押し戻す。


 船腹が渦の端を擦った。


 甲板が大きく傾く。


 ガオンとボルグが転がりかけた荷箱を押さえた。


 チリは帆柱へしがみついている。


「こんなの、海図に描きようがないっス!」


「次が来る!」


 レグルが叫んだ。


 前方の波が、壁のように立ち上がる。


 奴隷船より高い。


 避ける場所はない。


「正面から受けるぞ!何かに掴まれ!」


 レグルが舵を戻す。


 船首が波へ向いた。


 船員たちが縄へ身体を巻きつけ、帆を固定する。


 ルナも船縁を掴んだ。


 タダノは船底の入口に身体を入れ、中にいる者が甲板へ投げ出されないよう押さえている。


 高波が船首へ迫った。


 白い水が、空を隠す。


 波は船を砕かなかった。


 奴隷船の直前で二つに割れた。


 左右から水が甲板へ流れ込む。


 それでも、船は波の間を通り抜けた。


「割れた……?」


 チリが濡れた顔を上げる。


 前方に、波のない場所が生まれていた。


 左右では渦が回り続けている。


 奴隷船の進む先だけ、黒い水面が細い道のように伸びている。


「この血を外れるな!」


 レグルが叫ぶ。


 十八人の船員が一斉に動く。


 風向きは何度も変わる。


 そのたびに別の者が縄を引き、帆の向きを合わせた。


 首輪の命令ではない。


 百五人を生かすため、自分たちで選んだ動きだった。


 レグルが舵を切る。


 ルナは全体を見て、遅れた場所へ仲間を送る。


「ボルグ、右の縄を手伝え!」


「分かった!」


「ガオン、荷箱を船尾へ寄せろ! 船首を軽くする!」


「分かった!」


 ガチケモたちが甲板を走る。


 船は、渦の間を進んだ。


 後ろから大砲の音が響いた。


 黒い軍船も、禁足海域へ入っていた。


「追ってきたっス!」


 チリが振り返る。


 軍船の船首が、渦を押し分けている。


 大きな船体は、奴隷船より波に耐えていた。


 開いた砲門から、黒い砲身がこちらを向く。


 砲声。


 弾が飛んでくる。


 奴隷船との間に、突然、高波が立った。


 黒い弾は波へ飲まれた。


 水面へ落ち、奴隷船まで届かなかった。


「大砲まで止めたっス……」


 ルナは軍船を見る。


 自分たちの乗る奴隷船も、ニンゲンが作ったものだ。


 それでも波は道を開けた。


「船に乗っている者を見ている」


 ルナは隣にいるタダノへ顔を向ける。


「お前は、ニンゲンでありながら拒まれていない」


「神様の言った通りだね」


 タダノは、左右に分かれた波を見た。


 ルナはタダノの腕を見る。


 初めて会った時から、答えは示されていた。


 ルナが腕へ噛みついても、隷属の首輪は動かなかった。


 首輪は、タダノを守るべきニンゲンに含めなかった。


 この海域も、同じ規則でタダノを見ている。


「なら、私たちは進める」


 ルナは前を向いた。


「後ろのニンゲンは、進めない」


     ◇


 黒い軍船の前で、海の道が閉じた。


 奴隷船には左右へ分かれた高波が、軍船へは正面から襲いかかる。


 大きな船体が持ち上げられた。


 甲板にいたニンゲンたちが海へ投げ出される。


 軍船は波を越えた。


 その先に、巨大な渦が開いていた。


 帆を張っても、舵を切っても、船首が渦の中心へ向いていく。


「帆を畳め!」


「大砲を捨てろ!」


 ニンゲンたちの叫びが、波の間から聞こえる。


 遅かった。


 傾いた甲板を、固定の外れた大砲が滑った。


 砲身が帆柱へぶつかる。


 太い柱が折れた。


 黒い帆が、兵士たちの上へ落ちる。


 次の波が船腹へ直撃した。


 板が割れ、海水が流れ込む。


 軍船の後ろ半分が沈み始めた。


 海へ飛び込んだニンゲンが、奴隷船へ向かって泳ごうとする。


 流れが逆向きに変わった。


 ニンゲンの身体を軍船の方へ引き戻す。


 ルナたちは、手を出さなかった。


 鉱山へ来た兵士。


 闘技場で笑っていた観客。


 首輪をつけ、船へ押し込んだ者たち。


 どのニンゲンも、助けを求めた時に手を止めなかった。


 黒い軍船が、渦の中へ引き込まれる。


 最後に残った帆柱も水面から消えた。


 ニンゲンの声は、波に飲まれた。


 レグルと十八人の船員たちは、沈んだ場所を見ていた。


 大砲を持つ軍船に追われれば、奴隷船は逃げるしかなかった。


 以前なら、船を動かすよう命じられ、捕らえられた同胞を次の港へ運ばされていた。


 今は違う。


 自分たちで選んだ航路を進み、ニンゲンの軍船だけが海から拒まれた。


「もう、追いつかれない」


 船員の一人が言った。


 レグルが翼を広げる。


「まだ島へ着いていない。喜ぶのは船を着けてからだ」


 そう言いながら、声からは硬さが消えていた。


 追ってくる船は、もうない。


 奴隷船の前で、渦が一つずつ消えていく。


 高波が低くなる。


 夕日に照らされた海の先に、緑が見えた。


 森に覆われた陸。


 白い砂浜。


 その奥に、山から流れ落ちる細い滝がある。


「島だ!」


 レグルの声が海へ響く。


 神の話ではない。


 百五人全員の目の前に、ニンゲンの入れない島があった。


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