第12話 潰された異物
タダノは試合場を囲む柵の前で止まった。
砂までの高さは、タダノの背丈より少し低い。
近くにいた係員が腕を掴もうとする。
「商人は席へ戻れ」
タダノが腕を引くと、係員の手が外れた。
そのまま、柵へ片脚をかける。
「おい、何をしている!」
柵を越え、そのまま試合場へ飛び降りた。
着地に失敗し、片膝を砂へつく。
観客席から笑い声が上がった。
「何だ、あいつは」
「次の見世物か?」
タダノは立ち上がった。
観客も、管理席も見ない。
傷ついた犬族だけを見ている。
犬族は腹を押さえ、試合場の中央に立っていた。
巻かれた布から、血が砂へ落ちている。
タダノが近づく。
「待ってて。すぐ治すから」
犬族が後ずさった。
「来るな」
「大丈夫」
「近づくな!」
犬族の声が裏返る。
ニンゲンが笑顔で近づいてくる理由など知らない。
治すと言われて、信じられるはずもなかった。
その間へ、ガオンが入った。
大きな身体が、タダノと犬族を隔てる。
「そいつに触るな」
タダノはガオンを見上げた。
「怪我してる」
「見れば分かる」
「治すよ」
「ニンゲンの言葉は信じない」
ガオンは足を開き、いつでも動けるよう構えた。
タダノは武器を持っていない。
それでも、傷ついた犬族へ近づこうとしている。
ガオンには、何をするつもりなのか分からない。
処分するために来たのかもしれない。
管理席のニンゲンが立ち上がった。
だが、観客席から笑い声が広がると、鉄門の向こうで動きかけた兵士たちを片手で制した。
「待て。少し見ろ」
タダノは止まらなかった。
「どいて。治せない」
「止まれ」
「嫌だ」
ガオンが拳を握った。
ニンゲンへ攻撃すれば、首輪が喉を締める。
そんなことは何度も試している。
兵士を殴ろうとした時。
闘技場主へ飛びかかろうとした時。
観客席へ上がろうとした時。
動く前に首輪が反応した。
それでも、目の前のニンゲンを通すことはできない。
ガオンは踏み込んだ。
拳がタダノの腹へ入る。
タダノの身体が浮いた。
首輪の痛みは来ない。
ガオンの目が見開かれる。
拳は間違いなく、ニンゲンの形をした者へ届いた。
だが、首輪は反応していない。
考える時間はなかった。
ガオンはタダノの身体を掴んだ。
そのまま持ち上げ、砂へ叩きつける。
重い音が試合場へ響いた。
タダノの身体が砂の上で跳ねる。
観客席から歓声が上がった。
「やれ!」
「そいつも潰せ!」
ガオンはタダノを放さなかった。
再び持ち上げ、今度は試合場を囲む石壁へ投げつける。
背中から壁へ当たる。
骨の折れる音がした。
タダノの身体が砂へ落ちる。
動かない。
観客が立ち上がり、声を上げている。
予定にない乱入まで、見世物の一部だと思っていた。
ガオンは自分の首輪へ手を当てた。
痛みはない。
鉄の輪は、何の反応も示していない。
「なぜだ」
目の前にいる者は、ニンゲンの形をしている。
それなのに、首輪は攻撃を止めなかった。
犬族が壁際へ下がる。
「ガオン……」
「近づくな」
ガオンは倒れたタダノから目を離さなかった。
◇
観客の歓声は、闘技場の外まで響いていた。
裏門を守る二人の兵士も、試合場の方へ顔を向けている。
「今だ」
ルナの声で、狼族たちが動いた。
ボルグが右側の兵士へ飛びかかる。
槍を持つ腕を掴み、そのまま門へ叩きつけた。
もう一人の兵士が振り向く。
剣を抜くより早く、ルナが懐へ入った。
腕を払い、喉へ爪を入れる。
二人の兵士が地面へ倒れた。
「チリ」
「今、開けるっス」
裏門には大きな錠前がついている。
チリは毛の中から針金を取り出し、鍵穴へ入れた。
中の金具を探る。
一度、針金の先が滑る。
チリは手を止めない。
角度を変え、もう一度差し込む。
錠前から小さな音がした。
「開いたっス」
ボルグが門を引く。
闘士を乗せた荷車が通れる幅の道が、闘技場の中へ続いている。
「一人はここに残れ」
ルナは狼族の一人を裏門へ残した。
「逃げ道を確保しろ。ニンゲンが来たら、中へ入れるな」
ルナ、ボルグ、残る三人の狼族とチリが、通路へ入る。
石壁の向こうから、観客の声が聞こえる。
通路は途中で二つに分かれていた。
右は上へ。
左は地下へ続いている。
「檻は下っス」
チリが言った。
