第16話 追う狐
「跡を探せ」
シノは濡れた土へ片膝をついた。
昨夜の雨が残っている。
膝の毛へ泥が染み込み、指の間にも黒い土が入り込んだ。
本当なら、すぐに水で洗い流したかった。
だが、今は自分の毛を整えるために動くだけでも、背後の兵士に蹴られる。
シノは泥へ鼻を近づけた。
土と草。
馬の汗。
鉄。
乾きかけたニンゲンの血。
いくつもの臭いの中から、一頭の馬が残したものを拾う。
鉱山から逃げ帰った兵士が乗っていた馬だ。
同じ蹄の跡が、森の奥から続いている。
「鉱山へ向かう道で間違いありません」
シノが答えると、首の後ろに立っていた兵士が鼻を鳴らした。
「そんなことは分かっている。ほかの臭いはないのか」
革靴の先が、シノの尾を踏んだ。
白い毛へ泥が擦りつけられる。
シノは身体を動かさなかった。
尾を引けば、逃げようとしたと受け取られるかもしれない。
「少し古いですが、荷車が何度も通っています。狼族の臭いも残っています」
「数は」
「ここでは分かりません。臭いが重なっています」
嘘ではない。
それでも、隷属の首輪がわずかに熱を持った。
答えを濁したことまで、首輪は逆らう意思と判断したらしい。
喉の奥が焼ける前に、シノは言葉を足す。
「十人や二十人ではありません。もっと多くいます」
首輪の熱が引いた。
後ろの兵士が、踏んでいた尾を離す。
シノは立ち上がり、尾の先についた泥を指で払った。
一度では落ちない。
触れれば触れるほど汚れが広がる。
それでも、そのままにしておくことはできなかった。
「狐」
道の中央から声が飛んできた。
ベルガン卿が、馬上からシノを見下ろしている。
身体には狩りで使う革鎧をつけ、腰には長い剣を下げていた。
その後ろに、四十八人のニンゲンが続いている。
鉱石の荷が途絶えてから、ベルガンは兵士と物資を集めていた。
昨夜、鉱山から逃げ帰った兵士が現れたことで、出発が早まった。
槍と盾を持つ兵士。
弓を背負った兵士。
馬に乗った兵士。
鉱山を調べに行き、一人だけ逃げ帰った兵士もいた。
腕に布を巻き、何度も後ろを振り返っている。
「鉱山へ着いたあと、獣どもが逃げていたら、お前が追う」
ベルガンが言った。
「一頭も見失うな。わざと道を間違えれば、お前だけではなく、荷を運んでいる獣の首輪も締める」
道の後ろには、二台の荷車があった。
武器。
食料。
縄。
まだ誰の首にもついていない、新しい隷属の首輪。
それらを運ばされているのは、シノと同じように首輪をつけられた者たちだった。
荷車を引く牛族が四人。
荷物を背負わされた熊族が三人。
犬族が二人と、鹿族が二人。
シノを含めて十二人いる。
全員の首に、隷属の首輪があった。
「承知しました」
シノは頭を下げた。
そう答える以外の自由はない。
ベルガンが馬を進める。
兵士がシノの背を槍の柄で押した。
「先へ行け。罠がないか調べろ」
シノは森の道を歩き始めた。
鉱山には四十を超える同胞がいると、逃げ帰った兵士が話していた。
種族は一つではない。
そして、誰の首にも隷属の首輪がなかったという。
その話をした兵士は、酒を飲みながら何度も同じ言葉を繰り返していた。
首輪がない。
ニンゲンを倒した。
鉱山を奪った。
シノは信じていなかった。
信じれば、そこへ連れていかれる今の状況に期待してしまう。
期待したものが何もなかった時、歩き続ける力まで失う。
それでも、森の奥から流れてくる狼族の臭いを嗅ぐたび、耳が前を向いた。
泥のついた尾を押さえ、シノは鉱山へ続く道を進んだ。
◇
「討伐隊だ」
鉱山へ戻った狼族の声で、休んでいた者たちが顔を上げた。
夜が明けてから、まだあまり時間は経っていない。
闘技場から戻った者たちも、十分に疲れを取れていなかった。
ルナは狼族を詰所へ入れた。
「どこで見た」
「東の尾根だ。鉱山へ続く道を進んでいる」
「数は」
「ニンゲンが五十人近く。荷車が二台。馬に乗った者もいる」
予想より早い。
逃げた兵士は、その日のうちにベルガンのもとへ着いていたらしい。
「ほかには」
「首輪をつけられた同胞がいる。十二人だ。牛族が荷車を引かされていた。狐族の女が先頭を歩かされている」
「追跡役っスね」
書類をまとめていたチリが言った。
