第20話 海へ続く道
岩壁沿いの曲がり坂を離れたあと、ルナたちは岩に囲まれた窪地へ移動した。
先に逃がしていた者たちも、荷馬車も無事だった。
そこへ、首輪を外された十二人が加わる。
鉱山を出た四十八人。
討伐隊から解放した十二人。
合わせて六十人が、窪地で身体を休めていた。
戦いで傷ついた者は、タダノが順番に治している。
深い傷を負った者もいたが、死んだ者はいなかった。
ルナが岩壁沿いの坂道を戦場に選び、戦えない者を先に離したためだ。
タダノがすぐに傷を塞いだことも大きい。
それでも、血を失った者と、闘技場から来たばかりの者は休ませる必要がある。
すぐに全員で長い距離を移動することはできなかった。
ラウガと狼族たちが、窪地の周囲を見張っている。
チリは奪った食料と武器を数えていた。
ガオンとボルグは、倒した荷車を運び直している。
牛族と熊族も一緒だった。
首輪をつけていた時と違い、誰にも命じられていない。
自分たちが必要だと思い、手を貸している。
窪地の奥には、岩の間から水が流れていた。
シノはそこへ座り、手と膝についた泥を洗っていた。
ベルガンの血も落とす。
何度も水ですすぎ、白い毛に赤い跡が残っていないことを確かめる。
尾についた泥は乾き、毛の奥で固まっていた。
指で解そうとすると、毛が引かれる。
シノの眉間に皺が寄った。
「傷、残ってない?」
後ろからタダノの声がした。
シノは振り返る。
タダノの服には、まだ乾いた血がついている。
だが、身体の傷はすべて塞がっていた。
「ありません。治していただきましたから」
「ならよかった」
タダノはシノの隣へ座らなかった。
少し離れた場所で、次に治療する者がいないか周囲を見ている。
視線が一度、シノの尾で止まった。
すぐに逸らされる。
「気になりますか」
シノが尋ねる。
「え?」
「尾の毛です」
「泥が固まってるから、無理に引っ張ると痛いと思って」
タダノは答えた。
それでも、手を伸ばそうとはしない。
「毛の手入れができるのですか」
「動物が好きで、毛を梳くのもよくやってたんだ」
「私の毛も同じなのですか」
「同じではないと思う。でも、絡んだ毛を痛くしないように解くやり方は変わらないよ」
討伐隊から奪った日用品の中に、小さな木の櫛があった。
シノは汚れが残らなくなるまで洗い、乾かしていた。
その櫛をタダノへ差し出す。
「では、お願いできますか」
タダノの顔が少し明るくなった。
「尾に触ってもいい?」
シノは自分の尾をタダノの方へ向けた。
「構いません。お願いします」
タダノは櫛を受け取った。
いきなり根元から通そうとはしない。
毛先を指で分け、固まった泥を水で濡らす。
片手で毛の根元を押さえ、引かれても痛くないようにしながら、少しずつ櫛を通していく。
毛を無理に引き抜くこともない。
長い毛の流れを確かめ、絡んだ部分だけを先に解している。
「本当に慣れていますね」
「昔、よくやってたから」
タダノは楽しそうだった。
それでも、頼まれた場所以外へ勝手に触れることはない。
シノは肩の力を抜いた。
「次からも、あなたに頼みます」
「うん。いつでも言って」
近くで見ていたチリが、自分の腕の毛をつまんだ。
「自分の毛も、やってもらえるっスか」
「もちろん。触ってもいいなら」
「頼んでるんだから、いいっスよ」
シノの尾が終わると、チリがその場所へ座った。
タダノは、同じ櫛をもう一度水で洗ってから使う。
鼠族の短い毛に合わせ、今度は細かく櫛を動かしていた。
ルナは少し離れた場所で、周辺の地図を広げていた。
その様子を一度だけ見る。
タダノが気づいた。
「ルナもやる?」
「必要ない」
ルナは地図へ視線を戻す。
「今は、次に進む道を決める方が先だ」
「分かった」
ガオンも近くで水を飲んでいた。
タダノがそちらを見る。
「ガオンも――」
「必要ない」
最後まで聞かずに断られた。
タダノは少し残念そうだった。
それでも、自分からガオンの毛へ触ろうとはしなかった。
シノは、その様子を見ていた。
自分たちの毛へ触れるのが好きでも、嫌がる相手には手を出さない。