左の壁に、鉄格子を模した印が刻まれている。
ルナたちは石段を下りた。
地下の空気は湿っていた。
血と汚れた藁の臭いが混ざっている。
階段の下に、二人の兵士がいた。
「誰だ!」
一人が槍を構える。
ボルグが正面から槍を受けた。
穂先を避け、柄を両手で掴む。
兵士が引き戻そうとする。
その横をルナが抜けた。
二人目の兵士が剣を振る。
ルナは身を沈め、兵士の脇へ入った。
爪が鎧の隙間へ届く。
兵士が声を上げ、壁へ倒れた。
ボルグも槍を奪い、最初の兵士を床へ押し倒す。
狼族がその喉へとどめを刺した。
通路の奥から、別の足音が聞こえた。
闘技場の係員が走ってくる。
「大変だ! ガオンがニンゲンを殺した!」
係員はルナたちを見て足を止めた。
「狼が、どうして――」
最後まで言わせなかった。
ボルグが奪った槍を突き出す。
係員の身体が石床へ倒れた。
チリがルナを見る。
「試合場にいるニンゲンって……」
「タダノだ」
ルナは短く答えた。
待てと言った。
タダノもうなずいた。
それでも、傷ついたガチケモを見れば、待てるはずがなかった。
「予定を変える」
ルナは通路の先を見る。
「チリは檻を開けろ。ボルグは地下へ来る兵士を止めろ。二人は試合場へ続く門を押さえろ」
「ルナはどうする」
「タダノを連れ戻す」
通路の奥には、六つの檻が並んでいた。
中にいるのは十人。
鹿族が檻の中で横になっていた。
さっきの試合で負った傷から、まだ血を流している。
ほかの者たちも、ルナたちを警戒している。
「狼族が、どうしてここに……」
檻の中から声がした。
「何をしに来た」
「首輪を外しに来た」
ルナは答えた。
「外せるのか」
「タダノなら外せる」
「そのタダノはどこだ」
頭上から、大きな歓声が響いた。
ルナは試合場へ続く通路を見た。
「今、迎えに行く」
チリが最初の檻の前へ座った。
針金を鍵穴へ入れる。
ルナは二人の狼族を連れ、試合場へ続く石段を上がった。
◇
砂の上で、タダノの指が動いた。
ガオンが身体を構える。
折れていた腕が、元の位置へ戻っていく。
曲がっていた背中が伸びる。
タダノは両手を砂へつき、ゆっくりと立ち上がった。
観客の声が止まる。
闘技場を埋めていた歓声が、一瞬で消えた。
タダノは首を回した。
折れていたはずの骨は、もう戻っている。
服には砂と血がつき、背中が大きく裂けていた。
身体には傷が残っていない。
「何だ、お前は」
ガオンが尋ねる。
「タダノ」
「名前を聞いたんじゃない」
タダノは答えなかった。
傷ついた犬族を見る。
「治す」
ガオンがもう一度、進路を塞ぐ。
「そいつへ近づくな」
「血が出てる」
「お前はニンゲンだ」
「違うよ」
短い返事だった。
ガオンはタダノを見た。
ニンゲンの形をしている。
だが、首輪はこの者への攻撃を止めなかった。
潰した身体も、すぐに元へ戻った。
管理席のニンゲンが叫ぶ。
「ガオン! 乱入者を押さえろ!」
首輪が締まる。
今度は反応した。
ガオンの身体が止まる。
命令に逆らえば、喉を潰される。
ガオンは片膝をついた。
その横を、タダノが通り過ぎる。
犬族の前へしゃがんだ。
「触るね」
犬族は逃げなかった。
タダノの手が、腹の傷へ触れる。
布へ広がっていた血が止まる。
裂けていた傷が塞がっていく。
犬族が自分の腹を押さえた。
「痛くない……」
「よかった」
タダノの手が、犬族の首輪に触れた。
かちり。
鉄の輪が開き、砂の上へ落ちる。
観客席のニンゲンたちがざわめいた。
管理席から怒鳴り声が飛ぶ。
「何をした!」
犬族は首輪の落ちた喉へ手を当てている。
まだ、すぐには動けない。
タダノはガオンを見た。
ガオンは首輪に喉を締められ、片膝をついている。
タダノが走った。
ガオンの前へ膝をつく。
「何をする」
「首輪を外す」
タダノが手を伸ばす。
ガオンはその手を見た。
自分が叩き潰した相手。
ニンゲンの形をしながら、首輪が反応しなかった相手。
傷ついた犬族を治し、その首輪を外した相手。
ガオンは動かなかった。
タダノの指が首輪に触れる。
かちり。
ガオンの喉から、隷属の首輪が落ちた。
管理席から怒鳴り声が飛ぶ。
「兵士を入れろ! そいつを殺せ!」
試合場の鉄門が開く。
六人の兵士が、槍を構えて入ってきた。




