第25話 誰も置いていかない
港の入口を塞ぐ鎖が、海面へ姿を現した。
一つ一つの輪が、ガオンの腕より太い。
巻き上げられた鎖は、二つの塔の間で真っすぐに張られていく。
「あれが上がりきれば出られない!」
レグルが船尾から叫ぶ。
奴隷船は船着き場を離れたばかりだった。
帆はまだ半分しか上がっていない。
このまま進めば、鎖へ船首をぶつける。
「帆を緩めろ! 港の中で向きを保て!」
レグルの指示で、船員たちが縄を動かす。
船の速度が落ちた。
風と潮に流されないよう、舵を切る。
港の中を回り続けることはできる。
だが、夜明け前の沖向きの風を逃せば、百五人を乗せた重い船では軍船を振り切れない。
港の兵士も増え続けている。
黒い軍船では、畳まれていた帆を広げる準備が始まっていた。
「鎖を下ろす方法は」
ルナが尋ねる。
チリが役所から奪った書類を甲板へ広げる。
「北側の塔に巻き上げ機があるっス。取ってきた鍵で中へ入れるっスよ」
「鎖を下ろすだけなら、僕が行くよ」
タダノが言った。
「船を塔の近くまで寄せて。僕を下ろしたら、みんなは待たなくていい」
ルナがタダノを見る。
「どうやって戻る」
「海に落ちても死なないと思う。あとで岸へ上がって――」
「置いていけと言っているのか」
「船が出られなくなるよりはいいよ」
「駄目だ」
ルナは迷わず答えた。
「でも」
「お前が自分を置いていくと決めるな」
タダノの言葉が止まる。
「鎖は全員で下ろす。全員で船へ戻る」
ガオンが前へ出た。
「巻き上げ機なら、壊せば止まるのか」
「鎖が上がったまま壊れたら、二度と下がらないっス」
チリが答える。
「自分が外す場所を指示するまで、勝手に壊さないでほしいっスよ」
「分かった」
ボルグも立ち上がる。
「鎖を動かすなら、力は必要だ」
「私も行きます」
シノが港の塔を見る。
「正面の階段には兵士がいます。海側に、保守用の足場があるはずです」
「役所の見取り図にも描かれていたっス。巻き上げ機の下まで続いてるっスよ」
チリが書類を指で叩いた。
ルナは船にいる者たちを見る。
解放したばかりの者。
負傷から回復しきっていない者。
三人の子供。
船を動かせる十八人。
「ラウガ」
「分かっている」
老狼が答えた。
「お前たちが戻るまで、船と全員を守る」
「レグル。鎖が下りたら、先に船を港の外へ出せ」
レグルがルナを見る。
「お前たちを残してか」
「鎖が上がり直せば、船まで閉じ込められる。必ず戻る」
「戻る方法は考えているのか」
「これから考える」
レグルは嘴をわずかに開いた。
「無茶な船長だ」
「私は船長ではない」
「なら、無茶な指揮役だ」
船に積まれていた小舟の一艘が海へ下ろされた。
ルナ、タダノ、チリ、シノ、ガオン、ボルグが乗る。
奴隷船が北側の塔へ近づく間に、小舟を海側の足場へ寄せた。
小舟の綱を、石段の脇にある鉄輪へ結ぶ。
「鎖を下ろしたら、合図を出す」
ルナが言う。
「それまで船を守れ」
「任せろ」
ラウガが答えた。
六人は足場へ上がった。
奴隷船は再び風を受け、塔から離れていく。
◇
保守用の足場は、塔の外壁に沿って続いていた。
幅は狭く、海水で濡れている。
先頭はシノとチリ。
その後ろにルナとタダノ。
ガオンとボルグが続く。
「上に四人います」
シノが足を止めた。
「正面の階段から、さらに兵士が来ています」
「別の入口は」
「この先です。壁の裏に扉があります」
足音と臭いだけで、塔の中にいる者の位置を確かめている。
シノは外壁の角を曲がった。
そこには、海へ突き出した小さな扉があった。
チリが役所から持ってきた鍵を差し込む。
「合ってるっス」
錠が外れた。
扉を開けると、巻き上げ機の下へ続く階段がある。
上から兵士が下りてきた。
「いたぞ!」
槍が狭い階段へ突き出される。
タダノが前へ出た。
穂先が胸へ入る。
二本目は腹へ刺さった。
タダノは階段から落ちなかった。
両腕を広げ、後ろにいる者へ槍を通さない。
「今だ!」
ルナがタダノの脇を抜ける。
最初の兵士の腕へ爪を入れた。
シノが反対側から足を払う。
兵士が階段を転がり落ちる。
ガオンがタダノに刺さった槍を柄ごと掴んだ。
上にいる兵士を引き寄せる。
ボルグが肩をぶつけ、壁へ叩きつけた。
六人は階段を上る。
塔の中央には、大きな巻き上げ機があった。
太い鎖を巻き取った輪。
何人もの兵士が押すための棒。
逆向きに回らないよう止めている鉄の爪。
チリは役所から持ち出した修理記録と、巻き上げ機を見比べた。
「あの留め具を外せば、鎖の重さで逆に回るっス」