「狐族なら、臭いも足跡も見つけられるっス。大勢で逃げたら、隠しきれないっスよ」
ラウガがルナを見る。
「どうする」
鉱山には四十八人がいる。
戦える狼族。
商館から助け出した者たち。
闘技場から来たばかりの十二人。
傷はタダノが治している。
だが、失った体力までは戻らない。
武器を持って戦える者だけなら、討伐隊より少なかった。
鉱山の門を閉ざせば、正面から来る敵は止められる。
壁の上から石を落とすこともできる。
それでも、ルナは鉱山で戦う光景を頭に浮かべなかった。
門の前へ、首輪をつけられた同胞を立たされる。
その後ろから、矢を射かけられる。
ニンゲンは食料を持っている。
鉱山を囲まれれば、傷ついた者から動けなくなる。
タダノが一つの場所を守っている間に、別の場所から兵士が入ってくるかもしれない。
ここは、守る場所ではない。
「鉱山を捨てる」
ルナは言った。
詰所にいた者たちが黙る。
ラウガだけは、すぐにうなずいた。
「いつ出る」
「今だ。全員を起こせ」
チリが机の書類を革袋へ詰め始める。
「食料は、まとめてある分を全部持っていくっスか」
「日持ちするものを優先しろ。水と毛布もいる。鉱石は一つも持つな」
「分かったっス」
「ラウガ。先に六人連れて、岩壁沿いの曲がり坂までの道を確かめろ」
鉱山から離れた古い運搬路に、急な坂がある。
岩壁に沿って道が三度折れ、その外側は木の生えた斜面になっている。
大勢で進んでも、曲がり角ごとに隊列が分かれる。
荷車があれば、さらに長く伸びる。
「あそこで迎え撃つのか」
「まだ決めることがある。道を見てから配置する」
ルナは戻ってきた狼族へ向き直った。
「敵が今の速さで進めば、いつ着く」
「昼を過ぎる前だ」
「なら、半日もない。戻ったばかりで悪いが、もう一度先へ出てくれ」
「任せろ」
狼族が詰所を出る。
その直後、入口を塞ぐようにガオンが立った。
近くにいた者から話を聞いたらしい。
「ニンゲンが来るのか」
「ああ」
「なら、ここで待てばいい。門なら俺が守る」
「門の外に、首輪をつけられた同胞がいる」
ガオンの眉間に皺が寄った。
「何人だ」
「十二人。ニンゲンの荷物を運ばされている」
ガオンは何も言わなくなった。
闘技場では、首輪をつけられた犬族を目の前へ出され、殺すよう命じられた。
同じことを、今度は鉱山の門で繰り返される。
「鉱山を捨てて、岩壁沿いの曲がり坂まで移動する」
ルナは言った。
「歩けない者と荷物を先へ運ぶ。そのあと、追ってきたニンゲンを迎え撃つ」
「逃げるのではないのか」
「戦う場所を、こちらで選ぶ」
ガオンが口の端を上げた。
「なら、荷車を出せ。俺が押す」
鉱山の中が、一斉に動き始めた。
ルナは、全員へ聞こえる場所でもう一度告げた。
「ニンゲンの討伐隊が近づいている。私たちは鉱山を捨てる」
商館から来た者たちと、闘技場から来た者たちもルナを見る。
「一緒に来るか、別の道を選ぶかは自分で決めろ。ただし、今ここへ残れば、ニンゲンに囲まれる」
すぐに答えられない者もいた。
首輪が外れても、行く先まで自分で決めたことのない者は多い。
やがて、闘技場から来た牛族が荷車の棒を握った。
「俺は一緒に行く。まだ戦えるほど動けないが、これなら引ける」
ほかの者たちも、それぞれ荷物や武器を手に取った。
鉱山へ残ることを選ぶ者はいなかった。
闘技場から奪った荷馬車には、まだ長く歩けない者を乗せる。
鉱石を運ぶために使われていた二台の荷車には、食料、水、毛布を積む。
すべてを持ち出すことはできない。
重い道具。
残った鉱石。
すぐに傷む食べ物。
もう使うことのないニンゲンの帳簿。
持てないものは、その場へ残した。
「これはいるっス!」
チリが、鉱山周辺の道が描かれた紙を革袋へ押し込む。
「そっちの数字だけの紙はいらないっス! 燃やしても食べられないっスよ!」
仕分けを手伝っていた狼族が、慌てて帳簿を机へ戻した。
ボルグとガオンは、水の樽を荷車へ積んでいる。
一人では抱えられない樽を、ガオンが持ち上げた。
ボルグが荷台の上で受け取り、縄で固定する。
「次だ」
「まだ持てるのか」
「話している間に運べ」
「分かった」
二人の周囲だけ、荷物が急速に片づいていった。
タダノは、出発する者を一人ずつ見ていた。
