第30話 ガチケモ解放戦線
夜が明けるまで、奴隷船は島の沖で待った。
禁足海域の内側は、別の海のように静かだった。
外では渦と高波が島を囲んでいる。
内側には穏やかな水面が広がり、船を引き込む流れもない。
太陽が昇ると、レグルが空へ上がった。
背中の翼を大きく広げ、島の上を回る。
船から見えなくなるほど遠くまで飛び、しばらくして戻ってきた。
「北側に大きな川がある。森の奥には湖も見えた」
甲板へ降りたレグルが報告する。
「煙はない。道も、建物も、畑も見つからなかった。少なくとも、ニンゲンが住んでいる場所はない」
「食べられるものは」
ルナが尋ねる。
「森に実がなっている。浜の近くには魚も多い。狩りができそうな獣も見えた」
「岸の痕跡は、私が確かめます」
シノが言った。
「上から見えなくても、誰かが通っている可能性はあります」
「私も行く」
ルナは小舟へ乗る者を選んだ。
ルナ、シノ、ラウガ、レグル、タダノ。
チリも乗ろうとしたが、船縁を掴んだまま動かない。
「どうした」
「陸へ着いてから行くっス」
顔色が悪い。
「小さい船は、揺れ方が違うっス……」
「無理に来なくていいよ」
タダノが言う。
「分かってるっス。自分で決めて残るっスよ」
チリは海図を抱え、奴隷船へ残った。
小舟が島へ向かう。
白い砂浜へ近づくと、水の底まで見えた。
魚の群れが、舟の影から逃げていく。
船底が砂へ触れた。
ルナが最初に海へ降りた。
膝より浅い水を歩き、砂浜へ上がる。
首輪はない。
背後から鞭も、命令も来ない。
ここへ入れるニンゲンはいない。
ルナは砂を踏みしめた。
「周囲を調べる」
喜ぶのは、安全を確かめてからだ。
シノが砂浜へ膝をつく。
波打ち際から森の手前まで、細かく目を動かした。
「大きな足跡はあります。四本足の獣です」
「ニンゲンの跡は」
「ありません。靴も、荷車も、刃物で切った木もないです」
ラウガは森の入口へ進み、周囲の臭いを確かめる。
「ガチケモの臭いもない。長く住んでいる者はいないようだ」
タダノが少し残念そうに森を見る。
「先に住んでるガチケモはいないんだ」
「神は、ガチケモが暮らしているとは言っていない」
ルナが答える。
「ガチケモだけが暮らせる島だと言ったんだろう」
「うん」
「なら、これからそうなる」
森の中には、澄んだ水の流れる小川があった。
レグルが先に飲み、臭いと味を確かめる。
タダノも口に含んだ。
「変な味はしないよ」
「お前は毒でも治るんじゃないのか」
ラウガが言った。
「そうかもしれない」
「確かめる役には向いていないな」
レグルがもう一度水を飲む。
「問題ない。船の樽が空になっても、ここで補給できる」
砂浜へ戻ると、ルナは船へ合図を送った。
小舟が何度も島と奴隷船を往復する。
最初に負傷者と子供。
次に、島を調べて住む場所を作れる者。
船員の一部は、船を安全な入り江へ動かすために残る。
ルナが順番を決め、ラウガたちが人数を確かめた。
三人の子供が砂浜へ降りる。
兎族の子供は、最初の一歩を踏み出す前にタダノの袖を掴んだ。
犬族と猫族の子供も反対側へ集まる。
「大丈夫。一緒に行くよ」
タダノは子供たちの頭へ勝手に触れなかった。
袖を掴ませたまま、歩く速さを合わせる。
兎族の子供の足が、砂浜へついた。
首輪のない三人が、波打ち際を走り始めた。
笑い声が上がる。
大人たちも、ようやく周囲を見渡した。
ここには檻がない。
監督官も、奴隷商人も、観客席もない。
誰かに許されなくても、水を飲み、森へ入り、身体を休められる。
百五人全員が島へ降りた時、ルナは最後に人数を確かめた。
港から一人も欠けていない。
◇
その日の夜、砂浜に火が並んだ。
船から下ろした食料を分け、島で捕った魚を焼く。
海の向こうでは、高波が白く見えている。
だが、音は遠い。
火の周りには、鉱山から来た狼族だけでなく、鼠族、虎族、狐族、レグルたち船員、奴隷倉庫から解放された者たちがいた。
ルナは全員の前へ立った。
「この島を、私たちの拠点にする」
話し声が止まる。
「水と食べ物がある。ニンゲンは入れない。負傷者と子供を守りながら、ここで暮らせる」
誰かが息を吐いた。
ようやく逃げなくてよい場所を得た。
それでも、ルナの話は終わらない。
「大陸には、まだ首輪をつけられた同胞がいる」
鉱山。
奴隷商館。
闘技場。
討伐隊。
港の奴隷倉庫と船。
自分たちが見た場所以外にも、囚われたガチケモはいる。
「僕は、また助けに行くよ」
タダノが言った。
「島に着いたら終わりじゃない。まだ首輪をつけられているガチケモがいるなら、僕は外しに行く」
「一人で行くつもりか」
ルナが尋ねる。
「みんながここに残るなら、僕だけでも――」
「また自分を置いていく話をするな」
タダノの言葉が止まった。
ガオンが立ち上がる。
「次はどこだ」
「まだ決めていない」
「決まったら呼べ。俺も行く」
レグルが翼を畳む。
「海を渡るなら、船員がいる。戻る航路も俺たちが探す」
「海図にない港へ入る方法も調べるっス」
チリが紙と炭を持っている。
「助けた人、島に残る人、船に乗る人。今度は先に全部書いておくっスよ」
「大陸へ近づく道は、私が調べます」
シノが続く。
「追手に見つからない上陸場所も探せます」
「島を守る者も必要だ」
ラウガが言う。
「全員で出れば、ここに残る者が危険になる。戦える者を分け、船へ乗る者を鍛えなければならん」
ボルグも、森の方を見る。
「家と、船を直す場所を作る。次に連れてきた者が眠れる場所もいる」
解放された者たちが、自分にできることを口にしていく。
誰も命令されていない。
島へ残ることも、救出へ加わることも、自分で決められる。
ルナは全員を見る。
鉱山では、自分と狼族が生き残ることしか考えられなかった。
今は百五人がいる。
船がある。
海図がある。
首輪を外せるタダノがいる。
そして、解放された者が、次の同胞を解放するために立ち上がっている。
「ここは、逃げ込んで終わる場所ではない」
ルナは言った。
「囚われた同胞を解放し、この島へ連れ帰る。そのための拠点だ」
チリが紙の一番上へ炭を置く。
「自分たちの名前は、どう書くっスか」
ルナは少しだけ考えた。
狼族だけの群れではない。
逃亡奴隷でもない。
ニンゲンに名づけられる集団でもない。
すべてのガチケモが、自分の意思で自由を取り戻すための集まりだった。
「ガチケモ解放戦線」
ルナが答えた。
聞き慣れない言葉に、港で加わった者たちが顔を見合わせる。
「ガチケモとは何だ」
レグルが尋ねた。
「タダノが、種族を分けずに私たちを呼んできた名だ。今度は、私たち自身がその名を選ぶ」
チリが、その名を紙へ書く。
火のそばで、一人ずつ立ち上がる。
戦う者。
船を動かす者。
島を守る者。
傷を治す者。
帰る場所を作る者。
首輪を外された者たちは、もう救われるのを待つだけではない。
次の同胞を解放する側になった。
ニンゲンのいない島から、ガチケモ解放戦線が始まった。