「一気に外せばいいのか」
「そのままでは棒が弾かれるっス。先に輪を押さえないと、近くにいる者が巻き込まれるっスよ」
チリがガオンとボルグを見る。
「二人で輪を押さえてほしいっス。自分が留め具を外すっス」
「どこを持つ」
「印をつけるっス。そこ以外には触らないでほしいっスよ」
正面の扉が叩かれた。
外から兵士たちが入ろうとしている。
「急げ」
ルナは扉の前へ立つ。
「ここは私とタダノで止める」
扉が開き、槍を持った兵士が入ってきた。
タダノが正面から受け止める。
ルナはその横から兵士へ飛びかかった。
シノも、別の兵士の背後へ回る。
ガオンとボルグが、巻き上げ機の輪を両側から押さえた。
「まだっスよ!」
チリが鉄の留め具へ細い棒を差し込む。
動かない。
チリが細い棒を差し込む位置を変えた。
チリが体重をかける。
留め具が浮いた。
「今っス!」
ガオンとボルグが、巻き上げ機を逆向きへ押す。
重い輪が動き始めた。
鎖の重さが加わり、回転が速くなる。
二人は力を緩めず、棒が跳ねないよう押さえる。
塔全体が震えた。
港の入口で、張られていた鎖が海面へ落ちる。
大量の水しぶきが上がった。
落下で生まれた波が、塔の根元へ押し寄せる。
小舟が波にさらわれる。
「下がったっス!」
チリが叫ぶ。
シノが窓から下を見た。
「小舟が流されます!」
小舟は塔から離れ、港の中へ流されていく。
もう手は届かない。
ルナは海へ目を向けた。
奴隷船が帆を張った。
鎖の沈んだ場所へ向かって進んでくる。
船首が、二つの塔の間を通り抜けた。
海へ出た。
「合図を!」
ルナが言う。
チリが窓から白い布を振った。
船の上でも、ラウガが腕を上げている。
「下へ戻るぞ」
ルナたちは、入ってきた階段を駆け下りた。
タダノが最後尾に立ち、追ってくる兵士の槍を身体で受け止める。
ルナがその脇から兵士を倒し、タダノとともに階段を下りた。
海側の扉から外へ出る。
最後にチリが扉へ鍵をかけた。
石段の下には海しかない。
最初の小舟は、港の奥へ流されていた。
「泳いで船を追うしかないか」
ガオンが海を見る。
「レグルなら飛べる」
タダノが言った。
「チリとシノは運べると思う。ルナも。ガオンとボルグは――」
「一人ずつ運んでいる時間はありません」
シノが答える。
「それに、あの方が運べる重さにも限界があります」
タダノは海へ出た船を見る。
「なら、みんなを先に戻して。僕はここに残る」
「また言うのか」
ルナの耳が後ろへ倒れた。
「僕なら、あとで何とかできるよ」
「できるかどうかではない」
ルナはタダノの服を掴んだ。
「一緒に来た者を、一人だけ残していく気はない」
頭上で、大きな翼が風を打つ音がした。
レグルが戻ってきた。
両腕には、細い縄の端を抱えている。
「これを使え!」
レグルが石段へ下り、ガオンに縄を渡した。
「縄の先に、もう一艘の小舟をつないである。引け!」
ガオンが縄を掴んだ。
ボルグたちも加わる。
六人で縄を引く。
細い縄の先から、小舟が波を越えて近づいてくる。
小舟の船首には太い綱が結ばれ、その先は海へ出た奴隷船へつながっていた。
ガオンとボルグが小舟を石段へ引き寄せ、揺れる船体を押さえる。
チリとシノが先に乗った。
ガオンとボルグが続く。
ルナはタダノを見る。
「今度は一緒に乗るぞ」
「うん」
二人が小舟へ乗る。
「全員いる!」
ガオンが叫ぶ。
六人で、奴隷船へ続く太い綱を手繰る。
奴隷船の船員たちが太い綱を引いた。
小舟が塔から離れ、港の外へ進む。
レグルはその上を飛び、奴隷船まで導いた。
◇
タダノが甲板へ上がると、三人の子供が駆け寄ってきた。
一人が右の袖。
一人が左の袖。
兎族の子供は、腰へしがみついた。
「戻ってきたよ」
タダノが言う。
三人は離れなかった。
タダノも、嫌がってはいない。
ただ、勝手に頭へ触れず、まとわりつかれたまま立っている。
「先に着替えを探す必要がありますね」
シノが、矢と血で破れたタダノの服を見る。
「うん。今度こそお願いするよ」
甲板では、レグルが人数を確かめていた。
百五人。
首輪をつけた者はいない。
港へ残された者もいない。
海図。
食料と水。
船を動かせる者たち。
すべて船にある。
奴隷船は風を受け、大陸から離れていく。
港では、黒い軍船の帆が上がり始めていた。
大砲を備えた船が今すぐ追ってくることはない。
だが、港の警鐘は、海の上まで響いている。
ルナは遠ざかる陸を見た。
まだ、楽園の島がどこにあるのかは分からない。
それでも、最初の壁は越えた。
誰も置いていかずに。