傷が開いている者はいないか。
荷馬車へ乗せる必要がある者は誰か。
歩ける者にも無理をさせず、途中で交代する順番を決めている。
「ルナ」
タダノが呼んだ。
「闘技場から来た五人は、まだ長く歩けない。馬車に乗せれば移動はできるよ」
「ほかは」
「交代で休めば大丈夫。でも、戦わせない方がいい人もいる」
「名前をラウガにも伝えておけ。戦う者の中へ入れない」
「分かった」
命令を出し終えたあと、ルナは鉱山の奥を見た。
ここで首輪をつけられた。
石を掘らされた。
倒れた同胞は、役人の帳簿に数として書かれた。
それでも、ここでタダノと会った。
首輪を外し、ニンゲンへ反撃し、初めて自分たちで手に入れた場所でもある。
だが、鉱山そのものが自由なのではない。
首輪をつけず、自分で行く先を選べることが自由なのだ。
「ルナ」
ラウガが呼んでいる。
先へ出る者たちの準備が整っていた。
ルナは鉱山の奥へ背を向ける。
「行くぞ」
四十八人が、順番に門を出た。
最初に、道を確かめる狼族。
その後ろに、怪我人を乗せた荷馬車と、物資を積んだ二台の荷車。
戦える者たちは左右と後ろを歩く。
ルナは最後まで門の前に残り、誰も鉱山に残っていないことを確かめた。
全員いる。
タダノも外へ出ている。
門は閉めなかった。
すぐに逃げたと思わせるため、荷車の轍も足跡も消していない。
ラウガが地面を見る。
「このまま残すのか」
「ああ。追わせる」
「狐族がいる。罠だと気づくかもしれん」
「気づいても、首輪で従わせているニンゲンが話を聞くとは限らない」
ルナは道の先を見る。
「それに、追跡役が先頭にいるなら、敵の後ろへ回り込む必要がなくなる」
タダノがルナを見る。
「その狐族の首輪を外すんだね」
「狐族だけではない。十二人全員だ」
「うん」
「ただし、お前一人で行くな。道は私たちが開ける」
タダノは少し驚いた顔をしたあと、うなずいた。
「分かった。みんなで行こう」
ルナたちは鉱山を離れた。
逃げるためではない。
追ってくるニンゲンを、自分たちが選んだ場所へ連れていくために。
◇
鉱山の門は開いていた。
シノは兵士より先に中へ入った。
火の消えたかまど。
空になった食料棚。
床へ落ちた毛布の切れ端。
誰の姿もない。
ベルガンが馬を下り、詰所の扉を蹴り開けた。
「逃げたか」
返事をする者はいない。
鉱山から逃げ帰った兵士が、辺りを見回す。
「ここにいたんです。本当に、四十以上の獣が――」
「分かっている!」
ベルガンが怒鳴った。
「狐を門へ連れていけ。まだ遠くへは行っていない」
シノは再び鉱山の外へ出された。
道には、大勢の足跡が残っている。
荷馬車の車輪。
二台の荷車が刻んだ轍。
狼族、虎族、鼠族、鹿族、牛族。
ほかにも、いくつもの臭いが重なっていた。
シノは地面へ手をつく。
土はまだ乾いていない。
出発してから、それほど時間は経っていなかった。
「どちらだ」
兵士が尋ねる。
シノは道の先を指した。
「古い運搬路へ向かっています」
「距離は」
「分かりません。ただ、この進み方なら、怪我人も一緒です」
「なら追いつけるな」
兵士が笑う。
シノは答えなかった。
足跡は多い。
だが、乱れてはいなかった。
歩けない者を置き去りにした跡もない。
荷車の轍は一定で、途中で荷物を捨てた跡もなかった。
これだけの集団が、慌てずに鉱山を離れている。
それなのに、痕跡だけが不自然なほど分かりやすい。
シノは道の先を見た。
古い運搬路は、この先で岩壁沿いの曲がり坂へ入る。
道幅が狭く、何度も大きく曲がる場所だ。
荷車を含む討伐隊が入れば、隊列は長く伸びる。
逃げた者たちが、それを知らないとは思えなかった。
「何を止まっている」
兵士がシノの背を槍の柄で押した。
「道は合っているのか」
「はい。このまま古い運搬路です」
シノは、それ以上のことを言わなかった。
命じられたのは、足跡を追うことだけだ。
ニンゲンへ危険を教えるようには命じられていない。
道の先からは、首輪のない狼族の臭いが流れてくる。
ただ逃げている者の残す足跡ではない。
ニンゲンを、自分たちの選んだ場所へ導くための足跡だ。
シノは先頭に立ち、岩壁沿いの曲がり坂へ向かって歩き始めた。
討伐隊はまだ、自分たちが追う側だと思っていた。