首輪を外す時にも、タダノは先に触れてよいかを尋ねた。
少なくとも、シノが知っているニンゲンとは違う。
「タダノさん」
「何?」
「その服も、あとで洗ってください。血と泥が残ったままです」
タダノが自分の服を見る。
「着替えがないんだ」
「乾かす間に使える布を探します。汚れたままにしておく理由にはなりません」
「うん。お願いするよ」
シノはうなずいた。
タダノにしてもらうだけではない。
自分にできることは、自分で決める。
◇
日が傾く前に、動ける者が集められた。
ルナの前には、ベルガンから奪った地図が広げられている。
荷車を引かされていた牛族が、地図の端を指した。
「港は、この辺りだ」
「どれくらいかかる」
「街道を使えば三日ほどだ。だが、今の人数で街道を進めば、すぐに見つかる」
「森を通れば」
「五日は見た方がいい。荷馬車と荷車が通れる道を選ぶ必要もある」
ルナは、鉱山と港の間にある道を見る。
ベルガンが呼んだ増援は、二日後に鉱山へ来る。
自分たちが港へ着く前に、追跡を始める可能性が高い。
「港には、どれくらいニンゲンがいる」
「兵士の数までは分からない。俺がいたのは、船着き場の近くにある奴隷倉庫だ」
牛族の声が硬くなる。
「大陸の別の場所へ売る仲間を、船が来るまで入れておく。多い時には、何十人もいた」
「船を動かせる同胞はいるのか」
「いた。海辺で暮らしていた者たちだ。その中に海鳥族が一人いて、腕とは別に背中へ翼を持ち、羽毛で風を読み、帆を扱っていた」
船を奪っても、動かせる者がいなければ大陸を離れられない。
だが、港の倉庫と船には、航海を知る者がいるかもしれない。
「奴隷船は、今も来るのか」
「出入りしているはずだ。食料と水も積み込まれる。港の役所には、航路を描いた海図もある」
チリが地図を覗き込む。
「船と食料だけじゃなく、海図まで必要になるっスね」
「海の向こうに行くのか」
ガオンが尋ねる。
「ニンゲンのいない場所があるなら」
ルナは答えた。
「でも、そんな場所があるかは分からない」
「あるよ」
タダノが言った。
全員の視線が集まる。
「海の向こうに、ガチケモだけが暮らせる島があるって聞いた」
ルナはタダノを見る。
「誰に聞いた」
「ガチケモの神様」
チリが両手で顔を覆った。
「神様っスか……」
「どこにある」
ルナは尋ねる。
「海の向こう」
「海のどちらだ」
「分からない」
「どれくらい離れている」
「それも聞いてない」
チリが顔を上げた。
「それ、何も分からないのと同じっスよ」
「でも、島はあるって」
「神様の話だけで六十人を船に乗せられない」
ルナは言った。
タダノも反論しなかった。
「分かってる。僕も、場所はちゃんと調べた方がいいと思う」
「まず港へ行く」
ルナは地図の港を指した。
「倉庫と船に囚われている同胞を解放する。船、食料、水、海図を手に入れる。船を動かせる者も必要だ」
「島を探すのは、そのあとっスね」
「ああ。本当にあるのか。全員で行ける場所なのか。それを確かめてから決める」
シノが地図へ近づく。
「この牛族の方が港までの道を知っているなら、私が先を調べます」
ルナがシノを見る。
「追跡だけではなく、斥候もできるのか」
「できます。兵士の数、通った荷車、野営した場所も痕跡から判断できます」
「一人で行かせるつもりはない」
「承知しています」
シノはチリを見る。
「チリさんにも、街へ近づいてから手伝っていただきたいです」
「追跡と侵入っスね。任せるっス」
「では、道を決めます」
ルナは地図を畳んだ。
「今夜は負傷者を休ませる。夜明けに出る。荷車の跡は途中で分け、追手には別の道を追わせる」
「今度は、私が痕跡を作ります」
シノが言った。
「ニンゲンには、誰もいない道を追わせます」
あの曲がり坂までは、首輪をつけられ、同胞を追わされていた狐族だった。
次は、自分の意思で仲間の先を歩く。
向かうのは、港の奴隷倉庫。
奪うのは、海へ出るための船。
六十人は、もう鉱山へ戻らない。
次の同胞を解放し、大陸を離れるための道を進み始める。




